尊き日々<2>

 いつものように目が覚めて見た窓の外に、レンガ色をした城下町ではなく、風吹きすさぶ無限の麦畑が広がっていたとき、はんなこは、遥か遠い場所に連れてこられた現実を悟った。


 だだっ広く見通しの良いその彼方、権力の象徴のように盛り上がった地形の頂に霞がかって、米粒ほど小さな白い影として見える……王城。


 遠いというのは、距離だけの話ではないことも、否応なしに理解させられた。わたしは、古くから厳然と続く王家の慣例の元に、城を出されたのだ、と。


 おじいさんとおばあさんはやさしかった。本当の娘のように接してくれた。


 だからこそ、おじいさんとおばあさんが畑に出ているときはほっとした。思い切り声を上げて泣くことができたから。


 そしていつでも空を見上げて、トトが城から飛んでくるのを待った。


 トトから、家族や城の様子や、できごとを伝え聞くことだけが楽しみだった。用件が出撃要請だけでも嬉しかった。


 プリンセスナイトになり国を守っている間は、自分も父様や母様やユカリコと同じ、王家の人間であることを実感できたから。


 窓にいちばん近いところ。それがはんなこの定位置だった。


 何もしないで家にいた。


 おじいさんがいっしょに芋を掘ってみるかと手を引いても、まだ慣れなくて体調がすぐれないと丁寧に言葉を選んで断り、おばあさんが買い物に行こうと優しく誘っても、欲しいものは足りていて十分ですと礼を言ってやんわり断る。


 食事の際にも自分から会話をしないで、おじいさんおばあさんからの質問に答えるばかり。出撃の時以外、外には出ようとはせず、いつも城のことを考え、じっとトトが来るのを待っている。


 その場所から一切動くことをしないし、気力もない。


 腐ることさえなく、ただ、ゆるやかに乾いていく。


 わかっていた。


 王家の長女として生まれたわたしは、七歳になったら城を出て里親の元へ行くことを。


 おじいさんも、おばあさんも、良い人だった。もし、いじわるな人たちのところで暮らすことになったらどうしようって思っていたけど、わたしは恵まれた。


 なにもかも、予定通り。


 だけど……。


 お父様も、お母様も、ここにはいない。ユカリコも、いない。


 騎兵隊が高らかに鳴り響かせる喇叭の音も、かくれんぼをして遊んだ大好きな時計台も、ない。


 ねえ、強く厳しく、時に甘くわたしを守ってくれた、お父様?

 優しくほっと温かく見守ってくださる、お母様?

 わたしのことが大好きで、あそんでとせがんでくる、かわいい妹の、ユカリコ?


 今、どうしているの? どこで、何してるの?

 わたしも、そこにまぜて。

 迎えに来て、早く……。


 もうここで生きていくしかないと理屈では分かっているのに、どうしてもなかなか受け入れることはできなかった。


 二階の窓辺にあるベッドから空を見上げたまま、起き上がることさえなくなってしまったはんなこに、おじいさんとおばあさんは、ある提案をした。


「学校に行ってみるのはどうかね」

「学校……?」


 見ていた窓から振り返って、おじいさんの目を見て話しているはずでも、


「そうだよ。はんなこと同じ年ぐらいの子がいっぱいいる」


 その瞳に映った窓から、また外を見ている。


「いいえ。おじいさんおばあさんとここにいられて、わたしは十分たのしいです」


 吸った空気をまた吐くように紡がれる嘘、クセのような作り笑い。


 その実、心の中はまるきり別のことを考えている。


 ――子どもは、学校に行って友達を作れば楽しくなるだろう、というだけの安直な考えなら迷惑だ。


 ――そんなことで、この悲しみが癒えてしまうならいやだ。


 ――この傷こそが、父様や母様やユカリコとの絆なら、なくしたくないとすら思う。


 でもそんなこと、言えるわけがないから。


 それなら、できるだけ二人が喜ぶ言葉を。


 そしてできるだけわたしに触れないで、できるだけこの窓辺でトトを待たせてくれるようになる言葉を、言おうと。


「わたしたちはね、君の喜ぶ顔が見たいんだ」

「いえ、ですからわたしは、今でも十分――」


 なんとか笑みを張り付けることは忘れずにできたけれど、この表情で合っているのだろうか。


 しかし、おじいさんのあとに続く言葉は想像とは全く違うものだった。


「学校を出れば、城で働くことができるようになるかもしれない」

「え――」


 はんなこは、おじいさんを見た。


「だけどそれは簡単な事じゃない」


「待ってください! それって、どういうことですか? もう一度、父様と母様に会えるかもしれないってことですか?」


 考えもしなかったこと。


 そのとき、どう言葉を返せばより二人を喜ばせられるかなんて下心は、一瞬でどこか遠くへと飛んでいった。


 おじいさんはほっとしたように笑うと、気を引き締めるように一度だけ頷いた。


「そう、会えるさ。お城は王家のおうちだ。勉強して住み込みで働くことができたら、一緒に住むのと同じ事じゃあないか」


「勉強すればお城で働くことができるようになるのですか?」


「なるよ。試験に合格しなければならないけどね」


 試験――。

 光の国には、関所の内側にいるものならばほとんど誰でも受験可能な登用試験制度がある。人はそれにより順位付けがされ、成績のよいものは権力者に高く買い取られていく。


 もちろん合格するためには幼い頃より労働に従事せず学問のみに専念できる環境と相応の学費が必要である。だが、それさえ満たせば本当に誰でも受験できるのだ。


 ただし、


「試験は、……勉強さえすれば……わたしでも合格できるんですか」


 はんなこはただの村娘ではない。王族であることを隠し通さねばならない運命を持つ、プリンセスナイト。


 必死に頑張って試験を受けたところで、無慈悲に門前払いされてしまうのではないか。信じてしまいたいとはやる心を押さえて、確認する。


 ただの、おじいさんおばあさんの苦肉の策というのなら、いらない。頑張って報われなかったら、それこそあんまりじゃないか。


 はんなこは初めて、おじいさんをにらむようにして聞いてしまった。


「……そうだね。はんなこは特別な子だ。実はもう、頼んでみたんだがね――」


 参ったように、おじいさんは一通の手紙を差し出してきた。欠けていてもそれとわかる、王家の紋章の封蝋の付いた封筒。


 はんなこが心を落ち着かせて中の手紙を広げた。これが父様の字なのだろうか。そう思うだけで勝手に思い出がよみがえり、心がしくしくと悲しみの涙を流す。


 そこには「プリンセスナイトとして生きる運命を持つはんなこを城に戻すことはできない。そちらの村で大切に育てていただきたい」という内容の断り文句が並んでいた。


「だ、だ、だめじゃないですかっ!」


 頼んでみたが、断られた。打ち砕かれた幻想。それならどうして希望を持たせるようなことを言うのだ。


「わたしたちはあきらめていない」


 すぐに涙を見せ、希望を無くしてあきらめようとするはんなこを、ぴしゃりと叱るような言い方だった。


「これからも国王様に毎日手紙を送ろう。王の子として城に戻すのが難しいなら、一国民として試験に合格したら、お城で働かせてもらえるように。そう毎日頼もう」


 おじいさんの瞳は決意を告げていた。


「でも、わたしたちだけが頑張るんじゃだめだ。はんなこも、自分が本気であることを示してごらん」


 本気であることを示す。それはつまり、


「学校に行くかい? でも、ただ行くだけじゃだめだ。本気さを証明するために行くんだよ」


 自分の力で切り開く。与えられるものを受け取るばかりの生き方は、もうやめるのだと。


「わ、私……っ、頑張ります! 頑張って、本気であることを父様にわかっていただきます。そうすればご返事も変わるかもしれない……! そうなんですね!」


 思わずベッドから起き上がり、そのまま落ちそうになる。


「わからんが、やってみる価値はある。そうだろう?」


「お願いします! どうか、手紙を書いてください! 試験に合格したら城で働かせてもらえるように! お城で――! もし、そんなことが叶ったらわたし、わたし、もう明日から、ごはんもいりません――っ!」


 はんなこはもう、いてもたってもいられず、ベッドからおりておじいさんに詰め寄った。久々の感覚でふらつく足が忌々しかった。はんなこのそんな様子に、おじいさんは表情を和らげた。


「ははは。ごはんは食べないと死んじゃうよ」


 それはそうだ。


「じゃ、じゃあ……畑を手伝いますっ」

「いやいや、そんなことはいい。学校行って勉強だ」

「――は、はいっ」


 こうしてはいられない、と、はんなこはベッドから降り、おじいさんに連れられて居間に下りて行った。おばあさんがにこにこして迎えてくれた。


 望みを持つことなどあきらめていた。

 嫌われてしまわないかという心配もあった。


 行くところなんてないのだ。ここで嫌われたらおしまいだ。


 からっぽの笑顔でいい。どのみち満たさせることなどないのなら、二人に好かれるような行動だけをとろう、と。


 けれど。


「君の喜ぶ顔が見たい」


 はんなこの今までの笑顔が作り物だったことくらい、おじいさんとおばあさんにはとっくに気付かれていた。


 なんだ。

 それでも嫌わないでくれていたのか。

 もう、それなら――


 本物の笑顔を取り返すことで、もっと好きになってもらおうと決めた。

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