第4話(2):奇襲と動揺

 キヅの森はこの辺境の地域で、面積に対する生物の種類の割合が最も高い場所だと言われている。深奥まで行かなければ意見が少ないこともあり、調査人見習いや駆け出しが勉強のためによく訪れる場所でもある。

 昔はよく訪れたものだと、マルカは懐かしくなる。


「どうだ、懐かしいか?」


 マルカの尋常を察したのか、布を撒いた槍を肩に担いだムスティフが訊ねる。ジダはマルカの背嚢からムスティフの肩へと場所を変えて、キラキラとした目でその獲物を眺めていた。


「はい、とても……。ここのキャンプ地に住んでいた、と言っても過言ではないくらいでしたからね」

「皮肉なもんだよな。生態系を壊す魔女の生み出した土地が、調査人の勉強場所になってるなんて」

「……森の魔女の墓場ね」一際太い大樹の幹を撫でながら、モーラン。「もともとは何もない土地だったのを、森の魔女が木々を生やして小さな森にして住み着いた。そして魔女が死ぬとその森は急激に広がって、今のキヅの森になった……」

「はい。この森に住む生物たちは魔女が死んだ中心部に引き寄せられている、と言われています」

「だけど弱いやつは奥に近寄れねえ。縄張り争いに負けるからだ。結果として、魔女の死んだ地点に向かうにつれて危険な生物が増えていく、変わった生態系が築かれたんだ」

「へえ……、話には聞いてたけどそういう理由だったのね」


 モーランは感心したように頷くと、樹の皮を一枚毟って背嚢に入れた。

 ジダとククルの子ども組は、なにやらムズカシイ専門的な人の話を理解するのを諦めて、「この花きれいだね」「ボクはこっちの方がカッコイイと思う」と自分たちは自分たちで盛り上がっていた。


「……少し用心してください。第一層を抜けて二層に移ります。ここからは少々危険な生物が現れます」


 キヅの森は一層から四層までに別れている。……別れているというか森は一つながりなのだけれど、見られる動植物が大きく変わる地点でそう区切っているのだ。

 森の外側が第一層、中心部が第四層だ。


「戦闘能力を持たない者は第二層への侵入は禁止されてる。……ここからは命の危険がある、ピクニック気分はもう終わりだぞ」


 低い声でムスティフが言った。ただの低い声ではない、威厳や威圧を込めた力強い声だった。ククルとジダはきゃいきゃい騒いでいたのをピタッと止めて無言で頷いた。

 モーランも周囲の植物を観察していたが、森の空気が変わったのを肌で感じたようで、手に持っていたのをしまうと真剣な顔でムスティフの隣に並んだ。


「サイクロプスは本来三層の奥に現れる害獣だ。だが前に俺が交戦したのは二層。もう姿を現すことも有り得る」

「ククル、わたしの隣に来てください」

「うん。ありがとう、マルカさん」

「……助手を守るのは当然ですよ」


 ククルはマルカの手を握った。マルカは力強くそれを握り返した。


*


「本当にククルを連れて行くのか?」


 荷造りをしている際にムスティフに言われた言葉を思い出す。

 ケット・シーや植物人間でさえ危険があるかもしれないのだ、なんの能力も持たないただの子どもであるククルを連れて来るべきではないというのは言うまでもないことだ。


「あの子、魔女病だよな? 一目見て分かったよ、だって同じだったからな。お前も隠すつもりはなかったんだろうけどよ」

「そうです、魔女病です。……『種』の方ですけれど」

「まあ、だよな。……いや、さっきの言葉を訂正させてくれ。ククルの方がずっとマシだな」

「マシとか、そんなのありませんよ。心を奪われてるんですから」

「……そうだな、今のは俺が悪かった。…………だからいろんな経験をさせたい、いろんな世界を見せたいって考えも分からないけどな。まあ俺はお前に調査協力を願い出てる立場だからよ、強制はしないしできないししたくもないから、お前にその気がないならこのやり取りは忘れてくれ」


 …………マルカとしても苦渋の選択だった。

 マルカを、短い間だったけれど共に旅をした助手を、そしてこれから旅をする相棒を、危険な目には晒したくなかった。


 だけれど。

 何が起こるか分からないよりも――あらゆる事態に備えておく、というマルカの考え方。

 きっとククルの力が必要になると、マルカはそう考えたのだ。


 これは予想だが――あくまで予想だが――サイクロプスの異常行動に対して、マルカは一つの予想を立てた。混乱させてしまうかもしれないし彼女自身その可能性を否定したかったのでまだムスティフには言っていないけれど、こうかもしれないという予想はあった。

 最悪の状況だから否定したかった、ではなくて、それがあまりにも最低な行いだからだ。


 そして、もしそうだとすればククルの力が必要になる。

 ククルの優しさが、必要なのだ。


 ケット・シーの騒動の際、最終的に事態を収束させたのはククルだった。

 悪いことをしたら謝るというのは当然のことで、でも大人になるとそれが出来なくなってしまう。その当然を当然のように口に出したククルの優しさと純粋さに感化されて、あの騒動は解決した。

 マルカには、それは出来ないのだ。ククルの考えは理解できているし同じ言葉も言えるだろう。でも同じ結果はマルカには生み出せないのだ。


 その、特別ではないけれど特別な能力――ククルの優しさが必要だとマルカは判断したのだった。マルカの人ならざるものに対する知識やムスティフの卓越した戦闘技術よりも、相手の気持ちを考え痛みを理解しようとする優しさが必要なのだと。


 だから、苦渋の決断だった。

 だってそれは、ククルの安全を捨て置いてその能力を利用しようと、そういうことだったからだ。どんなに綺麗な言葉で取り繕おうと言い訳しようと、その事実は絶対的なのだ。


 わたしは今、サイクロプスへの各省の無い対抗策のために、優しい少女を死の危険へと連れ込もうとしている。


 胸が痛んだ。ククルに礼を言われて、マルカの胸はきりきりと痛んだ。

 礼なんて言われることじゃない。当然の義務なのだ。

 最良はククルを置いて来ること。危険の無いところに置いて来ることだった。

 しかしそれをしなかったのだ。だから、せめて少しでも危険から遠ざけようとするのは当たり前のこと。

 ククルは何としてでも守らなければいけない。何があっても。


 だから、ありがとうなんて言わないで――――。


 ククルの手から伝わる体温、手汗、指の動き。

 ククルの動きの一つ一つ、生きていることの証明その全てが、マルカの良心を苛んだ。


 だから――だから。

 油断をしていた訳ではないが、余裕が無くなっていた。

 だから、マルカは反応が遅れた。


「マルカ、危ない――――」


 視界が影で曇ったな、と思った時にはもう遅い。

 時間がゆっくりになる。マルカの動きがゆっくりになる。

 首を、持ち上げる。上を見る。


 樹。うろのある、大きな、樹。表皮の苔むした木。

 それが、宙に浮いている。横向きで、飛んでくる。


 どうして?

 飛んで来た?

 樹は勝手には動かない。

 トレントは樹の精霊だけれど、この森にはいないはず。


 段々と思考から靄が取れて。胸の痛みを感じなくなって。意識が現実に戻って。


 トレントは動くことができるけれど、大地から離れることはない。だから宙を飛んでいるこれはトレントじゃない。っていうかトレントはこの森にはいないってさっき考えた。

 どうしてこれは飛んでる? もしかして、ただの、普通の樹?

 じゃあ尚更どうして飛んでるんだ? どうしてこっちに飛んでくるんだ?

 どうして、どうして、どうして――――。


 攻撃か。奇襲か。誰かが――多分サイクロプスが、わたしたちに向かって気を投げたんだ。


 マルカは気付いたが、それはあまりにも遅かった。

 心に余裕が無かったこと。そして、現実離れした現象を人ならざるものだと考えてしまう調査人の性。普段のマルカなら思考よりも真っ先に回避行動をとることくらいは出来た。しかし今のマルカには、当たり前の考え、ただ『危ないから避けなければ』という思考が出来なかった。


 そしてマルカは、加速し始める時間の中で、視線を自分の手の先へと移した。

 つまり、呆然と落ちてくる巨木を見ているククルに。


 守らなければいけない、何としてでも。

 その思考のせいで、マルカはククルを守れなかった。

 その責任感と罪悪感で、ククルには死が迫っていた。


*


 キュッ、ギュッ、ググクッ、シュクッ。

 無理矢理文字に表せば、そんな声だっただろうか。


「キュルッ、グッ、グウッ、キュッ!」


 突然奇妙な音を発し始めたモーランに、他の皆は驚いて――はいなかった。そんな余裕は到底なかった。ムスティフはモーランの腕を引いて巨木の範囲から逃れたが、当然避けれるだろうと思っていたマルカがぼおっと突っ立っているのを見て目を見開いた。


「ククルーッ!」


 ジダが絶叫に似た声を上げるが、マルカもククルも動かなかった。

 だから、モーランのその声には誰も何も思わなかっただろう――もしかしたら気でも狂ったと思われていたかもしれないが、少なくとも、彼女が『植物語』を口にしていただなんて誰も気づいてはいなかった。

 ましてや、それが『二人を守って』という意味であることも――知る由ではない。


 モーランのベルトの両端に装着されたポーチ、そのボタンを弾き飛ばしながら内側から現れたのは植物のツルだった。髪の毛よりも少しだけ太い程度の、楕円の葉が特徴的なツル。それがそれぞれのポーチから数十本飛び出して、ぐんぐんと長さを増していく。


「ギュ、ギュルルッ、ギュクッ!」


 モーランが手を振りかざす。それを合図に、ツルやっと驚いた表情を見せたマルカに向かって伸びていった。そしてツルはカーテンのように横に広がりマルカとククルを覆った。ドォンと、樹とツルがぶつかったとは思えない衝撃。果たしてマルカとククルは――無事だった。


 ツルはびくりともしなかった。まるで鋼で作られていたように、樹なんて弾き返すのが当たり前のように、マルカとククルの身をを当然のように守った。


 その音がマルカを正気に戻した。マルカはククルを抱き上げると、身体をねじって走り出した。ムスティフも「急げ!」と怒鳴りながら駆け出す。ジダがムスティフの腰に飛びついた。


「……ウッ、ググッ、チチギッ、ギュ」


 モーランがゆっくりとその音を発し、腰から伸びるツタを撫でた。やや間があって、ツタは時間が巻き戻ったかのようにポーチに戻って行った。

 ――ありがとう、本当に助かった。

 そのモーランの姿は誰も見ていなかったけれど、もしその姿を見た者がいたとすれば、彼女の言葉のその意味は明白だっただろう。


*


「はあ――はあ――はあ――」


 マルカは息を切らして、森の入り口に作られたキャンプ用の広場に倒れ込んだ。旅慣れている彼女は歩くのは得意だったが、走り慣れてはいないのだった。


「…………お前、どうしたんだ?」


 ムスティフは息一つ切らしてはいなかった。ククルからマルカの水筒を受け取ってそれを彼女に渡しつつ、努めて優しい声色で尋ねた。


「らしくもない……というか、明らかに様子がおかしかったぞ」

「ちょっと…………考え事を、していました」

「…………ッ!」


 ムスティフの瞳が、一瞬で険しいものへと変化する。それは竜のような――食物連鎖の上位に君臨する捕食者のような、思わずすくみ上ってしまうような険しいものだった。

 しかしムスティフは自分の胸に手を当て、はあと溜め息と一緒に怒りを吐き出す。顔を上げると、いつも通りの、ただの鋭い表情に戻っていた。


「何を考えてた?」

「自分がやらなければいけないこと、です」

「やらなきゃいけないことを考えて、やらなきゃいけないことを怠ったのか?」

「…………返す言葉も、ありません」


 ムスティフはやはり優しい声色だったが、しかし言葉の端々から怒りが漏れてしまっていた。こればっかりは意識的に抑えられるものではないのだ。

 ムスティフが怒っていたのは、マルカが危ない目に会ったことではなく、ククルの命を危険にさらしたことだった。当たり前だった。それで怒られるのも、それで彼が怒るのも。


「まあ間一髪だったわ。ね、言ったでしょ? あたしを連れてて悪いことは無いって」

「はい、ありがとうございました……」

「ん。まあ気にしないで。ククルも怪我は無い?」

「うん。本当にありがとう、モーランさん

「いいってことよ。まあいつか何らかの形で返してもらおうかしら」


 モーランはいつもと変わらない言葉遣いとは裏腹に、ずいぶんと居心地悪そうにそわそわとしていた。ボタンの壊れてしまったポーチのかぶせを指先で忙しなくいじっている。

 ぴょんとジダがククルの頭の上に飛び乗り、そしてそのままわんわんと泣き出してしまった。


「ククルぅ、ボク、本当に無事でよかった……!」

「ジダ、そんな、大げさだよ」


 ククルが頭の上のジダに手を伸ばして、顔の前に持ち上げた。ジダは顔を両腕で隠していた。泣いているのを見られるのは恥ずかしかったのかもしれない。


「大げさじゃないよ! あのまま死んじゃうかもしれなかったんだ!」

「でも、ククルは今こうして生きてるよ。それでいいじゃない」

「そうじゃねえ、ククル」


 もう本心を隠す気は無いらしかった。冷たく、ぴしゃりと、ムスティフが言葉を挟んだ。


「どんなに気を付けても危険はある。俺たちの感知しない予想外の方向から現れるから危険なんだ。だから絶対に、すべての危険は回避できねえ」

「うん、だから今のがそうじゃないの?」

「違うね。確かに、さっきのは危険ではあったが回避できたものだ。お前らはともかく、少なくとも俺とモーランは対応できてた。経験豊富なマルカもそれができねえ訳がねえんだ」


 マルカは呼吸が落ちいてゆっくりと立ち上がった。丸太で作られた簡易のベンチに座ると、静かにその場に俯いた。ムスティフの非難の視線から逃れる為だった。

 分かってる。それは全部マルカの分かっていることだ。だからムスティフは怒ってる。分かってることが、当然のことができていなかったから。それも分かってる、分かってるんだ――。


「マルカは置いていく」


 ピッと。

 マルカの後頭部から背骨を通って腰のあたりまで、冷たいものが駆け抜けた。

 言われてしまった。


「ククルと、それとジダもここに残れ。俺とモーランで調査をする」

「……ククルは平気だよ?」

「駄目だ。こう言っちゃ悪いが……足手まといだ。だがお前は悪くねえ。そもそも連れて来ちゃいけなかったんだ、こんな危険な場所に――」


 ムスティフのその言葉はマルカを非難するものではなく、自分に憤ってのものだった。マルカに流されては駄目だった、何としてでも言い聞かせなければならなかった、そういうニュアンス。


「何を考えてたかは知らねえが――まあおおよその推測は付くが――だから尚更お前はここに残るべきだ。お前はそうするべきだ。そこで頭を冷やして、帰りの馬車でもう一度全員に謝罪しろ。それでチャラだ、いいな?」


 マルカは黙って頷くしかなかった。ククルもジダも、ムスティフの言葉に異論を唱えることは出来なかった。


「……よし。じゃあ、行くぞ」


 ムスティフは槍を持ち直して、モーランに言った。「え、もう?」とうろたえているモーランを置いてさっさと歩きだしてしまう。


 ……マルカは。

 見送ることもできず、その場に俯いていた。

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