ニューハウィックの夕日
ニューハウィック。十年ほど前に中国のITグループのラブコールを受けてワシントン州の肝煎りで建設が始まった工業団地らしい。全くの更地に街を一つ築こうという大プロジェクトだった。命名者はもちろんそのIT企業の社長だか会長だったが、それにしては全く中国感のない、いかにもアメリカ風というか、イギリス風の名前だ。おそらく現地の労働者を取り込むためだろう。中国人を入植させるわけでもないのだから中国に媚びても意味がない。街の造りにしても、多少集合住宅が多いくらいで周辺のちょっと大きな街とほとんど変わりない。よくできた街だと思う。アメリカ人が何不自由なく暮らせる街だ。もし完成していたらなかなかいい街になっていたんんじゃないだろうか。
しかし起工から二年経ってITバブル消滅の煽りで出資企業が倒産、その後いくつかの企業の手を転々とするうちに建設続行が立ち行かなくなり、結局ワシントン州が多大な負債を抱え込むことになった。なんとも曰くつきのニュータウンだ。結局、州は一帯ごと軍の訓練に貸し出してその賃借料で細々と赤字を清算しているらしい。
街に立ち並ぶ未完成のビル群は滅ぶには新しすぎ、竣工するには古びすぎていた。建物としての形は出来上がっている。でもそこには窓もドアも嵌め込まれていない。水道管や電線はただそこに存在するだけで何も通してはいない。供給が止まっている。すべてが少しずつ白い砂にまみれ、時の流れから離脱していこうとしている。
その夜はニューハウィック市街に泊まることが決まっていた。「野営」という表現でいいのか微妙なところだ。そこらじゅうに建物があるのだから、わざわざ道の上に天幕を張ることはない。造りに問題のない建物を選んで部隊ごとに割り振って部屋の中に寝床を敷けばいい。
市街戦演習に参加した日米部隊の車両が広場に集結し、そこから一部炊事や設営のためのトラックと軍人たちが周りの通りへ散らばっていく。
私たちも寝るのに必要な道具を担いで広場を離れる。中隊に割り当てられたのは西のはずれにある四階建てのビルだった。コンクリートの躯体だけで判断するのも妙だけど、結構リッチな造りの建物であることはなんとなくわかった。割り振りは部隊長の集まりでくじ引きか何かをしたようだけど、こういう時の賀西の引き運は結構信用できる。大部屋ではなく班ごとに小さな部屋に分かれることができたのも嬉しかった。
私たち三人の割り当ては三階の裏路地に面した部屋で、中はほぼ均等な広さの寝室とLDKに分かれていた。といっても全くコンクリートの箱だけの空間なのだ。台所の基礎があるのと壁に水道用の穴が開けてあるからLDKと判断しただけだ。広さ的に家族二三人で生活するように設計されたらしい。牽引車の荷台とは比べ物にならないくらい広かったが、その代わり窓ガラスと扉がないので吹き晒しだった。内陸な上に乾燥していて夜は冷え込む。開口に天幕を張って風を防いでおいた方がよさそうだ。
嬉しいのは浴室だった。というか浴槽だ。浴室の一角にコンクリートの壁が立ち上がった升状の構造があって、底に排水口がついていた。それだけだ。それだけだが、浴槽以外の何物でもなかった。むろん栓もなければタイルが貼ってあるわけでもない。脚が伸ばせる大きさでもないし、下手に裸で入れば背中が剥ける。
「でも風呂だ」漆原が浴槽から目を離さずに言った。
「私も入りたい」栃木も浴槽から目を離さずに言った。
そこで私たちはお湯をどう工面するか考え始めた。幸い水に関してはまだ生きている井戸がいくつかあるという話を聞いていた。水はある。とすればいま私たちの部隊で一番まともな方法は野外炊具で沸かす方法だ。大量のスープを沸かすための釜がある。でもそれは支援班の管轄だし、動かすには燃料がいる。勝手に使えるわけでもない。夕食の支度を手伝えばあるいは見逃してもらえるかもしれないけど、私たちが急に良心を見せたところでさっそく怪しまれるのがオチだ。下心丸出しだ。
「炊具はだめだな」漆原が言った。私たちは寝室の真ん中に向かい合って悪党みたいに会議していた。
「じゃあ、油圧のヒーターを使おうよ」栃木が言った。
「ヒーター?」
「マーリファインの油圧のさ、作動油のタンクにヒーターがついてるじゃん」
「あるある」
油圧の作動油は適温で使わないと動作がのろくなったり液漏れしたりするので結構温度管理がしっかりしている。冷やす方はタンクからラジエータに専用の配管が伸びていて、温める方はタンクに電熱線のパネルが貼り付けてある。
「予備はないよね?」と私。
「うん。牽引車には積んでない」栃木。
「外せたとして、電源がない。こっちまでトラックを持ってくるのは怪しいな」漆原。
「なんか言われそうだよね」栃木。
「バッテリーで足りないかな。マーリファインのだったら切れても牽引車で充電できるし」私。
「やってみよう」漆原。
私たちは階段を下りてまず井戸でジェリカンに一杯水を汲んだ。全ては体をつけられる水かどうか確かめてからだ。まだ十五時過ぎだが日陰に入っていて暗かったのでペンライトを水面に当てる。若干の浮遊物はあるが澄んだ水だ。
次に広場のマーリファインからヒーターを工面する。左大腿部側面の油圧系点検ドアを開くと作動油タンクが見えた。左右の大腿部にこのタンクが一つずつ収められているわけだ。底にオレンジ色のパックに入ったパネルヒーターがついている。左右に渡した押さえ枠に差し込んで手前の二か所をビス留めしてあるだけだった。電気配線を外して引き抜く。
バッテリーは股間部左側のドアだ。これが取り外せることは知っていたけど、改めて取り出してみるとかなりの重さだった。三十キロ以上ありそうだ。パネルを漆原が抱え、バッテリーを私と栃木で持っていくことにした。距離もさることながら三階層分の階段が大変だった。出くわした他の隊員は私たちを見て当然びっくりするから、いやー、結構冷えそうだからさ、暖房に使えないかと思って……、なんて言い訳をしなくちゃならなかった。やっぱり悪党だ。
まだ水がある。ジェリカン一つ二十リットルだから十杯は欲しい。そうすると一人三往復か四往復だ。訓練だと思ってやるしかない。
浴槽の排水溝を補修用のダクトテープで塞いで少しずつ水を溜め、汲み始めてから二十分くらいで八分目になった。
パネルヒーターの導線を交換用のヒューズにつないで、ヒューズをバッテリーに噛ませる。ヒーターの電熱線はショート防止と片面遮熱用のパックに入っているので水に浸けても大丈夫だろう。水場で剥き出しの電気配線を扱うというなかなか危険な挑戦だった。感電するのはごめんなのでバッテリーを持ってきてからはかなり慎重に作業していた。
ヒーターに手を近づけて温度を確かめる。作動油は九十度を超えたあたりから焦げ始めるのでヒーター自体もあまり高温にはならない。ぎりぎり手で触れないくらいだ。それを水に突っ込んでおくと、時間はかかったけどきちんと温まってきた。もちろんバッテリーを切り離すまでは浴槽の水にも手を触れない。いちいちヒーターを取り出してちょくちょく湯加減を見ながらさらに四十分くらいで適温になった。
ヒーターを片付けて、いつも通り清拭をやってから一人ずつ湯船に浸かる。私は髪をほどきたかったのであえて最後を希望した。三人の中では私が一番髪が長いんだよ。漆原は顎くらいまでしかない。栃木は肩くらいで、昼間はだいたい後ろで結んでいる。私は背中の真ん中くらいまである。派遣中はどうせ毎日シャワーも浴びられないので、頭の後ろでまとめておいて、日によっては寝る前にほどいてブラシを通す。その日の内容次第だな。日々のワークアウトがないから、動かない日って本当に汗をかかない。
二人が入ったあとのお湯は適度に柔らかく、そしてぬるかった。頭をつけるとそのまま眠れそうな気がした。それくらい気持ちがよかった。お湯が疲れの溶液になって私の中から悪いものを吸い出しているみたいな感じがした。
しばらく湯船に浸かってから改めて浴室の中を見渡すと、だんだん打ちっぱなしのコンクリートの質感がうすら寒く感じられてきた。壁と床の間、排水溝のために開いた丸い穴。なぜ私はこんな薄暗いじめじめした部屋ですっ裸になって水に浸かっているんだろう。ぞっとしないだろうか。
いやいや。私は湯船のお湯を両手で掬って額をこすった。私の中ではいま、行軍のせいで鈍化していた感性が生気を取り戻しつつあるのだ。だからそんなふうに気持ち悪く感じる。ヤワな感想が出てくる。
目を瞑る。コンクリートの質感を頭から振り払う。
そのあとに現れたのは兵士たちの顔だった。今日の演習で対向した兵士たちの顔だ。私に銃を、銃口の横についたレーザー発信器を向ける兵士たち、あるいは私に撃たれる兵士たち。窓の中、軒下、屋上、車の残骸の後ろ。
彼らは終始無表情を貫いている。目の形も、口の形も変わらない。頬の筋肉は半ば緊張したまま固まっている。私を撃つ時もそれは変わらない。でもその時彼らの目には静かな殺意が宿っている。これは演習だ。そんなことはわかっている。でも彼らは想像している。自分の向けた銃口の先から飛び出した銃弾の行き着く先を。自分の行為の結果を。私の死を。
静かな殺意。
彼らが表情を取り戻すのは無力化判定を食らった時。その時初めて舌打ちをする。首を捻る。
実戦なら、本当に殺されれば、表情は失われたままだろう。永遠に失われるのだ。そこには舌打ちも溜息もない。
エリコン、ブローニング。私の第六の指先はそういうものだ。それは私の一部なのだ。
ああ、やっぱり、駄目だな。ろくでもないことを考えている。
お湯の外に脚を上げるとひんやりした。鳥肌が立ちそうだった。夕方の空気はとても冷えている。しっかりと肩まで浸かって、気合を十分に溜めてから立ち上がる。
全身をよく拭いてから新しい下着の上に作業着を着直して、私は一人でニューハウィックを歩いた。
たぶん誰かが酒を用意しているだろからあとで飲みながらもう少し話さないか、というアイリーンの誘いだった。プラム隊にはもう何人か女がいるらしいけど、他に誰かを呼ぶつもりはないな、と彼女が言ったので私も漆原と栃木を置いてきた。
彼女はたぶん私のことを気に入ってくれたのだろう。私も彼女に悪い印象は抱いていなかった。二人で話すのは一向に構わない。話の通じない相手に絡まれるよりずっといい。
彼女はさっきの広場で待っていた。格好もほとんど変わっていないけど、インナーのシャツが黒に変わっていた。ヘルメットも被っていない。
「髪を洗ったのか」アイリーンはフクロウみたいに首を傾げて言った。
「あまり大きな声で言いたくないけど、風呂を入れたんだよ」
「綺麗な髪だ」
「どうも」私はそんなふうにぶっきらぼうに答えるしかなかった。彼女の褒め方はどちらかというと男の褒め方だった。いささか戸惑った、といってもいいだろう。
街ではアメリカ軍の有志がバーを開いて人を集めていた。その店にはホールがあり、カウンターがあり、きらきらした酒瓶が並んでいた。とても数時間で立ち上げたとは思えない充実ぶりだった。いい場所を見つけたものだ。カウンターの中に立つ兵士たちは少しでもバーテンらしく見せようとして制服のシャツの上に黒いランニングシャツやタンクトップを重ねていた。変態みたいな恰好だった。そんなムキムキの変態たちが一カップ一ドル、瓶は十ドルから売り捌いていた。いったい、この物量、これだけの酒をどこに積んできたってんだ、まったく。
「財政難なくせによくこんだけ揃えたもんだ」
「何?」
「よくこれだけ酒を用意できたな!」アイリーンが訊き返したので私は大声で言い直した。怒鳴ったといってもいい。
「たぶん買ったわけじゃない!」アイリーンも声を張る。
「寄付か?」
「そうだよ。寄付か賄賂かわからないけどね、ドリンクメーカーが持ち回りで持ってきてくれるんだよ。彼らも軍隊が税金の取り立てに来たら嫌だろ?」
「なるほど。それでメーカーがお取り潰しになったら兵隊も酒が飲めなくなるからな」
「そういうこと」
ホールにカウンターが造りつけられているとはいえ、テーブルも椅子もないので店内はほとんど立ち飲みだった。酒に飢えた連中が士官も曹士もごちゃ混ぜになって瓶や缶を交わしている。結構な混雑だったけど、建物の二階に上がるとほとんど人気がなかった。下の喧騒が地鳴りのように聞こえている。みんな階段の存在に気づいていないみたいだった。二階は一フロアぶち抜きの空間に柱が並んでいた。何かテナントを入れるつもりだったのだろう。静かに飲むにはうってつけの場所だったし、窓枠がいい腰掛になった。夕日が砂煙に映って大気全体をオレンジジュースのような色に染め上げていた。
「マーリファインとピジョンホーラー、直接戦ったらどっちが勝つかな」アイリーンはウィスキーに顔を透かして訊いた。彼女は窓枠に片足を乗せて膝を立て、もう一方は床に下ろしていた。
「ナンセンスな質問だ」私は夕日に目を細めたまま言った。私は彼女ほど脚が長くないので床に足がつかない。膝のところで組んで浮かしていた。
アイリーンは首を振る。いいから答えろ、といったふうだ。
私は自分のスミノフアイスを口に一杯含んで飲み込んだ。よく冷えていた。
「ピジョンホーラーだろう。装甲が厚いからマーリファインでは決め手に欠ける」
アイリーンは頷いた。「ナンセンスというなら、今日の演習はどうだった?」
「え?」
「今日の演習は何だったのか、と思わない?」
「対ゲリラ戦闘が?」
「そう。でも、この先アメリカがLIC(低脅威度紛争)に手を出す可能性がどれくらいあるのか」
「ああ」
「今さ、資産凍結に抵抗する企業の弾圧のために警察の特殊部隊がかなり動いてるだろ。陸軍は動員に抵抗してるんだよ」
「もう声はかかってるのか」
「らしい」
一年前にアメリカの政権が民主党に移ってから、政府はかなり社会主義色の強い財政政策を推進していた。法人税の増税とアメリカに本拠を置かない国際企業への徴収強化がメインだ。むしろそれを公約として掲げたゆえに民主党は低所得者層の支持を集めたのだろう。前政権以前の開放政策に浸っていた大企業は一部の共和党議員と結託してこれに反発、国・地方レベル問わず政治圧力をかけるとともに、決算の延期や資産の海外移転で抵抗している。民主党の内部にも財政の先行きを不安視する勢力が生じたこともあって今年の予算案は依然として上院を通過していない。政府機関の機能制限を続けるか、強硬な徴税手段を取るか、いずれにしても支持率の低下は免れない。
私がニュースで聞いて知っているのはそのあたりの事情までだったが……。
アイリーンは続けた。
「だから、今日の演習はむしろ国内のデモとか暴動の鎮圧向けのデモンストレーションなんだろう。敵役の歩兵はあくまで仮想敵を演じているだけのアメリカ人たちさ。でもまるで本当に彼らに銃を向けているみたいな感じがしてさ、ちょっと気持ちが悪かったよ。それはさ、相手がアメリカ人だったからじゃない。きちんとした戦争としてやる戦闘なら割り切れるさ。私も軍人だ。ガキじゃないんだから、それくらいの覚悟はあるさ。でも相手は必ずしも交戦規程上の敵ではないかもしれないんだよ。混沌の泥沼に嵌り込んでいく糸口になりうるんだ。それは戦争じゃない。ただの虐殺さ」
「でも、今日のがそのための演習だとするなら、陸軍はむしろ積極的なんじゃないのか。政府にアピールしてるみたいに思えるけど」私は訊いた。
「いや、違うよ。確かに軍の機能を示すことにはなるけど、たぶん軍の介入はもう少し状況が悪化してからでも大丈夫だって思わせたいんだ。そうすれば命令を遅らせることができるだろうから」
「そうか」
「うん。連邦政府だってあえて軍を動かしたいわけじゃないんだ。何しろ国民感情を害するだろうし、金もかかるから、財政面でも可塑性のない手段を取らなきゃいけなくなる」
私はスミノフをもう一口飲んだ。いささか苦みを感じだ。
「もしそうなったとして、その先に待っている戦争はLICじゃないんだろうか」私は訊いた。
「国内で話が収まるなら政府対企業という構図のままだろうけど、国際社会が放っておかないだろう。政府のやり方によっては味方をする国ばかりではないだろうからね」
「だから訊いたのか」
「うん。君と私は銃を向け合うことになるかもしれない。たとえ米日が固い同盟で結ばれたままであったとしても、私の仕えるべき国が確固として存続し続けるとは限らない」
「日本だってまんざらじゃないさ。私たちがこのご時世にアメリカで放り出されているのも、新しい政権が前の政策をきちんと引き継いでないからさ」
「それだってアメリカからの移民の影響じゃないか」
新財政から逃れるようにして海外に移転した大企業・中企業の一部が新天地を日本に求めた。日本の労働市場もその恩恵にあずかることになったが、彼らの雇用理念はむしろ労働者層の有権者として日本人を啓蒙することになった。皮肉なことに日本の新政権は左派である。
「そう。日本でも労働者層というのがアクティブになり始めている。というか、その最初の結実が今の政権だな。結局、連動しているんだよ。時代や世界の変革というのは」
「いつの時代の住人も、自分の生きているその時を時代の変わり目と思う。さて、今はどうかな」アイリーンはウィスキーを飲み干して立ち上がった。長い脚をコンパスのように振って半回転する。「もう一杯もらってくるよ」
私はスミノフを飲み干して空になった瓶を彼女に渡した。
「何がいい?」とアイリーン。
「ジントニック。悪いね」
私はアイリーンが階段を下りていくのを見送って窓の外を見た。夕陽が地平線に這いつくばったまま真っ赤な光を放射していた。空も、大地も、建物も、世界の全てが真っ赤に染まっていた。
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