姫的な彼女の青春の話
メインヒロインが女子中学生なので多分青春です。
《登場人物》
柊綾:ヒロイン。語り手。クール系(見た目)女子大生
篠崎美月:ヒロイン。スポーティポニテ女子中学生
篠崎日向:ヒロイン。おっとりドSお母さん
―――
かっしゅ、っか、かかっ、しゅ。
スタイラスペンがデスクの天板と一体になったモニターの表面を滑る音が静かに響く室内。さっぱりと片付いた部屋は全体的に白とパステルな水色に揃えられ、レースのカーテンを揺らすそよ風に乗ってローズウッドが香っている。壁照明(壁紙の特殊な塗料による反射・蓄光を利用して空間全体を余すところなく均一の光で満たす照明方式)のおかげで部屋は適度な明るさに満たされて、穏やかな温もりに脳の奥がぼんやりと滲むような心地だった。
そろそろだろうかと、軽く腕を振って視線を向ける。
振動を感知して手首のスマートウォッチのディスプレイが点灯し、そこに球体が浮かび上がる。
根元を同じくする時針・分針・短針が別々の平面を回るという機能美の対極にあるくらいひどく使いにくいクロノスフィア(球体時計。どの位置から見ても内部に時計が見えるものや、大・中・小と囲む
それを確認してから、デスクモニターを見つめる真剣な横顔を見やる。
いつもぱっちりと開いている目が、集中からか少しだけ細められている。普段なにもなくてもにこにこと笑う快活な表情は、今はむむむと難しそうにしかめっ面だ。ひとつ結びで垂れているのがスタンダードな黒髪は、勉強のときは邪魔だからとお団子にまとめられている。それが少し気になるのか、たまに頭がむずっと揺れる。
と、不意に彼女は、視線に気がついてというよりは、きっと考えている途中なんとなく時間を確認したくなったんだろう、顔をこちらに向けた。スタイラスペンのおしりで下の唇を持ち上げるようにしていた彼女は、私の視線にぱちくりと瞬くと、そのままこてんと首を傾げる。
「時間?」
「うん。お疲れさま」
「あちゃあ、そっかぁ……もーちょっと急げばよかったや」
労いの言葉をかければ、彼女は悔しそうにぼやいた。それから仰け反るようにして、座っていた椅子へと身を預ける。ぺいっ、と投げ出されたスタイラスペンがモニターに弾んで、かっかつっかころころ音を立てる。
お行儀悪いよ、なんて声をかけながら、私は椅子を彼女のすぐ隣まで寄せると身を乗り出してモニターを覗き込む。揺れて落ちてきた短い髪を、邪魔とも思わないけれどそっと手で掻きあげれば、間近で聞こえるごくりと唾を飲む音。自分が意識されているのかもと妄想が膨らんで、つい、もっともっとと身を寄せてしまう。
「どっ、どうかなっ!」
切羽詰まったようにひっくり返った声。
それについ頬が緩みそうになるのを律して、努めて平静を装った笑みを張りつけながら、私は彼女に振り向いた。
「うん、とってもよく出来てるよ。ただ、やっぱりこことか計算ミスしやすいね」
「えうそっ、あ、うっわぁほんとだ……んん……えっくす移項して、マイナスだから……あ、違うこれ2で割ってないんだ。そしたらえっと……6!」
「はい正解」
「っし。や、ていねいにやったらできるんだよね」
「うんうん。今日は基礎計算無限にやろうね」
「あんまりだぁー!」
ぶーぶーと可愛らしく抗議の声を上げられるけれど、残念ながら不真面目な女子大生ではなく家庭教師としてここにいる以上泣いても喚いても手を抜くつもりはないのだった。
にっこり笑って計算問題集を表示すれば、彼女はむくれながらも渋々スタイラスペンを取って、そのペン先をモニターに触れさせる。そうして向けられる視線に頷くと、私は時計を確認する。
「じゃあ、だいたい10分くらいね。終わったら休憩しよ」
「やたっ!全問正解目指す!」
「美月ちゃんならできるよ。頑張ってね」
「うん!」
余程休憩が待ち遠しかったらしい、脇目も振らずにモニターに向き合うその横顔をしばらく眺め、それから私はふと窓の方へと視線を向ける。
外は陽気に満ちていて、空は空色が鮮やかで。
休憩のとき、散歩なんかしてみてもいいかもしれない。
勉強というストレスから解放されて、弾けるように笑う姿を想起すれば、それだけで口の端に笑みが乗る。
きっと今、私の方が10分後を待ち望んでいた。
■
彼女は、恋人の娘だった。
当然ながらというべきか、血は繋がっていない。
さすがに二十代にもなっていない私に中学生の娘というのは、産むというのはもちろん孕ませたというのも無理がある。子供を産むのが簡単になって、だから子供を生むのが少し大変になった現代では、そういったことは当人の絶対的同意が前提条件で、私にそれをした記憶はない。というか年齢的に、そこまで高度なことなんて考えられるような頃ではなかったし。
美月ちゃんは、恋人である日向さんが、元妻との間に設けた子供だそうだ。
過去なんか語るより明日のランチを話し合いたいというタイプの日向さんなので詳しい話を聞いたことはないけれど、とりあえず今好きなのが私ということに間違いはないから、あまりそこら辺は興味がない。なんなら存在を正確に知ったのだって、日向さんが私に家庭教師を依頼してきてからだし。
重要なのは、だからやっぱり、好きな人の娘を好きになってしまって、そしてそれを日向さんが好ましくは思っていないということ。
それはいつものことといえばそうなんだけれど、でもやっぱり、少し気まずさのようなものが胸の内で燻っている。親子という関係性の中に、私はどう見たって異物だった。
「あや姉、考えごと?」
「ううん。いい天気だなあ、って」
ひょこ、と覗き込んでくる美月ちゃんにゆるりと首を振る。
美月ちゃんは「ふーん」なんて微妙に納得してない様子で、だけどすぐににっこり笑いながら烏龍茶のペットボトルを差し出してくる。
勉強合間の休憩にと、誘えば進んで食いついてきたちょっとしたお散歩。
近場の公園に向かう途中にあった自販機で、好きな女の子におねだりをされれば財布の紐も緩むというもの。
カードを渡せば『買ってくるー!』と駆けて行った美月ちゃんが、どうやら私の分も買ってきてくれたらしい。
「うちのと同じならいいかなーって。こっちがよかった?」
「ううん。大丈夫。ありがとね」
こっち、と揺らしたオレンジジュースは、美月ちゃんの好きな飲み物のひとつだった。
それを奪い取る理由ももちろんなくて、礼の言葉と一緒にペットボトルとカードを受け取る。
キャップを捻って口をつければ、喉の奥から込み上げるような苦味。
どうやら篠崎家の烏龍茶は結構薄めらしいということを知った。
けれどもまあ、顔をしかめるほどでもないし、これはこれで美味しい。
くぴくぴ喉を潤して口を離す。
それから、なにやらそんな私をわくわく顔で見ていたのが一転、どことなくつまらなさげに口をとがらせる美月ちゃんに視線を向ける。
「なあに?」
「……ペットのウーロンって苦いよね」
「うん。美月ちゃんちの方が飲みやすいかも」
「わたし初めて飲んだ時びっくりしたんだー」
「ああ、ごめんごめん」
「やっぱあや姉って大人だねぇ」
「そんな大人っぽい感じでもないと思うけど」
しみじみと言う美月ちゃんに苦笑する。
烏龍茶が苦かったことでリアクションとるかどうかは、多分大人とかあんまり関係ない。
日向さんとか、絶対私に押し付けてくるし。
ああでも、確かにそれは少し、子供っぽいのかもしれないけれど。
「あや姉ってさ」
そんなことを思っていると、美月ちゃんがぼんやりと呼びかけてくる。
どこか躊躇うような、恐れるような、縋るような、視線。
胸の内をくすぐるような、今すぐに愛を伝えたくなるような。
そんな、視線。
それを見返せば、美月ちゃんはなにか言いたげに言い淀んで、それからふるふると首を振った。
「やっぱいいや。それよりあや姉、カラオケとか行こーよ!」
「いやいや。休憩だからね。あと10分くらいで戻るからね?」
「えー。いーじゃん今日はぱーっと遊んじゃおーよ!」
腕に抱き着くようにしながら、上目遣いにわくわくと見上げてくる美月ちゃん。
ついふらっと頷いてしまいそうになる自分を鋼の意思で押さえつけて、首を振る。
「だーめ」
「けちー!」
ぷんすことわがまま言ってますアピールをしながら、美月ちゃんは私の腕をゆっさゆっさ揺さぶる。
正直言えば私だってこのまま休日デートに繰り出したい気持ちはある訳で、そんなことをされれば私の心まで揺さぶられてしまう。
それでも心を強く保って否定し続ければ、美月ちゃんはやがて渋々と諦めてくれた。
かと思えばきゅぴーんと目を光らせて、ずびしと指を突きつけてくる。
「じゃああや姉!今度ふつうに遊び行こーよ!」
「え?」
「ね、それならいいでしょ?」
わくわく、と目を輝かせながら。
けれどその奥にたくさんの不安を覗かせて僅かに身体を強ばらせた美月ちゃんの提案。
どくん、と、心臓が弾む。
それを悟られないようにとひとつ吐息で心を落ち着かせた。
「それなら、まあ、うん。いいよ。今度のお休みにでも、一緒に遊ぼっか」
「!」
信じられない、とばかりに目を見開く美月ちゃん。
やがてそれは泣きそうにくしゃりとゆがみ、けれど最後には満開に弾けた。
「うん!やくそくね!」
突き出された小指。
ほんのひととき面食らってしまうけれど、すぐに笑みが込み上げた。
「うん。約束」
繋がった小指は、細く、滑らかで。
今きっと心臓からの血管は小指に集中していて、伝わる熱がどんどんと胸を弾ませた。
そんな緊張を必死に隠しながら、幼気に残酷な誓約を交わす。
これをデートだなんて、きっと、呼べやしないんだろうけれど。
■
美月ちゃんとお出かけの約束をした次の次の日。
月曜日。
平日の朝、とっくに美月ちゃんは学校に出かけてしまっている時間帯。
だから私が篠崎家を訪れた理由は、家庭教師としてではなかった。
玄関の前に立ち、ぴん、ぽーんとインターホンを鳴らす。
途端扉の向こうから聞こえるパタパタと忙しないスリッパの足音。
「はぁ〜い」
なんて、甘えるように間延びした、普段通りの穏やかな声音。
うぃーむ、と錠の解かれる音。
そうして開いた扉の中から、彼女は私の胸に飛び込んできた。
ぽふす、と谷間に顔を埋めるようにして抱き着いてくる大好きな人。
背の低い彼女は私の背に脇の下から腕を回して、縋り付くように抱き着くのが癖だった。
飛び込む勢いで舞ったウェーブした茶髪が、ミルク味のキャンディみたいな甘やかな香りを撒いて落ちる。
うりうりふすふす、顔を押し付け匂いを嗅いで、まるで縄張りを主張するかのようなそんな仕草が愛おしくて、私は自然と、手ぐしを通すように頭を撫でていた。
「こんにちは、日向さん」
「いらっしゃぁ〜いあやちゃん」
もぞもぞと顔を上げた日向さんは、最低限の視界も確保出来ているのか怪しいくらいに細められた目で私を見上げる。布地に擦れた鼻先が、少しだけ赤くなっていた。
それを労わるようにひとつ口付けを落とせば、そんなのじゃ足りないと日向さんはつま先立ちで唇をねだる。
ちゅ、ちゅ、と、啄むように愛を重ねる。
口内に蕩けるような甘さが広がり、吐息に乗って香る。
少し顔を離せば、頬は朱に染って、とろりとまなじりが落ちていた。奥の瞳が悪戯めいた光を湛えて、そっと唇を舐める。
日向さんは私から離れると、するりと私の両手をとった。
「まってたわ〜」
「私も、待ち遠しかったです」
私が応えれば、日向さんはにっこりと笑って私の手を引く。
抵抗なんてある訳もなく、私は引かれるままに玄関扉を潜った。
そうして連れられるのは、リビングと連なるダイニングだった。
逆を向かせたダイニングチェアに腰掛けた日向さんは、私を見上げてそっと片足を差し出す。
ロング丈のスカートがつつぅと伝い落ちて、白磁のような足先が顕になる。つま先に引っかかったスリッパが、ふらふらと頼りなく揺れていた。
そっと跪いて、スリッパを脱がせる。
顕になった爪先。
丁寧に切り揃えられ、お手入れのされたつるりと光沢を持つ爪。
血色の良い、ほんのりとピンク色の爪床。
細い足の指が、ぐっぱぐっぱと開放感を楽しんだ。
ぞわぞわと、背筋を込み上げる怖気にも似た興奮。
きっと今の私はそれは惨めな表情をしているのだろう、心底楽しげに私を見下ろす日向さんの笑みを見上げる。
ほぅ、とひとつ息を吐いて、それから日向さんは足の親指の先で私の下唇をめくるようにした。
「いいわよぉ〜?いつもどおりぃ〜、キレイにしてちょうだい?」
「はいっ」
お預けを解かれた犬のように。
私は声を弾ませながら、日向さんの爪先をそっと手で支える。
「んっ、」
触れる指先がくすぐったいのか、指の関節を口元に当てて声を堪える日向さん。
甘い声音が私の脳髄をとろとろと溶かす。
はふ、と吐いた息で爪先をくすぐる。
ぴく、と身体を弾ませる日向さんの肌が、少しづつ、熱を持って染まってゆく。
私を尊大に見下ろす日向さんを見上げながら、そして私は、その足先に唇を触れた。
■
腕、足、胴、を拘束する革のベルト。
それぞれダイニングチェアに括り付けられるようにしていて、私を完全に拘束している。
嗜虐心に満ちてこそいても痛めつけるようなことを好まない日向さんには珍しく、というよりは、単純に慣れないことをしているからなんだろう、拘束は少しばかり苦しみを与えてくるような強さだった。
夕方、そろそろお別れに向けてシャワーも浴びてしまって、着替えようとしたところでこうされた。説明もなく手を引く日向さんにあっさりついて行ったあげくここまでされるがままな私も私だけど、おかげで下着だけしか着けていないのが、なんだか逆に頼りない。洗濯も乾燥も終えた下着だから着心地が悪かったりはしないけど、居心地はあまり良くなかった。
日向さんは、ふうふう言いながら私を拘束したあとは、なにやら自分の作品を鑑賞するようにふむふむと色んな角度から私を見つめてくるばかり。
なにを言うでもないのが、かえって少し恐ろしい。
「あの、日向さん?」
「なぁにぃ〜?」
「や、その、これは……?」
「いっかいやってみたかったのよぉ〜」
「あはい」
ほわほわ笑う日向さんの言葉は、どうやら嘘ではないらしかった。
それが全部じゃないことも理解できたけれど、それを口にするつもりはないのだろう。
それならまあ、仕方がない。
私は諦めて、私を眺める日向さんを眺める。
しばらくそうしていると、日向さんは特になにに納得したでもなく、ただなんとなくというだけの気持ちでうんうん頷いて、それから私に近づいてくる。
そうして日向さんは、そっと私の頬に手を触れた。
にこにこと笑んだ表情の奥で、燃え尽きるほどに冷ややかな視線が私を射抜く。
「ね〜え、あやちゃん?」
「……はい」
「あなた、みづきちゃんのこと好きよね〜?」
ひやり、と。
脊椎の隙間に刃が通るような感触。
首から上以外の感触が消えてなくなって、世界が急激に狭まった。
どうして、という疑問は、ただ一点に向いている。
「どうして、今、?」
「聞いてなかったのかしらぁ〜?」
にこにこと笑いながら。
日向さんは、親指を引っ掛けて口の端を引っ張る。
今のお前に許されるのは質問に答えるだけなのだと、表情が私に告げている。
「……好き、です」
「そうよねぇ〜」
よくできましたぁ〜、なんて言いながら、日向さんは私の口を解放した。
唾液の付着した指先を、ペロリと舐めとるしぐさは妖艶だった。
「ねぇあやちゃん、わたしが嫉妬深いのは〜、知ってるわよねぇ〜?」
「は、い」
知っている。
日向さんは、他のものに向く私の好きを快く思っていない。
けれど、それは、とっくに話のついたことだった。
日向さんは、私のほかの恋人を、許容している。
なにせそもそも、それを私に唆したのは、日向さんなのだから。
だからその嫉妬を、私で発散する。
嫉妬によって罪悪感をいたぶることが、なによりも楽しいとばかりの笑顔で。
とびきりの、笑顔で。
そうして嫉妬を、許容する。
嫉妬まで含めて私を愛するのだと、彼女はかつて笑いひとつなく断言してみせた。
そしてそれは、強がりでもなんでもないことを私は知っている。
「だからねぇ〜、わたしのおうちでぇ〜、あやちゃんがみづきちゃんを見てるのってねぇ〜」
ぐぐ。
爪の先が、頬にくい込む。
そのまま横に流せば切れてしまうのではないかと思えるような痛み。
「とぉってもぉ〜、むかつくのよぉ〜」
むかつく、などと。
未だかつて日向さんの口からは聞いたこともないような、幼稚な暴言。
けれどそれは、私の心をごっそりと抉り抜いた。
じわりと視界が滲む。
日向さんのやろうとしていることを思って、胸が張り裂けそうだった。
「それなら、どうして、どうして……」
どうして、美月ちゃんの家庭教師なんて、私に依頼したのか。
「あの子がぁ〜、あなたに惚れてしまったからよぉ〜」
言葉にならず嗚咽と消えたそれを、日向さんは拾い上げてあっさりと吹いて捨てた。
唖然とする私に、日向さんの視線がほんのひととき愉悦で揺らぐ。
ひくっ、と引き攣るように震えた頬が、きっと上がりそうになった口角を押しとどめた。
日向さんは言う。
いつか私が家を出ていくところを、偶然美月ちゃんが見ていたのだと。
それは美月ちゃんにとって初めての、一目惚れというものだったのだと。
娘を愛おしむ母の顔で、言った。
「ね〜え、あやちゃん。わたしはねぇ〜」
頬につきたった爪が、伏せる。
両手が私の顔を包み込むように触れて、ずぃ、と間近までその目が近づく。
まつ毛どうしが触れ合う程の距離。
静かに、瞳は私を見つめている。
「恋人なんかよりもぉ〜、みづきちゃんの方が大切なのよぉ〜」
娘だもの、と。
あっさり言ってのける日向さん。
ぎしりと、胸の奥が軋む。
けれどそんなことはどうでもいいのだと、日向さんは知っているはずで。
だから言葉は、続く。
「わたしねぇ〜、あやちゃんとこのままいたらぁ〜、みづきちゃんに冷たくしちゃいそうなのよぉ〜」
「そ、れは……」
「それを受け入れられるほどぉ〜、恋人を優先はできないのよねぇ〜」
それは、いったい、どうすればいいのか。
言葉が続く、訳もなく。
私はただ、どうしようもなくて、項垂れようとして、それすらも、日向さんの手で支えられた。
「だからぁ〜、これっきりにしてねぇ〜?」
近づく。
触れる。
暖かくて、甘い。
現実味がないくらいに、幸せな口付け。
それなのに、今この瞬間私は振られたのだと、そんな現実が、目を逸らせないほど鮮明になる。
力の抜けた口を割って、舌がぬるりと入り込む。
反射的に出迎えた舌先に、ちゅるりと絡む。
日向さんの手が頬を滑り、首を撫で、肩をさすり、腕を伝う。
触れるか触れないかで焦らすような指先に、簡単に身体は熱を産んだ。
―――音。
扉。
ぼんやりと痺れてゆく脳が、ほんのわずか、冴える。
日向さんの瞳が、悪戯めいた光を灯す。
ああこれを待っていたのだなと、どこかでなにかがなにかに納得した。
理解が追いつくよりも前に、それは姿を現す。
恐る恐るとばかりに、そっと、覗き込む頭。
目が合う。
驚いた様子で、彼女は目を見開いた。
見られている、という事実。
なにもかもを壊してしまうかもしれないそんな現実に、急速に脳が醒める。
けれど私の頭は、いつだって、目の前の誰かのためにあった。
どうすれば、どうなれば、どうあれば好きな人が悦ぶかと、分かる。
理性がどこかで悲鳴を上げる。
本能のままに身が震えた。
「んっふぁっ、くっんぁっ」
見られている。
そんな背徳を興奮の炉に焚べる。
耐えきれないほどに膨れ上がった炎が、喉を焼きながら空気を揺らした。
ただ肌を撫でるだけでは物足りないのだと、甘い疼きが下腹部を熟れさせる。
「ひっ、あっ」
小さな、悲鳴。
自分の母親が、見知った女を喘がせる光景。
それが彼女にとってどれほど悲惨で残酷なものかと、ほんの一瞬脳裏に過った。
けれど、逃げて行ってしまったその背に湧き上がる罪悪感は、ひどく愚かしく暴れ回る欲にそのまま飲み込まれた。
「あらぁ〜。見つかっちゃったわねぇ〜」
困ったわぁ〜、なんて。
白々しくうそぶく日向さんの声に、私はただ、鳴いた。
■
「……」
時計を見る。
とっくに見慣れたクロノスフィアが、約束は10分後だと教えてくれる。
「…………」
本当に来るのか、なんて。
そんな疑いをかけられるような立場にいないことは重々承知だったけれど。
それでも未だに、なんというか、信じられていない。
……というかほんとにあれ私の妄想とかじゃないよね?
ちょっと不安になって、スマートウォッチをいじる。
そうしてSNSのアプリケーションを確認してみると、やっぱりそこには、ここで待ち合わせという約束を取りつける一方的なメッセージが届いている。
「………………」
なんだろう、例えば、こう、遠くから動画とか取られて、それを晒し者にされる……いや、それは性格的にないとして、じゃあ、でも、ううん……。
「……………………」
いっそのこと、なんというか、これで私を嫌いになったって婉曲的に伝えようとしているとかなら、まだ、理解は及ばないでもないんだけど、でもほんとそれはちょっと婉曲的過ぎるというか、なんならわざわざ一週間近く空けるっていうのもなんかこう……ううむ……。
「…………………………ぁ」
どれだけ思い悩んでいたところで、私の目は自然と彼女を見つけていた。
ミリタリーシャツの内に白のシャツを着て、下はデニムのショートパンツというクールな装い。大きめのキャップを被っていても、そして普段と印象を変えるようなお化粧していても、見間違えるなんてありえない。
「おーい!あや姉!」
「え、あ、」
駅の改札の方から満面の笑みで、ぶんぶんと手を振りながら、駆け寄ってくる。
そう、まるで私と会うことを楽しみにしていたかのようなそんな様子で、美月ちゃんはやってきた。
「お、おーい?」
戸惑いながらも手を振り返せば美月ちゃんは声を上げて笑い、そうして私の目の前で急停止する。
「お待たせあや姉!えへへ、楽しみすぎて寝坊しちゃった!」
「たの、しみ……?」
はにかみ笑う美月ちゃんの言葉がいまいち上手く咀嚼できないで聞き返すと、美月ちゃんはむっと唇を尖らせる。
「あや姉はせっかくのおでかけデートなのに楽しみじゃないんだ」
「????」
待って、おかしい、なに、え、は?
な、え、夢?質の悪いやつ?目覚めたら喪失感で死にたくなるやつ?
だって、え、は?……は!?まっ、え、ど、え?
混乱極まる私に構わず、美月ちゃんはケロッと笑みを浮かべると腕を取った。
「なんちゃって!分かってるよ、だってこんな早くから待っててくれたもん!ね?」
「え、えと、まあそりゃあ、美月ちゃんと遊びに行くのは楽しみにしてたけど」
「やっぱり!えへへ、いつもより可愛いから驚いちゃったんでしょ!お母さんにお化粧教わったんだー!」
「いやまあ、驚い、てるね、うん」
「やたっ!」
いや、確かに可愛い。
それはそうだけど、でもそうじゃないっていうかこれ……え?
んと、えっと、と、とりあえず、一旦問題を先送りにしよう、かな、うん、よく分かんないけど、美月ちゃんにも失礼だし、というかこう、そろそろちょっと我慢も限界だし。
よし。
ひとつ深呼吸して戸惑いをどこかへ追いやる。
そうしてからようやく、私は好きな人が私のためにとっても素敵であろうとしてくれているのだという現実を受け止めて、喜びを素直に笑顔で伝えた。
「ほんとに、可愛いよ、美月ちゃん。普段よりちょっと大人っぽいね」
「あっ、あえ、っとぉ、そ、そうでしょー?分かる?」
「うんうん。とっても素敵」
照れてくれたらしい、顔を真っ赤にしながらも平静を保とうとする美月ちゃんに、ちょっぴりの悪戯心が芽を出した。
それに従うままに、鼻がひくりと感じ取る。
「あ、それに香水もしてるんだね」
「ひぃゃうっ!」
美月ちゃんから香る穏やかな香りに顔を近づければ、美月ちゃんは悲鳴を上げて飛び退いてしまう。
あっさりと失われた余裕に、胸の内で謎の充足感が湧き出るのを感じる。
やっぱりなんかこう、美月ちゃんってかっわいいんだよねぇ……。
にこにこしみじみ思っていると、美月ちゃんはなんとか気を取り直してまた私の腕に抱きついてくる。どうやら今日はこういう感じでいくらしい。それならとがっしり腕を組んであげれば、美月ちゃんの体温がじわじわ上がった。
それに機嫌をよくしつつ、美月ちゃんと一緒にぶらりと歩く。
遊びにいくと誘ってくれたけど、具体的に行きたいところとかはなかったらしい。
それはそれでこう、単に私といたいっていうことなのかなあとかそういう感じで趣深い。
そんな訳でとりあえず、最初はこの前言っていたカラオケに行った。
いろんな曲でデュエットとかしてみたりして楽しんで、最後に美月ちゃんはバーチャルシンガーの『心音アイ』(日本初の
それから次には、近くにあったゲーセンに立ち寄ってしばらく遊ぶ。
UFOキャッチャーが得意という私の数少ない特技を活かして美月ちゃんに『心音アイ』のお座りSDぬいぐるみを取ってあげたり、久々にメダルゲームをやって美月ちゃんが使いきれないくらいのメダルを子供にばら撒いたり、VRゲームで絶叫してみたり、VRフォトショップでいろんな画像を撮ってプリントアウトしたりして楽しんだ。お互いの持ち物に写真をはり合って、おそろいだねーとか言い合うのはなんかこう、言い表せないくらい幸せだった。
ひとしきり遊び倒した後は、お昼ご飯ついでに無料のバスに乗って大きなショッピングモールに寄ってみる。
なんか定期的に流行るよね、とか話しながらナタデココのドリンクを飲んでみたり、なにかの広告で見たような食べ歩きデザートをいろいろ試してみたりしているとお腹がいっぱいになっちゃったから、腹ごなしもかねていろんなお店を見て回った。今日の記念っていうことで美月ちゃんの欲しそうにしてたシュシュを買ってあげると、恐縮してはいたものの嬉しそうに受け取ってくれた。
歩き疲れたこともあって、その後はモールの映画館に立ち寄った。
まあたぶん外れはないだろうということで名前はよく聞くラブコメ作品を視聴。なんだかんだやっぱり名作らしくて、笑いあり涙あり、ポップコーンを取ろうとして手が触れちゃったのに驚いた美月ちゃんが椅子から滑り落ちそうになるという可愛いハプニングもありとたっぷり堪能できた。
そうして気が付けば夕暮れ。
のんびりと映画の感想を言い合いながら、美月ちゃんを送り届けるために電車で移動。
迫るお別れに、という以外にきっとなにかがあって、少しずつ美月ちゃんの口数が少なくなる。
どんな言葉をかけてもきっと意味はないのだと、それが分かるから、私も自然と言葉が減ってしまう。
電車を降りて、改札をくぐったところで、美月ちゃんが組んだ腕にぎゅうと力を込めた。
「……夜ごはん、食べて行きたいな」
「日向さんには?」
「言ってある、から」
「そっか」
それなら、私に拒む理由はなかった。
「あそこにしよ」
「ファミレスでいいの?」
「うん。あんまお小遣い使いすぎるのも、あれだし」
「夜ごはん代くらい、私が出してもいいよ?」
「ううん。出させて」
「分かった」
真剣なまなざしに、頷きで返す。
ここまでも、美月ちゃんは自分でお金を払うことにこだわっていた。
それが必要だというのなら、それを尊重したい。
それにまあ、確かにしっかりしたレストランとかに行きたい感じの服装でもないし。
たまにはファミレスもいいものだ。
なにより好きな人と一緒なんだから、それ以上のことはない。
そんな訳で、私たちはそのファミレスに入った。
ファミレスといってもそこそこお高い方のファミレスらしく、こじゃれた店内ではゆったりとした時間が流れている。
流石に予約も何もないからロフト席は埋まっていたので、普通のテーブル席に案内される。
そうして、しばし、沈黙。
端っ子にちょこんと座らせたアイちゃん人形も、心なしかしょんぼりして見える。
いつまでもそうしている訳にもいかない。
どちらからともなくふたりでメニューを眺めて、つまむようにフライドポテトと、サラダ、あとパスタやピザなんかの分けやすいものを注文する。もちろん、ドリンクバーも忘れない。
「とってこよっか」
「……うん」
なにかずぅっと考え込んでいる様子の美月ちゃんを促して、ドリンクバーへと。
おもむろな手つきで美月ちゃんが淹れたのは、やっぱりオレンジジュースだった。
そして私は、
「あや姉、め、メロンソーダ?」
「え?うん」
ソフトドリンクと言えば、私の中ではメロンソーダ一択だった。
それが特におかしいとも思ったことはなかったし、言われたこともなかったから普通に頷くと、ぱちくりと瞬いた美月ちゃんは、それからぷふっと噴き出した。
「ふっ、ふ、ふふっ、」
「ええー。そんなに笑う?」
「だって、ふっ、んふっ、くふっ、あはっごめっ、あはははははは!」
こらえきれない、とばかりにおなかを抱えて笑う美月ちゃん。
なんだかなあと思う反面、少しだけ晴れたらしい胸の内を喜ばしくも思う。
美月ちゃんはやっぱり、こうして笑っているところが一番可愛い。
「もう。……ふふっ」
だから私もつられて笑って、ふたりして、なにかを取り戻すみたいに声を上げて笑った。
「あの、お客様。他のお客様もいらっしゃいますので店内ではお静かにお願いいたします」
「あ、すみません。失礼しました」
「ご、ごめんなさい」
そんなことをすれば流石に店員さんに叱られてしまって、ふたりして平謝りしながら席に戻る。
席に着いて向き合えば、どうやらなにかの覚悟は決まったらしい。
美月ちゃんは、まっすぐに私を見ていた。
「あのね、あや姉」
「うん」
「この前さ、あの後、お母さんに言われたんだ。あや姉のことは諦めろ、だって」
つい数日前のことを懐かしむように、苦笑しながら美月ちゃんは言う。
そっか、日向さんが……。
「あや姉は手当たり次第に女を手籠めにする鬼畜だーとか、恋人が二桁はいるーとか」
え、あ、日向さん……?
「あれはもう病気だから死んでも治らないとか、あんなのに引っかかったらおしまいだー、とか、あとド変態だから親のセックス見てビビってるようじゃ無理だーとかも」
日向さーん!?
「でも」
実の娘に言うことじゃない!と心の中で諸刃のブーメランをぶん投げる私に構わず、美月ちゃんは言葉を続ける。
「でもあや姉は、絶対に裏切らないから、って……わたしが嫌になっても、避けても、なにをしても、絶対にあや姉は、ずっと、ずっと、変わらないからって」
「うん」
それに頷くことへの躊躇いは、どこにもない。
私がそうであることを、私は確信している。
美月ちゃんはまぶしそうに目を細め、それから、うつむいた。
「―――こんなことで嫌になるなら、絶対に許さないって。言われたんだ」
静かに呟かれたその言葉に、心臓が弾ける。
そこに込められた煮えたぎるような愛を見落とせるのなら、私は私をやっていない。
「お母さん、ほんとにあや姉のこと好きなんだって、すごい、分かった」
「……うん」
「……多分あや姉はさ、きっと、そんなにも好きじゃないと、ダメなんだね」
「……」
「恋人も、お母さんだけじゃないとか、聞いてないもんなぁ……」
絞り出すような、震える声。
さっきは冗談めかしていたけれど、きっと全部、私のことを、聞いているんだろう。
ぽたりと落ちる雫が、テーブルを濡らす。
沈黙が、テーブルを包む。
「おま、、たせいたしましたー」
そこに割り込むように、料理が届く。
なにか不穏なものを感じ取ったらしい、手早く料理を置いて逃げるように去ってゆく店員さん。
それが去って、そこで美月ちゃんは、顔を上げる。
その動きに零れた雫が、頬を濡らして顎へと伝う。
潤んだ瞳が、けれどその向こうから、私を見つめていた。
「好きです」
――――――ぇ。
「あや姉。わたしの恋人になってください」
「ま、ど、」
どうして、と。
そんな声すらも上手く形作れない。
舌がもつれて、零れるのは奇妙に振るえる声ならぬ音。
だって。
だってその言葉を、口にできないのだと。
それを告げるための時だと、思っていた。
それなのに。
「一目見たときから、好きでした」
どうして彼女は、そんな目を。
「初めて聞いた声に、話し方に、また好きになりました」
そんな、そんな、私を、どうして。
「わたしのことを考えて、理解しようとしてくれるその姿が大好きです」
どうして私を、好きだなんて―――
「あんな姿を見て驚いたけど、わたしもあなたに触れたいと、思いました」
好きです。
好き。
と。
何度だって、美月ちゃんは言った。
私にその言葉を向けることの意味を、きっと、美月ちゃんは、知っている―――理解、している。
それが私には、痛いほどに、心地よいほどに、伝わる。
ああ彼女は私を好きなのだと、そう感じることの幸福が、胸の内を占める。
「……私は、すぐ誰かを好きになって、きっと、もっと、」
「わたしだってその誰かだもん」
「恋人が、二桁はいないけど、でも、ひとりじゃ、ないよ」
「今ここにはわたしだけだよ」
「きっと、ずっと。変わらないよ」
「そんなあや姉なら、ずっと見てきた」
「美月ちゃんの未来を、奪っちゃうよ」
「そんなことしなくたって、全部あげる」
「……」
「痛くなかったら、アブノーマルなのも頑張るよ」
「それは、えと、大丈夫」
「そうなの?」
「そうなの。そこだけはほんと完全に根も葉もないやつだから」
「ええー」
「そこで残念そうな声上げるのはお姉さんどうかと思う」
……。
「ぷっ」
「ふふっ」
同時に吹き出して、ふたりで、笑う。
笑って、笑って。
ひとしきり笑って、それから私は、そっと手を伸ばした。
美月ちゃんの頬を、拭いあげながら、目元に触れる。
「好きだよ」
「―――っぁ」
「私も、美月ちゃんが好き。恋人に、うん。恋人に、なってほしい」
「っ、うんっ、うんっ!」
ぶんぶんと、美月ちゃんは頷いてくれる。
せっかく拭った涙がまた零れる。
拭う指先は、あっという間に濡れてしまった。
「ほら、泣かないで」
「ぅう、だって、うぅぅ~!」
「はい、ポテトあるよポテト。さくさくー」
「あむ……おいひぃぃ……」
泣きながらポテト食べる美月ちゃん可愛い。
よぅしよしとなでなでしたりしながら、美月ちゃんが落ち着くまでのんびりとあやす。
そうしているとやがて美月ちゃんはなんとか気を取り直して、気恥ずかしげな様子でにへにへと笑う。
「あー、えっと、とりあえず忘れてくれると嬉しいなあ、とか」
「やだ」
「ええー!ほらピザあるよ?ね?」
「ピザはもらうけど残念ながら思い出は永久保存が基本だから。ごめんね」
「うぅ~!嬉しいけど嬉しくない!」
そんなやり取りでにぎやかに食事を摂っていると、オレンジジュースを空にした美月ちゃんが「そういえば」と口を開く。
そういえば、もなにも途中からずっと機会をうかがってたっぽいあたりを見るにその内容はなんとなく分かったけど、気づかないふりで首を傾げる。
「なあに?」
「あや姉ってさ、今もお母さんのこと好き?」
「好きだよ?」
「でも、なんかこっぴどく振ってやったー、とか言ってたんだけど……」
「ああ、まあそうだね」
たしかにあれはひどいと私でも思う。
というかマッチポンプすぎるし。
思い返してつい笑ってしまう私に、美月ちゃんは不思議そうに首を傾げた。
「のわりに、全然失恋って感じじゃないよね?」
「や、そりゃあ辛いし悲しいけど、だって別に、恋人じゃなくなっただけだからね」
「……?、いつっ」
なにを言っているのかとさらに深く首を傾げようとして、すじがぴきーんとなったらしい美月ちゃん。
そんな美月ちゃんも可愛いなあと能天気に思いつつ、疑問には応えようと言葉は勝手に続いた。
「恋人じゃないと好きじゃないなんてことないでしょ?恋人の母親で、まあ元カノ現……憧れの人とかかな?肩書なんてなんでもいいんだよ。私が好きで、相手も好きでいてくれるなら、辛い肩書なんて捨てていい」
恋人と娘を比べれば、特にまだ自立は先の中学生なんだし、それに日向さんは一人娘の美月ちゃんを心の底から愛していたから、そりゃあ娘を取るに決まってる。
けれど例えば、友達とかなら。
そんなの、そもそも土俵が違いすぎて比べるものじゃない。
気安く、気楽に、そばにいても、遠くにいても、心地よい。
そんな存在を、わざわざ娘に張り合わせる必要なんて、どっちかを選ぶ必要なんて、ないんだから。
だから今の形が、きっと、日向さんの思う円満解決だ。
すぐにはさすがに、全部が丸くは収まらなくて、過去を取り出して痛みを覚えることもあるかもしれないけれど。
ああ。
思えば、日向さんにはお世話になりっぱなしだ。
可愛い娘さんの人生をもらおうなんて大それたことを言ってしまった訳だし、今度色々合わせてお礼をしなきゃいけないなあ。
……なんて、そんなことを思う私だったけれど、ふと気が付くと、美月ちゃんは、なんとも言えない表情で私を見ていた。
「美月ちゃん?」
「……言っとくけど、あや姉。わたし、恋人以外でも好きならーとか言ってにこにこする気ないから」
「?うん。わたしも、美月ちゃんとずっと恋人でいたいって思ってるよ?」
「~~~!!もーあや姉もー!」
「わ、ちょっと……あ、このポテトチーズ合うね」
「ばかー!もー!」
顔を真っ赤に染め上げた美月ちゃんにポテトを突っ込まれる。
罵倒の年齢が下がりに下がるほどに恥ずかしがってくれたらしい。
牛みたいにもーもー言いながらのポテト攻撃は、そこそこ満ちた私のおなかには効果覿面だ。
「もー!あや姉なんてー!」
「なんて?」
「……すきぃー!」
「あっはは!」
そんな可愛らしい恋人の姿に、私は心の底から、ただ、笑った。
■
《登場人物》
『
・現役大学二年生。ぎりぎり二十歳になっていない。恋人に勧められたその娘の家庭教師で娘に惚れた挙句恋人と破局しその娘と恋人になる。一文でまとめるとこれ意味わかんないですねどうなってんだ。でもそれが綾さんなのです。仕方ないね。相手によって性質が変わるとかいうRPGの中ボスにありそうな能力を有する。最優先は目の前の好き合ってる人で、次に目の前にいない好き合ってる人、その次が好きな人、そしてその他。別に無理してるわけでも格好つけてるわけでもなく、相手を喜ばせよう、相手に好きを伝えようと思えば身体は勝手に動くのです。いろいろな意味で好きに生きすぎですね。
『
・現役女子中学生。母親の知り合いっぽい人に一目ぼれしたらその人が家庭教師になって急接近ドキドキとかしてたのにその人が母親とよろしくやってるの目撃しちゃってショックで落ち込んでたけど母親に後押しされて吹っ切れて告白したら恋人になれた。よかったねわーい(白目)。実際この子のメンタルが一番謎。なんならファンタジータグ付けるか悩んだ。下手したら人間不信ものですよね。そんな状況下でありながらも私もああして触れてみたいとか思うかね普通。一応、母親とあこがれの人がそういう関係らしいっていうのは、以前から結構しっかり把握していたと思いますが。匂いとか、洗濯した直後っぽいシーツとか、家庭教師のない日にも誰かが訪れた形跡とか、っていうかお母さん隠す気なくない?なんでキッチンのごみ箱にゴム捨ててるの!?もしかして私のこと嫌い!?反抗期の準備できてるんだからねこっちは!
『
・ひとり親として立派に娘を育てる母。年齢不詳。自分の恋人に娘が一目ぼれしたから家庭教師させて引っ付くよう仕向けたけどムカつくから恋人はこっぴどく振ってやった。情緒どうなってんの。この人の出番はこの短編がメインではないという予定ですが、それにしても精神性が謎めいてやがる。そもそもあなたの恋人って疲れるのよねぇ~、とか、後日普通にカフェとかで本人に向けてぐちぐちこぼしそう。娘のことは何より大事で、それを脅かすくらい大事なやつとか危ないだけだからやめちゃおっかなー、くらいの感覚。歪んでいるようではありますが、二人のことを好きであることに嘘偽りはない。子を比べるなんて、そんなバカなことありえない。つまりはそういうことでしょう。……いや、でもやっぱ恋人との情事を娘に見せつけるとか頭おかしいと思う。ってか楽しんでますからねこの人。やっぱただのやばい人だわ。
姫的な彼女の諸々の話 くしやき @skewers
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