蛇足 都合の良い夢が見れたなら

「ねえ、起きてよ」


 僕は、その言葉に導かれて瞼を開けた。或いは、起きてなんかなかったのかもしれない。まだ夢の中で、幸せになろうとしがみついているに過ぎないのかもしれない。


 それでも、居た。あの日、寒い夜、暖かい心と共に消えた、彼女が。僕の目の前に立って、微笑んでいる。


「そんなの、信じらんないよ」


 そうなったらいいなと考えたことは、何度もあった。窒息しそうな程、息苦しい暗闇の自室で。無機でしかなくなった、他人ばかりの教室で。こんな寒い夜に、握ってもいい暖かい手の無い冬の町中で。


 自分の独りを実感する度に、幾度となく彼女の顔が思い浮かんだ。その時は辛くて、泣きそうになる。死んで、彼女に会えないかって百回も千回も考えた。彼女のいない世界の時が、僕の中で空漠になるばかりなら、なんの変化もしないこと。それに慣れてきてしまう自分が耐えられなくて、日常の中に溶け込もうとする度にそうなって。

 だから僕は、日常から我が身を遠ざけたくらいだったのに。こんな簡単な方法で会えたんだと思うと、虚しいとしか思えない。


「うん、だって私、死んじゃったし」


 でも、死んでいる。分かっている、彼女がもう居ないことくらい。それでもそう信じたい僕を、彼女自身が残酷に突き放す。訳が分からなくなって、錯乱した脳みそでは思考が纏まらなかった。


「やめてくれよ、そんなこと言いに、こんなとこまで来たのか」


「来ない方が、良かった?」


 そりゃあ、来て欲しくなんかなかった。もう、会えなくなりたかった。君を......僕の心の片隅で、一ページにするって、そう決めたばかりだったのに。


 それでも、来なくて良かったなんて、言えるわけがないのに。


「やめてくれよ......なんでだよ......」


 静かに、泣いていた。際限なく落ちる悲哀の露を、どうしようも出来ない。垂れ流されるそれを、必死に拭った。彼女の姿を一度見失ったら、もう会えないはずだからだ。余裕ない感じで、彼女は笑う。


「私が、我慢出来なくなっちゃった」


 か細い腕が、情けない男を優しく締めつけた。彼女は力一杯のはずなのに、僕の体を抱く感触は冷たく、頼りなく震えていた。

僕は今、彼女の顔を見てはいけない気がした。


「ごめんね。我儘ばっかりで」


 ──どうか、その我儘をずっと叶え続けていてくれ。


 嗚咽に言葉を奪われて、口から言葉が出て行かなかった。早く、言えなかったこと全て伝えなければ、時間が無いことはわかっているのに。


「もうずっと、ずっとこうしていたいね。離したくないね」


 ──僕もだ、そうなんだよ。だからもう、ずっとここに居られないか。夢でいいよ、夢がいいよ。生きるの、本当は辛くてたまらないんだ。君がいない世界に一人、空気みたいに漂って、溶けて混ざって、何にもなれない。そんな未来ばかり連想してしまう。いつしか心も折れてしまって、どこにも行けなくなっちゃった。その責任をどうか、取ってください。僕はずっと、ここに居たいのです。


 言いたいけど、言えなかった。声にならない言葉、それが結局、答えだった。僕は再生をしようとした。一ページだけ、欲張りを自身に許して、彼女を愛していた記憶は薄まって、そういう道をこれから歩むつもりで居た。


 ──忘れられるわけ無いんだ、本当は。けれど、彼女を想う度にこんなになるんじゃ、僕は確かに現実を生きていけないじゃないか。

 もし、それでも現実に生きるのなら、彼女をここに置いていかなければならない。そんな選択を委ねられたところで、どうにもできない。


 立ち上がりたくなかった。もう未来永劫、こうして彼女にうずまっていたかった。


「美味しくなかったよ、マロングラッセ」


「ごめんね」


「僕が、腐らせちゃったんだ。だから、また作って。今度は美味しいやつが食べたいんだよ。腐ってなくて、僕のみたいに不格好でもないの」


 言えなかったこと全て、言おうと思ったらこうやって、下らないことばっかが言葉に出た。要領得ない言葉に託すのは、目が覚めて、夢が終わってもずっとこうしていられないか。そんな願望だった。


「できないよ......私は死んだんだから」


 彼女がそう発した時、今までどこなのかよく分からない空間に居た感覚が薄れていく。あまりに早すぎる、現実に引き戻される合図だった。


「なんで、死んでんだよ」


「世界に殺されちゃってさ」


「だったら僕が、世界を殺したのに 」


「嘘だよ、誰にも殺されてないよ私は」


 いっそ誰かに、殺されてくれていたなら。誰かを恨んで、それで生きられたのに。事実が顕になると、僕はもう夢にはいられなくなっていく。泣き疲れて、温度のない彼女の膝を枕にして、寝ていた。そんな悠久の時を最後にするのが、たまらなかった。けど、体は鉛のように重かった。もうすぐ僕は、彼女を手放さなくてはならないのだと自覚した。


「君に溺れて、このまま死にたいんだよ」


 嗄れた声でそう言った。子犬が請いるような、惨めな姿になっていた。


「そう言うと思ってさ」


 慰めるように頭を撫でられる。その手が、薄くなって、光の粒になって消えていくのを見た。どうにも出来ない終わりを、悟った。


「呪いにきたの、君を」


 らんとした目で僕を見る、彼女をとにかく焼付けた。


「君がどうしても、生きたくて仕方無くなる呪文を残しに」


 唇が動く、それが、この場所の真相だった。もっと話したかったとか、いっそのこと死にたいって感情に、整理がつかなかった。なのに、笑うのだ、彼女は。だから僕も、笑おうとした。終わりを認めてしまうことを、もう一度やろうとした。


「私の分まで生きてください。なんて、どうかな?」


 あっさり、呪われた。これで僕は、死ねなくなった。なのに、彼女の体が薄れて消えていく。なんてずるい人なんだろう。


「最低だ」


「うん」


一生賭けなきゃそんなの、できっこないじゃないか 」


 夢を、手放す。そうやって、消えていく。彼女を置いていく、そうしなきゃ僕は生きられないからだ。たまらなく辛い僕のことを、わかってくれているのに、その上で彼女は残酷に、告げる。


「私のために一生をけてよ」


 頷くしかなかった。もう黙って、頷くのを繰り返して、余力なんてなかった。僕の青春の一ページを、彼女はビリビリに破いた。喉が裂けるように痛くて、声がほとんど出ないけど、発狂しそうになった。


 苦い涙はまだ、枯れていなかった。


「ホワイトデー、ありがとう。あっちで大事に食べるから」


「......うん」


「またね、じゃあね」


 振り払うように、彼女は手を振った。その姿を、雫の群れに隠されていく。咄嗟に、手が前へ出て、空を掴んだ。そこから、何も得られないことを知って、みっともなく呟いた。


「......行かないで」


 散り散りになった一ページ。拾い集めるには、分散し過ぎていた。だから僕は一欠片だけ、掴まえた。そのくらいはどうか、許して欲しかった。


 ○


 目の前は現実になった。夜を越えて、2月15日の朝日が昇る。小鳥のさえずりで意識が覚醒すると、体が遅れて寒さを想起し、身震いをした。頭が重いのは、彼女の墓石に背中を預けて寝ていたからだ。

 振り向いて、墓石を撫ぜる。やはりここに、彼女が宿っているなんて嘘だ。そうは思えない。


「残酷だよ、君は」


 涙は絶えなかった。夢すら残酷だった。現実は空虚だった。立ち上がって、墓地の出口へと振り返らずに歩いた。ただ、寒い朝に、朝日に向かって歩いていく。


「さようなら」


 聞こえても、振り返らなかった。


「もう、会わないよ」


 僕はそして、また歩き始めた。ほろ苦いバレンタインを、昨日の夜へと置き去って。少し軽くなってしまった、一欠片だけを、大切に握りしめて。


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愛しい君と2月の半分へ 葉月空野 @all5959

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