第1話(5):旅の再開と旅の始まり

「じゃあさ、魔女病って治せる? ククル、このままだと魔女になっちゃうらしいんだけど」


 昨晩――というか深夜。

 廃墟同然の小屋でククルのその言葉を聞いたマルカは、自分の表情が険しいものになるのを感じた。


「魔女病……なんですか?」

「うん。ククル、顔が死人みたいでしょ? みんなそう言うの。あ、みんなってのはククルのお世話してくれるみんなとは違う人」

「その人たちが、ククルさんは魔女になるって、そういうんですか?」

「そうなの。ねえ、魔女ってどんな? お話の中でしか聞いたことがないから、実際にどんななのか知りたい」


 魔女病とは、原因も分からずに感情が消え失せてしまう恐ろしい病だ。

 だけれどそれは――感情が消えるのは、あくまで副次的な現象で。

 魔女病とはその名の通り、魔女へと変容してしまう病気であると言われている。


 魔女病は魔女へと至る第一段階で、肉体的変質の前にまず精神を作り替える。

 そのために人が人であるための重要な器官、人の個性を形作るために必須である『感情』を抹消するのだ。


 結果として、残虐非道で倫理観も道徳観も存在しない、人の尊厳を奪うことが生きがい――魔女へと変容してしまうと、そう言い伝えられているのだ。


 魔女に見初められた者。魔女に唾を付けられた者。

 魔女病発症者をそう呼ぶ地域も存在し、また魔女病感染者は即刻処刑するという自治体も存在する。魔女病感染者を捜索して殺すという教義を掲げているカルトまであるほどだ。


 だけど。

 だけれどそれは。


「ククルさん」

「うん」

「魔女になんて、なりませんよ。魔女病で魔女になってしまうなんてのは、ただの噂、とどのつまり嘘なんです」

「……そうなの?」

「はい」


 そんなの伝承でしかなくて。

 ただのでたらめなのだ。


「じゃあ、感情が無くなっちゃうだけなの?」

「……それも違います。ククルさん、さっきコーヒーを美味しいって思いましたよね?」

「思ったよ」

「それだって立派な感情なんですよ?」

「じゃあ……感情はなくなってないってこと?」

「少しだけ、ほんの少しだけ、心の豊かさを忘れちゃうだけです」


 笑ったり、怒ったり、泣かなくなってしまうけれど、その心の中では。

 喜んだり、憤ったり、悲しんだりできるのだ。

 ただそれを表に出すことが難しくなり、心も少し、ほんの少しだけ、感情の動きに対して鈍くなってしまうけれど。

 ただ、それだけだ。


「ククルさん。魔女病を治したいですか?」

「あ、そうそう、その話だったんだ。うん、できるなら治したいよ。治し方分かるの?」

「……はい、分かりますよ」

「どうすれば治るの? お薬?」


 マルカはおもむろに毛布の上から立ち上がった。

 ククルが首を傾げながらマルカの顔を見る。マルカは自分の顔が険しいものになってしまうのを堪えて、どうにかしてにこにこ笑顔を作ろうとして――諦めた。

 そしてククルの頭に手をぽん、と優しく置いた。


「じゃあ、わたしと旅に出ましょう」

「……旅?」

「そうです。小屋に閉じこもってないで、一緒に世界を見て回るんですよ。綺麗な景気、かっこいい生き物、おいしい食べ物、辛い経験、残酷な現実……。一緒に、その全てを見て回るんです」

「……それで治るの? そんなので治るの?」

「治る、というのは少し違うかもしれませんね。……残念ですけれど、無くなった感情はもう戻りません。ですから、また新しく手に入れに行くんです。色々なものを見て、色々なことを考える。それで感情というのは増えていくんです」


 ククルは、じいっとマルカの顔を見ていた。

 ぎょろりとした目が、マルカの目を見て、胸に移動して、それからお腹、腰、足、そしてもう一度目に戻った。

 マルカはただただククルのことを見つめ返した。


「どうしますか、ククルさん。一緒に行きますか?」

「……行きたい」


 ぼそりとした、小さな声だったけれど。

 その言葉はマルカに辛うじて聞こえる程度だったけれど。

 しかし、マルカを見つめながら大きく頷いた彼女の決心に満ちた顔は、しっかりと見て取れた。


*


 村長にククルを連れて行くことを告げてから、後は早かった。

 村長を連れて小屋に向かいククル合流、二人を連れて宿へと戻った。

 宿屋のおばさんは村長と同じでククルを世話していた人間らしかった。定期的に彼女をおんぼろ小屋から連れ出して風呂に入れてあげていたらしい。

 村の若者に見つかったらひんしゅくを買ってしまうので、なかなか頻繁には叶わなかったらしいけれど。


 ククルがマルカと一緒に旅に行くことを告げるとこれまでのことを泣きながら侘び初めて、「なんで謝るの。いろいろありがとう」とククルが言ったらそこからがもう大変だった。


 とりあえずククルはおばさんにお風呂に入れたりしてもらって、マルカはしばらく睡眠を取らせてもらうことにした。もともと眠気を堪えていたというのもあるけれど、ドッペルゲンゲルと魔女病事件がひと段落したことで糸が切れてしまったのか、この宿に最初に来たのと同じようにベッドに横になるなりすぐに眠りに落ちてしまった。



 一体何時間寝たのだろうか。

 マルカが目を覚ましたのは、翌日の明け方だった。


「……寂しく無くなると言えば嘘になります。何を言っているんだ、と思うかもしれませんが」


 宿屋のエントランスで、村長がどこか遠い目をしながら言った。

 村長と宿屋のおばさん意外に、二人のおじいさんと一人のおばあさん、そして一人の若い男の人が見送りに来ていた。おじいさんの一人は、マルカがドッペルゲンゲルの話を聞いた若々しいおじいさんだった。


 この五人に村長を含めた六人が主になって、ククルの生活を支援していたらしい。他にも村長たちへの賛同者はいるけれど、その人たちへの挨拶は昨日マルカが寝ている内に済ませてきたらしかった。


「いえ、そんなこと思いませんよ。……昨日も言ったように、出来なかったことを攻めるのではなく、やってあげれたことをちゃんと見てください」

「昨日何かあったの?」

「なんでもないですよ、ククルさん」


 マルカはククルの頭を撫でた。ボサボサだった髪の毛はしっかりと整えられていた。一体何をしたのだろうか、ククルの毛の細い黒髪はさらさらと、マルカの指の間を通り抜けていった。


 撫でた拍子に、瞼の上で綺麗に切りそろえられた前髪が揺れた。毛先がククルの額を撫で、くすぐったそうに目を細めた。


 ククルの衣服は、マルカのスペアの一着を着せている。丈をピンで整え無理矢理サイズを合わせたのだけれど、それでもどこかだぼっとしている。次の村――村か町か都市かは分からないけれど、着いたら買いかえなきゃなとマルカは思った。


「ククルはここに居ちゃあぜってえ幸せにはなれねえ。旅が楽しいかどうかはわしは知らねえし、それで幸せになれる保証もねえが、それでもここにいるよりはずっとましだろうな」


 ステテコ姿のおじいさんがそう言うと、みんながうんうんとそれに同調した。

 そのあとはみんながククルに別れの言葉を言って、ククルがそれに「今までありがとう」と返した。ククルの言葉に大人たちは涙を流していた。


 さて、と村長が言うと大人たちは表情を硬くした。空気の色が変わるのをマルカも肌で感じた。

 ククルとの別れの時。それはもう目前なのだ。


「ククル。……もう、申し訳ないとかは言わないよ。だから、どうか元気でやってくれ。楽しい思いも辛い思いもして、そして生きてくれよ。……調査人さんも、本当にありがとうございました。どうかククルに、表情を取り戻してやってください」

「勿論です」


 マルカは即答した。大きく頷いて見せると、大人たちは潤んだ瞳でマルカのことをじっと見つめた。


 この少女は非常に幸運だった。

 マルカはそう思わざるを得ない。


 発覚したら即処刑、でもおかしくないこの時代の潮流。

 魔女病患者を殺すことが正義だと信じる人が少なくないこの世の中で。

 これだけの人間に生活を支えられ、そして自分のことで涙を流しているなんて。

 あり得ないというのは言い過ぎかもしれないけれど、幸運だったと言わざるを得ない。


 だけれど。

 もうすでに終わった出来事に「もしも」を持ち出すのはナンセンスだけれど。

 もしもマルカがこの村にやってくるのが一年遅かったら、ククルはもうこの世に存在していなかったかもしれない。


 若者たちはククルに嫌がらせ程度のことしかしていなかったけれど、いじめというのはエスカレートする。だんだんと感覚が狂い、神経がマヒし、エスカレートする。

 ククルは暴力はほとんど受けていなかったようだけれど、それもいつまで続いていたかは分からない。


 ……こういう考えは良くないけれど、この大人たちだってそうだ。

 この幼い少女を生かそうと生活を援助していた訳だけれども、それもいつまで続いていたかは分からない。彼女の境遇に同情し、または一般的な道徳観から彼女のことを助けていたけれど、しかしそれは確実な負担である。見返りもない、発生する余地もなく、むしろこれからこの村を担う若者連中から睨まれるという不利益を被る。


 負担はいずれか不満えと変わり、むしろ純粋な敵意を抱いていた若者連中よりもその反動で過激な行動に走ってしまうこともあり得る。


 ……これは決して、ククルの為に涙を流した彼らを悪く言っているのではない。マルカがこれまでに見てきた人間に対する評価に基づく、客観的な可能性の話だ。


 だから、だ。

 だからこそ、マルカはこうしてククルとの別れを惜しんでいる彼らに対して言葉にできない感謝を感じているし、ククルとの旅に対する責任感も感じる。


ククルが今こうして生きていることは非常に幸運、細い綱渡りを繰り返して繋ぎとめられたものである。


――その命のか細い線をわたしが断ち切らないようにしなければいけない。


「ククルさんは、わたしに任せてください。この子が笑顔を取り戻して、怒って、泣けるようになったら、きっとここに戻ってきます」


その言葉は、宣言することで自分に言い聞かせる意味合いもあって。

マルカはぎゅっと手を握ると、決意を新たにした。

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