第30話 一匹狼
実行委員としての仕事がすべて終了したのは、夕方の5時半を過ぎた頃だった。
本来、今日のバイトはいつも通りの5時半から。
そのためもうすでに遅刻が確定している状況である。
「はぁ……。また店長に謝らないとだな……」
生徒会室に終わった記録用紙を提出し、冬坂と別れた俺は、昇降口へと向かうまでの間、ボソッとそんなことを呟いていた。
しかし、本当に今日は不可解な1日だった。
いつもはあまり感情の波を見せない冬坂が、ずっと落ち込んでいたようだし、少し打ち解けてきたと思っていた南野には、若干避けられていたような気がする。
「全く……。一体何がどうなってんだ……」
最近はようやく俺の日常も落ち着いてきたと思っていたが、また何か問題が起きたような気がしてならない。
もしかして俺は、平凡という言葉から意外と遠いところにいる人間なのかもしれないな。
「まあ。昔を考えたら随分マシになったけど」
少し前の自分のことを思えば、今は随分と恵まれているなと思う。
あの時は本当に人生のどん底で、これ以上な最悪はもうないだろうとさえ思っていた。
実際今は徐々に俺の立場も人権も回復しつつあり、生活に支障があるような弊害は驚くほどに減った。
これはすべて、俺の周りの奴らが気遣ってくれたおかげだ。
「感謝しないとな。本当に」
そんなことを考えているうちに、俺は階段を下り終え、1階の昇降口の前へとたどり着いた。
そして自分の下駄箱へ靴を取りに行こうと思った。
その時だった——。
「あれ? 南野?」
俺がそう呟いた先には、随分前に帰ったはずの南野の姿があった。
上履きを片手に荷物を背負い、下駄箱ロッカーの扉を開けたまま、何やら立ち尽くしている。
「お前先に帰ったんじゃないのか?」
続けて俺は南野に対し、そんな問いを投げかけた。
しかし、彼女から問いに対する返事は一切帰ってこない。
「南野?」
俺の方に視線を移そうともせず、ただひたすらロッカーの中だけを見ている南野。
その様子を見るに、明らか普通とは呼べないものだった。
「どうしたってんだ……」
不思議に思った俺は、立ち尽くす南野のすぐそばに歩み寄った。
そして肩を軽く数回叩き、彼女に呼びかける。
「おい南野。どうしたんだよ一体」
「……む、六月先輩……?」
「なっ……」
振り向いた彼女を見て、俺の中に衝撃が走った。
「な、なんでお前……泣いてるんだ……」
南野の瞳からは、溢れんばかりの大粒の涙が滴り落ちてきていたのだ。
しかも彼女の瞳は、気力を感じさせないような暗いもので、少なくとも今までには見たことのないくらい落ち込んでいた。
——なんで……。
いつも謙虚に仕事をこなしている彼女の、こんな姿を見るのは初めてだった。
というより、女の子の涙を見るのすら初めてだ。
どうしてか、自然の心がぎゅっと掴まれるように痛んだ。
頭が真っ白になり、うまく言葉が出てこない。
「何があったんだ……」
気づけば俺は、そんなことを口走っていた。
彼女を心配する言葉よりも先に。
「……わ、私……」
「……ん……?」
小さく呟いた南野の言葉で、俺は自然とすぐ横でドアが開いているロッカーの方に視線を移した。
すると——。
「なんだよ……これ……」
その光景は南野の涙を見た時よりもさらに衝撃的だった。
というよりは、うまく受け入れられない。といった感じだ。
「これ……南野のだよな……」
ロッカーの中に入れてある黒いローファー。
その全身が刃物でズタボロに切り裂かれており、とてもじゃないが履いて帰れるような状態じゃない。
さらにはそのローファーのいたるところに、修正液とみられる白い液体で、『死ね』とか『クソ陰キャ』とか、その類の悪口が無数に書かれていた。
「おい……嘘だろ……」
そしてその上ロッカーの奥の方には、お菓子のゴミ、いらなくなったプリント、汚れた雑巾、終いには食べかけのパンなんかも詰め込まれていた。
そしてロッカーのドアの内側に書いてあったのは——。
「なんだよ…… "ゴミ箱" って……」
ロッカーの中身の状態からして、その言葉の表現があながち間違ってもいないと思った。
それくらい状態が悲惨だったのだ。
「誰だよ……こんなことしやがったのは……」
真っ白に染まった頭の中に、怒りと思われる感情がふつふつと湧いて出てくる。
そしてその感情は、南野の涙によってより一層強いものへと変化していく。
「なあ南野。これやったの誰かわかるか」
俺がそう尋ねると、南野は泣きながら頭をコクコクと頷けた。
「名前、聞いてもいいか」
俺はもう怒りのせいで言葉の制御ができなかった。
辛いはずの彼女にこんなことを聞いていいはずがないのに、俺はどうしてもこんなことをした奴の名前を聞かずにはいられなかったのだ。
「……か……」
「か……?」
「……か、神永くん……だと思います……」
「神永って……あの……」
か細い声で吐かれた言葉で、俺の怒りはスーッと何処かへ引いていった。
そして今度は全く違う感情が、俺の脳内に湧き上がってくる。
——まさか……まさかだよな……。
俺は瞬時に気づいてしまった。
神永という名前が出た瞬間に、俺の中には思い当たる節があったのだ。
それはほんの数日前のこと。
放課後に行われている文化祭実行委員会に、出席してこなかった奴がいた。
そいつは南野と同じクラスの実行委員で、南野が1人で仕事を請け負う羽目になった原因でもある人物。
雰囲気は明らかな陽キャで、学校行事の実行委員に自ら立候補するような柄じゃない。
だからこそ神永は仕事を放棄し、南野に全てを押し付けるような真似をしたのだ。
そして俺はそれを知っていたからこそ、楠木会長に頼んで、なんとか音沙汰なく解決することができたと思っていたのに——。
「まさか……俺のせいで……」
俺が会長に相談したから、こうして南野が悪質ないじめの対象となった。
俺が余計な気を遣ったから、こうして彼女が涙する羽目になった。
「また……俺は……」
脳内にどんよりとした気持ちが溢れてくる。
また俺のせいで誰かを悲しませてしまった。
思いつきの自分勝手のせいで。
——最低だな本当……。
気づけば俺は、すっかり前の自分に戻ってしまっていた。
最低最悪で大バカ野郎の六月春に——。
「結局俺はただの自己満足野郎なんだな……」
「む、六月先輩……?」
「俺のせいで南野は……本当に最低だ……」
「そ、そんなことは——」
「——だってそうだろ!」
俺が発した大声で、南野の肩が弾んだのがわかった。
なぜ俺は逆ギレみたいな態度を取っているんだろう。
自分でもその心理は掴めない。
「驚かせてすまん」
「い……いえ……」
南野は少し怯えているようだった。
それは明らかに、今の俺の態度が原因だ。
酷いことをされ、ただでさえ心が傷ついている南野に、俺は大声を浴びせるようなクズだ。
今彼女がどういう心境なのか。どれだけ傷ついているのか。
見るべき点はそこのはずなのに、俺は今自分のことだけで精一杯だった。
最低だ。本当にクズだ。
結局俺は自分のことしか考えられないような人間なんだ。
だから他人に余計な気を回して、こうして失敗した。
この結果こそが事実。
今の俺を表す、なんの誤りもない証明書だ。
「あの……六月先輩……私……」
「わるい。後のことは冬坂とかに相談してくれ」
「で、でも……」
「あいつならまだ学校にいると思うから。そんじゃな」
「せ、先輩……」
なぜ俺は南野を放って帰れるのだろう。
そこに罪悪感はないのだろうか。
自分自身でも、俺の行動原理が全くもって理解できなかった。
ただその場その場の感情で動いているような——。
——これじゃ能無しの野獣じゃねえか……。
逃げるようにしてその場から立ち去った俺は、後ろを振り返ることをせず、ただひたすらに進み続けた。
その行き先はわからない。
バイト先のファミレスでもなければ、家でもない。
どこに向かっているかすらもわからない今、俺の中にある感情はただ一つだけ。
——俺は自分が大っ嫌いだ。
三度蘇ってきたその感情は、瞬く間に全身を支配した。
嫌われ者の一匹狼として、また俺は孤独に生きていく。
決して誰のことも愛せずに。
ただただ孤独に。
——終——
嫌われ者のオオカミは決して自分を好きになれない じゃけのそん @jackson0827
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