姫的な彼女の諸々の話

くしやき

姫的な彼女の不倫の話

胸くそ的なのではないです。


《登場人物》

柊綾:ヒロイン。語り手。クール系(見た目)女子大生

川村麻美:ヒロイン。人妻


―――


 当時はまだ恋人と呼べる存在だったツバメの家からの帰り道、最寄りのコンビニ袋を片手に提げて。

 通りがかった公園で、彼女は静かに揺れていた。

 ブランコだ。

 すっかり成熟しきった女性が一人、ブランコに座って揺れていた。

 硬化プラスチックの鎖は滑らかで、コンビニ袋の音に掻き消されるくらいに小さかったけど、それでも私はなにかに惹かれて、本当なら目もくれないようなその場所に視線を向けた。それは多分運命とか壮大ななにかじゃなくて、きっと柔らかなそよ風が花粉とともに運んできた香水の香り。今どきの若い子の間で流行っているという、頭痛がするくらい甘やかなそれは、私にはそれまでまったく理解できやしなかったけど、その瞬間だけは確かに不快感なんてなくて、むしろそう、それこそ本当に、さながら蜜に誘われた虫みたいだったと思う。


 それに気がついたのは後日、彼女の表面から一向に染みゆかないそれが、結局慣れないままにすっかり落ちてしまった後のことで。


 実際そのときは、ああ彼女がいるから私は振り向けたのだろうと、そんなポエミーなことを考えてすらいたけど。


 いざ彼女の姿を一目見た時に、寂しそうだなとか、悲しそうだなとか、可哀想だなとか、そんな感情はまったく湧かなかった。

 ただなんとなく……いや、違う、たまらなく、そうどうしようもなく、彼女のことが欲しいと思った。

 それまで私は、むしろ性根としてはずっと乙女のようで、身体を重ねるというのは紛れもなく愛を確かめる行為なんだと信じていたし、愛する人以外に気持ちいいからだなんていう理由で身体を許すことは絶対に有り得なかったし、今ももちろん根底にそれはあるけど、でも同時にそのとき私は確かに、愛なんてなく、ただ欲情していた。もちろん初対面、どころか正確には対面していない状態で愛だの恋だの語る方がどうかしている、とは思わない。一目惚れというやつは確かにあって、それを確信できる程度には、私も経験したことがある。けどそのときは間違いなく、私はただ欲情していた。彼女のことなんてきっと一目も見てなかった。惚れる間もなく触れたかった。どうしてかはまったく分からなかったけど、そのときの私は、至って当然のように、彼女を強姦するつもりでいたんだと思う。無理矢理に引き倒して、服を剥いででも、めちゃくちゃにするつもりだったんだと思う。


 だけど。


 夢遊病者のようにふわふわと近づいていく私に気がついた彼女は、顔を上げて。

 生気がないというよりはむしろ死者のような悲壮感と、この世の全てのことを全部棄ててしまったかのような絶望感を、私に向けて。

 そして、こう言った。


「こんばんは」


 その、あまりにも場違いな言葉に。

 きっとその瞬間、時間帯以外の全てにおいて間違い尽くしていたんだと思う、その言葉に。

 気がつくよりも早く、条件反射よりも随意的に、言葉が口をついて出た。


「こんばんは」


 ―――だから。


 だから私は彼女の手前で、隣合うブランコに座って。

 性欲みたいなものが、ぐつぐつと煮立つ下腹部を冷やすようにコンビニ袋を抱いて。

 そしてそこから取り出した、まだまだ冷たい麦茶を差し出した。


「私、ウーロン茶派なんです」

「私は、あまり苦いものは好きではないわ」


 彼女は受け取った麦茶を一口飲んで。


 それが、私とマミさん……野々瀬麻美との出会いだった。


 ■


 マミさんは、人妻なのだという。

 大学で出会った男性とお付き合いをして、一度別れて、そしてもう一度出会って、結婚に至ったらしい。間違いなく互いに愛し合っていて、紛れもなく互いに尊重し合っていて、果てしなく一緒にいるはずだとマミさんはそう思っていたし、きっと旦那さんもそう思っていたはずだった。

 今どき珍しく苗字を受け取っているという辺りからも、その熱愛ぶりは伺える。


 しばらくして旦那さんは、子供を欲しがった。


 二人の愛の結晶として。

 二人の愛の極点として。

 けれどそれは、マミさんには絶対に与えられないものだった。

 結婚して、二年ほど経ってようやく判明したその事実に、旦那さんは少し、おかしくなったらしい。同姓同士ですら子供を作れるようになって、避妊治療なんて99%は成功するような現代にあって、だからこそ今どき子供がいないことなんてほんの小さなことでしかないはずなのに、旦那さんにとってその些細なことは、あまりにも大きな部分を占めていたんだろう。

 子供を作れないマミさんに、旦那さんは暴言を吐くようになった。

 粗雑に扱うようになった。

 半ば強姦めいた性交渉をするようになった。

 マミさんの不妊の原因は先天性の遺伝子疾患で、数年前のあるとき突然に発見されて、未だに原因も治療法も分かっていないような代物だった。詳しくは分からないけど、例えば受精もそうだし、他にも移殖やなんかでも、他者の染色体を拒むようになってしまう病気らしい。

 拒んで、排斥して、壊してしまう病気らしい。

 ただ中には、他者の中にも受け入れられる遺伝子を持つ人間が存在することもあるとかで、多分それもまた癪に障るのだろう、他者には可能性があるかもしれないというのが、仮定の話を出ないにしても自尊心を大いに傷つけたのだ。売女だとかアバズレだとか、暴言の中にはそんな事実無根の不名誉極まりない罵倒まで入っていたという。

 それでも旦那さんは、離婚しようとはしなかった。それは一体どんなこだわりによるものなのか、分かりやしないけど、離婚することは許さなかった。

 そしてマミさんはそれに従って、いつか旦那さんがマトモに戻ってくれるのだと、子供なんてなくても愛はあるのだと、そうやって受け入れてくれるのを信じて耐え忍んだ。

 耐え忍んで。

 耐え忍んで。

 じわじわと心をすり減らしながら。

 ひたすらに耐え忍んで。

 急遽仕事の予定が狂ったとかで早くに帰った際にベッドで繋がる男女を見たとしても、それでもまるで何事もなかったかのように振舞って。そのお腹が膨らんでいることに気がついても、まるで何事もなかったかのように、振舞って。


 そしてその日。


 帰宅したマミさんを迎えたのは、大勢の見知らぬ男性だったらしい。

 いや、中には旦那さんの職場の知り合いとかで目にしたことがある人もいなかった訳ではなかったらしいけど、少なくともマミさんの感知しない間に家に上がっているはずの人間なんて、そこにはいなくて。

 彼らは言ったらしい。

 旦那さんに、マミさんを貸し出してもらったのだと。

 言ったらしい。


 マミさんはそして、そこでついに、それともようやく、切れた。

 心が。

 切れて。

 だけどそれでもなけなしの自尊心が、その場から即座に逃走を試みたという。

 結果それは、なんとかかんとか成功して。

 なにも考えずに電車に乗って、人の波に乗って降りてみて。

 ふらふら歩いて、歩いて、歩いて、歩き疲れて。

 そしてあそこにいたのだと。


 そんな話を、マミさんは初対面の私に、まるで他人事みたいに話した。

 それを聴きながら私は、その旦那さんへの怒りだとか、マミさんへの憐憫だとか、そういうものを感じてはいなくて、ただ話すにつれて少しずつ薄まっていく情欲が不思議だった。そもそもどうして話を聴いているのかもよく分からなかったし。

 そして、マミさんが話し終わって。

 その時に、多分、ようやく初めて私はマミさんの姿を見て。

 するとどうだろう、私は気がつけば携帯端末を取り出していた。

 旧式の、タッチパネル型。アナログCPUのほぼ初期世代にして、3Dディスプレイにすら未対応という、ほんの一年くらいしか製造されていなかった曰く付きの一品。高性能だと身に余るというのを知っているからメインに使ってはいるけど、こんなものは別になくなった所でまったく困りはしないからと、ロックを解除して、とっぱらって、それからマミさんに手渡した。

 マミさんはなにかを考えているとかじゃなくて、きっと条件反射的にそれを受け取って。


 私は言う。


「うちの連絡先が電話帳に入ってます。連絡してください」


 そして私はそれ以上なにも言わずに帰宅した。

 帰宅して。

 確認してみると、もう私の携帯端末から着信が入っていた。その想定外の早さに、もしかすると普通にお話できたのかもしれないなと思いながら確認して、やっぱりそんなことはなかったと知った。


 空メールだった。


 その空メール以降、これといって連絡のないままに日数は過ぎた。

 連絡を待つだけじゃなくて、帰り道や、散歩のついでに公園を通りがかってみたりするけど、やっぱりマミさんはいない。まあ電車で来たと言っていたし、はなからそこまで期待はしていなかったけど。それでもほぼ毎日、外に泊まるとき以外はほとんど、私はその公園を通りがかって、ブランコを見て、そこにマミさんの姿を探していた。たまにマミさんの座っていた方のブランコに座って、なにか彼女の面影が、熱が、香りが残っていないかと熱心にお尻を擦りつけたりしていた。まあ傍から見ればきっと異常だったと思う。大体それは夜遅くだったから、傍で見る人もそうはいなかったけど。

 そんなこんなで、普段通りの中にひっそりとマミさんの時間を作って、それでもやっぱり普段通りに過ごしていたある日のこと。

 そろそろ春服だと少し暑すぎるかもしれないと、そんなことを思う時期。

 再会は唐突だった。


「すみません」


 と。

 自宅から最寄りの駅前。仕事帰り。今年からの新人が仕事のことで悩んでいるのを、どうやって解消してあげようかと考えていたとき、不意に。

 これまでの時間からすればほんの短な間で、随分と聞き覚えてしまったその声に、呼ばれた。


 はたして振り返れば、彼女がいた。


 申し訳なさそうに、怯えるように、けどどこか期待するような表情のマミさんは、この前と比べると、少しは活き活きとした様子で。相も変わらず髪は肩まで伸びていたけど、それでもこの前より少し短いだろうか、それを揺らして早足に近づいてくるその姿は、なんだか堪らなく可愛らしかった。どう見ても年上の女性に対して、可愛いというのも不思議な感覚だったけど。


 まじまじとその姿を見て、けどなにも言わない私にマミさんは、瞳を揺らす。

 きっとそれは不安の表れで、だから私はそれを払拭するように微笑んだ。


「お久しぶりです、マミさん」

「あ、やっぱり、あのときの人だったのね」


 ほっと安心した様子で一息ついて、それからマミさんは肩に掛けていたバッグから、一つの携帯端末を取り出した。


「これ、お返しするわ」

「ああ、これはどうも」

「あなた、随分おモテになるのね」

「そんなことは、ないと思いますけど」


 どこかからかうようなマミさんの言葉に、私は無性に恥ずかしくなって目を逸らす。

 きっとメールを見られたんだろう、携帯端末の方のメールは使えないという旨をみんなに伝えてはいたけど、思えば、もうフォルダにあったメールはどうもしていなかったはずだ。別にやましいことをしている訳でもないから……まあ、少しばかり人に見せるのをはばかる内容のものが無きにしもあらずにせよ、それでも別に恥ずかしがらないで堂々としていればいいんだろうけど、どうしてだろう、今の視線はなんとなく、とても、駄目だった。


 少しして「ふふっ」と、小さな笑い声が耳に届く。

 ほんの僅かな躊躇いの後視線を向けると、マミさんは口に手を当てて、とてもおかしそうに笑っていた。そんな仕草ひとつ取っても上品な感じがして、私は少しどきりとする。


「ごめんなさいね、気分を害したのなら謝るわ」

「いえ、そんな」

「わざと見た訳じゃないわよ?ただ、どんなメールを送ろうかしらってアプリを開いたり閉じたりしていたら、件名とか送り主とか、いやでも目に付いちゃうじゃない?」

「メールを?」

「ええ、送ろうとは、していたのよ?」


 私としては、メールを見られてしまったということよりもそっちの方が驚きだったし、なにより、ただそれだけのことで嬉しいと感じていた。

 そんな私に追い打ちをかけるみたいに、マミさんは悪戯めいた笑みを浮かべる。


「でも文面が思いつかなかったから、いっそ直接来ちゃったわ」


 ぺろっと覗く舌に、胸が高鳴る。

 愛おしくて愛おしくて、胸の奥で芽吹いたそれが瞬く間に全身に根を張って、燃え盛る花弁が頬に咲いているのを実感する。

 それを伝える手立ては、悲しいことに言葉しかなかった。

 きっと言葉でなら、誰も拒んだりしないから。

 だけどその言葉だって、簡単には出てこない。

 一生懸命に脳を回転させて、体温のせいできっと膨張してしまった肺に苦しさを覚えながら、喉に殺到する激情を、どうにかこうにか整形する。

 整形して、整形して、あいにく不器用な私は、それに模様をつけることもできないけど、それでもなんとか完成した言葉を、ようやく私は口にする。


「嬉しいです、とても」


 こんな言葉でも、私の気持ちは伝わるのだろうか。

 それだけが気掛かりで、だけど。


 だけどマミさんは、驚いたみたいに目を見開いて、それからそっと、よしよしと頭を撫でるみたいに、抱き締めてくれた。

 ほんのりと美容院の匂いが混ざった、柔らかく熱を持った大人の香り。

 くすぐるような布地と、溺れそうな程に包み込んでくれる肉体の感触。

 まるで裸で抱き合っているみたいにじっとりと染み入ってくる体温に蕩けてしまいそうで、静かに逸る鼓動音に、私のそれが同調してゆくのを感じた。


 私のほしいものが、そのとき全部そこにあったんだと思う。

 なにもなくたって、彼女の愛を信じられた。


 そうマミさんは、私を愛してくれている。


 これまでにない、それは感覚だった。

 いやそれともあったけど、忘れてしまっているだけなのだろうか。

 きっと私はそのとき、産まれたての赤ちゃんが、初めてお母さんに抱いてもらっているのと同じ気持ちだった。


 私は、赤ちゃんがそうするように、そのふくよかな胸元に顔を擦りつけるようにして、マミさんの顔を見上げた。

 マミさんは私を見ていて。

 慈愛に満ちた目が、私を見ていて。


 そして彼女は、だけど言った。


 いっそ聖母じみた雰囲気を纏った彼女は、だけど。


「ねえ」


 私を甘い蜂蜜に満たされた底なし沼に引きずり込むように、言う。


「私と、不倫してみる気はないかしら」


 ■


 不倫。

 すなわち倫理に不適切なことで、まあ確かに恋人がありながら他の人と愛を育むことは倫理的に間違っているんだろうなと。


 マミさんとの不倫生活も、気が付けばいくつかの月を重ねる程になっていた。

 不倫といっても、そう大したものじゃない。駅前をぶらついて、面白そうなお店に寄って、マミさんの愚痴を聞いて、私の愚痴を話したりして、たまには好きなことの話をしてみたり、映画を観て感想を言い合ったり……まあそんな、普通の女友達とやるようなことを、不倫しているという意気込みでやっているぞと、それだけのこと。

 なんだろう、なんというか、すごいポジティブな不倫だったけど、なんにせよそれは不倫で、不倫であるということはつまり、マミさんは依然として、結婚をしたままということで。

 聞くところによると、あの日出会ったときの件は流石に警察沙汰になりかけて、でもまあ色々とあった結果、元通りに、戻ってしまったらしい。


 マミさんは言う。


「そろそろ、離婚したいのだけどね」


 なんの気なしに、唐突に、ついさっきまでこのサラダの下に敷いてある葉っぱはなんていう野菜なんだろうとか、そんなことを話していたときに、ふと思いついただけみたいに。


「中々、準備が整わないのよ」


 そう言ってマミさんは、薬指に嵌る銀の指輪を撫でるのだ。


 つけっぱなしでいたらすっかり抜けなくなってしまったというそれを、撫でるのだ。


「……あやちゃんは、いつもそういう顔をするわよね」

「……どんな顔ですか?」


 訊ねてみても、いつも答えは返ってこない。

 ただにっこり笑って、指輪を撫でていたその指で、そっと私の頬を撫でる。


「もう少しだけ、待っていてね」


 最後に私の唇をなぞって、マミさんの指は離れていく。


「そういえばこの前―――」


 それだけで、マミさんはまるで、それがまったくなんでもないことだったみたいに話題を変えるから、私は戸惑いを残したままに、だけどマミさんに合わせて、またなんでもない話を始める。


 それがまあ多分、私たちの不倫関係の中で、一番不倫っぽいことなんだろうなと、思わないでもない。具体的になにがどうというのは、いまいちよくは、分からないけど。


 そんな不倫生活を、まあのんびりと続けていた訳だけど。

 それは、まったくなんの前触れもない、ある日のことだった。


 待ち合わせ場所に現れた、マミさんを見て。


 その、どこか申し訳なさそうな、居心地の悪そうな表情を見て。


「マミさんっ!」


 私は頭の中が真っ白になって、掴みかかるような勢いで、マミさんに駆け寄っていた。

 そんな私を優しく受け止めて、それがまた、どうしようもなく苦しくて。


「あやちゃん。大丈夫、私は大丈夫だから。ね?」

「大丈夫じゃない!大丈夫なんかじゃないっ!」

「あやちゃん……」


 ヨシヨシと、なだめるように頭を撫でるマミさんの手は、どこまでも優しくて。

 だけど同時に気がついてしまった。

 さらりと触れる袖に、気がついてしまった。


 どうして気が付かなかったんだろう。


 知っていたのに。


 なにせマミさんは言っていたんだから。

 初めて会ったあのときに。

 言っていたから。


 だけど私は気がつかなかった。

 マミさんが私を愛してくれているというだけで、マミさんが私の好きをめいっぱい受け入れてくれるというだけで、それだけで満ち足りて、傍にいるだけで、私はただ、愛されるだけで幸せで。


 自分の身勝手に嫌気がさす。

 自己中心的な自分に、怒りすら抱く。

 人は簡単には変われないとか、どんなに変わったように見えても根っこのところは変わらないとか、そんな言葉を弄するなら、私は全部終わりなのに。


 私に生きてる価値なんて、ないのに。


「マミさん、それ、……旦那さんに、されたんですか……?」


 私の言葉にマミさんは。

 胸の奥に秘めていた苦痛を思い出すように表情を歪めて、そしてそれだけのことで、きっとそのガーゼの下の傷・・・・・・・は痛烈に存在を主張して、奇妙な表情になって。


 だけど確かに、頷く。


 気が付かなかった。

 知っていたのに。

 私は。


 マミさんがいつも長袖を着て、過剰なまでに肌の露出を避けていた理由も。

 マミさんが私と絶対に腕を組もうとしない理由も。

 マミさんが必ず、私より遅く来る理由も。

 知っていた、はずなのに。


「離婚届をね、渡してきたわ」


 言い訳するみたいに、マミさんは言う。


「それで、裁判の準備もあるって言ったら、怒らせちゃったみたい」


 どうしてマミさんがそんな顔をするのかと、私に言う資格はない。

 一方的にマミさんに甘えて、愚痴を聴くだけでマミさんを楽にできているなんて思い込んで、不倫なんて言葉に惑わされていた、酷く愚かな私には。


 ―――だけど。


「でも、おかげでいい武器ができたわ。きっとこれで間違いなく勝てるわね。離婚してからの生活もきちんとできるように色々工面したし、もう家も用意してあるの。弁護士の人と色々話もつけてあるから、あとは」

「マミさん」


 マミさんの言葉を遮って、私は彼女の名前を呼ぶ。

 彼女の目を見て、その、どこまでも気丈で、どこまでも純粋で、ああ。


 どうして気が付かなかったんだろう。


 もしかすると、これが初めてなのかもしれない。

 マミさんの目を見たのは、これが初めてなのかもしれない。

 彼女が私の目を見ることはあっても、私は彼女の目を見たことがなかったんだ。


 だって。


 だって、こんなにも。


 マミさんの目はこんなにも、悲痛を抱いて揺れている。


 けどマミさんは、私を拒絶するように。

 私の全部を拒絶するように、身体を離して顔を背けて。


 きっと見られたくないものだらけなんだろう。

 かけられた鍵ごとマミさんは、それをしまい込もうとしている。


 けど何度だって、私はマミさんの視界に入り込む。


 偶然だっていい。

 なんだっていい。

 だけど少なくとも、見ていなきゃ見えやしないから。


「マミさん」

「…………私は、」


 恐れと痛みに慄く声に、私は耳を傾ける。


「私は汚れているわ、汚れているの」


 そんなことはないと、告げる言葉に意味はない。


「どうしようもなく、汚れているの」


 綺麗だなんて、どこまでも薄っぺらだ。


「あなたと会うようになってからも、私はずっとあの人に抱かれているの」


 知ったことかなんて嘘でしかない。


「それにいっぱい、痣もあるのよ」


 気にしないなんて訳がない。


「きっと、きっとあなたは幻滅するわ」


 だけどそもそもそんなこと、どうして関係があるだろう。


「だから、」

「マミさん」


 それ以上の言葉に意味はない。

 御託なんて要らない。


 簡単なことだ。


 簡単なこと。


「マミさんは、私のことを好きですか」


 私の問いかけにマミさんは、困惑と共に瞳を揺らして。

 それでも私はマミさんを見て、見て、見続けて、そしてついにマミさんは、ゆっくりと、恐れるように首を振る。


「好き、よ、でも」

「ならいいんですよ、マミさん」


 マミさんが言葉にしてくれた。

 私を好きだと言ってくれた。

 それは言葉にしなくても伝わる愛とは違うもの。


 仮にそうじゃなくたって、私はそうだと知っている。


 こういうときには、なるほど私の難儀な性格は、自分でも、少し厄介だなと思うトラウマは、役に立つことができるらしい。


 その最高に幸福な勘違いを胸に、私は言う。


 マミさんの頬に手を触れて。

 ガーゼの上から優しく触れて。

 マミさんの傷を癒す嬲るように。


 触れて。


「ねえマミさん」


 だって好きって言ったから。

 私を好きって言ったから。


 私の好きなあなたから、あなたが好きと言われたから。


 ―――だったらもう、そんなくだらないあれこれで、あなたを絶対逃がさない。


「不倫。しましょうか」


 ■


「……あの日ね、死のうとしていたのよ」


 流石に少しやりすぎたかもしれないなあとか思いつつ。くたくたになって立てないというマミさんの頭を少し気まずい気分で撫でていると、不意にマミさんが言った。


「え?」

 

 勝手に脳内で相談相手にしていた天井のライトくんから、視線を下ろす。

 ちょこんと布団から顔だけを出したマミさんは、どこまでも穏やかな、だけど少し恥ずかしそうな表情をしていて。


「あやちゃんが来てくれなかったら、きっと死んでたわね」

「それは……そんなはにかんで言うことじゃないと思うんですけど」

「いいのよ、だってあやちゃんは来てくれたじゃない」


 運命を感じたわ、と。

 マミさんは言う。


 意外と、ロマンチストなんだろうか。


 そんなことを思っていると、ロマンチストとは思えない悪戯めいた笑みを浮かべる。


「だけど、もちろんその分責任を取ってもらわなきゃいけないわね」

「わ」


 がば、と、押し倒される。

 そのままマミさんの、色々と柔らかすぎる身体の下敷きにされて。


「もうやめてって言っても、無理矢理するし」

「ご、ごめんなさい」

「おかげであやちゃんの指とか舌の形、完全に覚えちゃったわよ」

「ぅ……」


 なんだろう、マミさんみたいな大人の女性にそういうことを言われると、なんというか、こう、くるものがある。


 恥らう私を弄ぶみたいに、マミさんは私の身体を指でなぞる。


「私の全部を知られちゃって、その上全部あやちゃん色に染められちゃった気分ね」


 それも、む・り・や・りっ。


 言葉に合わせて、む、に、む、に、と脇腹をつままれる。

 こそばゆくて、心地いい。

 声が出そうで堪えると、その分なんだかその場所から意識が逸れてしまって、なんだか却ってこそばゆくなって、堪えて、という悪循環。


 身悶えする私を見て、マミさん、すごい嬉しそう。


 ひとしきりそうやって私を虐めて満足したのか、マミさんはぱっと手を離す。


 そして私の顔を見て、にっこり頷く。


「やっぱり、そういう顔の方が可愛いのね」


 その言葉に私はどきりとして、だけど平静を保って、首を傾げる。


「そういうって、どういう顔ですか?」

「そういう、私が大好きっていう顔よ」

「んむ、」


 がぶ、と、そんな効果音がするくらいの勢いで私の唇を奪うマミさん。

 まむまむと貪られて、そしてんぱ、と口が離れる。


 唾液が糸を引いて、身体の上に落ちてくる。


「私が夫の話をするとき、いつもあやちゃん、私なんて見てなかったわ」

「……」

「思えばそれを嫌だと思ったときから、とっくに私はあなたのことが好きだったのね」


 そう言ってマミさんは笑う。

 私には、そう言われてもやっぱり、いまいち分からなかったけど。

 でも今度からはきっとそんなことがないようにしようと。


 ずっとマミさんを見ていようと、そう思った。


「マミさん」

「なぁに?」

「好きです。マミさん」

「……私も、好きよ。あやちゃん」


 ……そんなこんなで。


 それからまたしばらくして、私たちはまた次に会う約束をして、別れる……んだけど、シャワーを浴びて、二人で着替えて、身だしなみを整えているときに、ふと気になっていたことを思い出した。

 きっかけは香水の匂い。

 そっと香るそれは、大人びた、控えめな香り。


「そういえば、マミさん、ずっと気になっていたんですけど」

「なにかしら」 

「マミさん、初めて会ったときは甘かったんですけど、二回目からはずっとそれですよね」

「甘い?」

「香水です。もしかして、私に会うとき、気を使ってました?」

「……ああ、そういう……いいえ、違うのよ」


 言って、マミさんはそっと目を細める。

 その表情は、まるで聖母のような慈しみに満ちて。


「それじゃあ」

「そもそも私、若い頃からずっとこれなのよ」


 ふりふりと揺らす瓶は、綺麗な青色に波打っている。

 少し年季を感じる気がするのは、もしかして、詰め替えて使っているからだろうか。


 でも、だとしたら、どうして最初は違う香水を?


 私の疑問に答えることなく、マミさんは私を手招きして、そして近付いた私を抱き締める。


 ふわりと包まれるそれは、やっぱり、あんな甘やかなやつよりも、マミさんに似合っていて。

 私の頭を撫でながら、マミさんは続けた。


「……あの子がね、使っていたのよ」


 あの子。


 それだけの言葉で、だけど私は理解した。


「隠す気がないくらい家中全部、頭が痛くなるくらい沢山に。そのときの私の心境は、少ししか分からないけど、でも多分これを使い始めたのは、嫌がらせみたいなものだったと思うわ、っ……!」


 言って、なにかを誤魔化すみたいに目を逸らすマミさんの顔を無理矢理にこっちに向かせる。

 そして当然のように、唇を奪った。


 さっきの仕返し。


 痛めつけるように、ひたすらに。


 しばらくして口を離して、とろんと蕩けそうなマミさんの目を見て、私は言う。


「全部私に見せてください」

「……あやちゃんって、意地悪なのね」

「ええ、よく言われます」


 誰に言われるのかしらね、なんて拗ねたみたいに言って、だけど嬉しそうに頬を緩めながら、マミさんはまた続ける。


「そうね。確かに私は、あの人の気を惹こうとしてたわ。あのときはまだね」

「そうですか……」

「自分で言わせといて凹まないでほしいわね……」


 もう、と呆れたように言って、口付けをひとつ。

 それだけですっかり気を取り直す私は、だいぶちょろい。


「ま、だけど全然意味はなかったのよ、これが」

「どうしてですか?」

「あの人ね、そもそも私の香水の匂いなんて覚えてなかったの」

「え」

「一応続けてはいたけど、全く気付かれもしなかったわ。ほんとにやんなっちゃう」

「ええ……」


 それはまたなんというか、なんというかな話だ。


 けどまあ、どうでもいい。

 どうでもいいというか、そんなことより大事なことは、もう聞いたから。


「嬉しそうね?」

「まあ、そうですね」

「……もぅ」


 恥ずかしそうに頬を赤らめるマミさんに、敢えてそれを口にしたかったけど、やめておいた。いや、そろそろ本当に帰らないと、ちょっとまずいし。


 だから私は最後にひとつ、どうしてもこれだけは言っておかなければならないということだけ、言うことにした。


「マミさん。その匂い、好きです」

「……あなた、帰る気ないでしょう」


 え、いや、ちがっ、


 ■


「痕になっちゃってるわね」

「なっちゃってますね」

「恐らく、しばらくは消えないと思われます」

「……ま、仕方ないわ。少なくともこれで余計なしがらみは一つ消えたものね」


 あっけらかんと笑うマミさんは、そう言って真っ二つに切断された銀の指輪をゴミ箱にポイした。


 それから、店員さんと切断機内蔵AIのキリンちゃん(店員さん命名らしい。さすがにキリングはまずいかな、とのこと)に別れを告げて、ジュエリーショップを後にする。

 別に室内も十分に明るかったけど、多分気分的なものなんだろう、マミさんは眩しそうに空を見上げて、んんーっ、と伸びをする。


「はあっ、これで晴れて完全に自由の身ね。新生、川村・・麻美よ」

「そうでもないですよ」


 清々しく言い放つマミさんの左手を取って、そしてその薬指の痕を隠すように、リングを通す。


 うん。

 綺麗だ。


「あ、あやちゃん、これ、えっ、」

「それ、その色、マリンブルーっていうらしいですよ」

「マリンブルーって、それ……」

「やっぱりマミさんには、マリンブルーなんですね」


 プラチナの砂浜に、波のように揺らめくマリンブルー。

 瑞々しいというか水々しいけど、どこか遠く深みがあって、穏やかな色。

 母なる海っていうし、そこもなんとなくマミさんらしい。


 マリンブルーの指輪、いつもの香りを纏って、愛しい恋人からすっかり過去の色が消え去ったことに、どうやら密かに嫉妬していたらしい、私も清々しい思いになって、確かな満足と共にうんうん頷く。


「……ってそうじゃなくて!これ、このリング、」

「責任、とりますよ」

「……ふぇ」

「早速で悪いですけど、今日から麻美ですね」

「………………へぁ!?ち、ちが、だっ、でっ、そういうことじゃないのよ!?」


 あわあわと慌てるマミさんは、うん。


 押し倒したい、くらい好き。


 ■


《登場人物》

ひいらぎあや

・この頃が一番いたずらっ子な性格してる二十三歳。他の恋人たちに悪いからとマミさんには結婚を断られたらしい。でも指輪はちゃんと貰ってもらいましたよ。その後マミさんの香水を色々変えて自分色に染めるというブームが到来したりするけど、やっぱりあの甘いのはない。もうちょっと控えめならいいんだけど。


川村かわむら麻美まみ

・思いの外責任取るのに前向きでふぇ……へぁ!?な三十【自主規制】。あやの他の恋人に悪いと結婚を断ったけど、やっぱり結婚するのも悪くなかったかもなあとか思いつつ、でも今くらいの関係がちょうどいいし……とたまにぐらぐら。あやに到来した香水ブームは実はマミさんからの提案。マリンブルーは好きな色、だから多分、そっちはきっと幸せ色。ちなみに旦那さんは、うん、後々現れて云々は絶対にないよ。接近禁止命令とか、多分強制度が今の比じゃないし。

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