第1話(4):ことの顛末とその正体について
翌朝、マルカは村長宅に報告に訪れていた。
夜中までドッペルゲンゲルとククルという少女の調査をしていたので、マルカの目元にはくまが浮かんでいた。
体の疲労は、そんなにない。旅をしていればこの程度は疲れの内に入らない。
だけれど、睡眠不足による眠気だけはどうにも慣れるものではない。『眠い』という感覚に伴うこの倦怠感と睡眠以外すべてがどうでも良くなってしまうような無気力感は、何度経験しても嫌なものだった。
村長と昨日と交わした約束では『明日報告に行きます』としか言っていなかったので、昼に村長宅に赴いても何も問題なかっただろう。
にもかからず、どうにか毛布を剥ぎ取ってコーヒーで眠気を押さえてまでマルカがここにやって来たのは事情が――ない。
身体は睡眠を欲しがっていたけれどマルカの心はそうではなかった、というだけ。数時間の睡眠よりも、確証――このドッペルゲンゲルに纏わる一連の事件に対してマルカが立てた仮説の確証を得ることを優先したのだ。
「いやあ、お疲れのところありがとうございます」
「いえ。これがわたしの仕事なので……」
そんな社交辞令的なやり取りを終えてから、マルカは今日も出してくれたハーブティーを啜った。あったかい、優しい味が染み入った。
「……それでなんですが」
村長は椅子に座ると早々に切り出した。
「はい、ドッペルゲンゲルについての報告ですね」マルカは椅子に座り直すと、少し考えてから口を動かした。「まず。あれは確実にドッペルゲンゲルです。公認調査人として保証します」
「! そうですか、やはりあれが…………」
マルカはドッペルゲンゲルのことは詳しくないけれど、他の似た特徴を持つ隣人たち――人間の姿を模倣して実態を持たない者達――を調べ、それらのどれでもないことを確認してあれがドッペルゲンゲルだと確信した。
眠い目を擦って、少ない灯りで隣人図鑑とにらめっこする作業は辛かった。マルカのくまの理由はほとんどそれによるものだった。
「はい。目撃例も少なく情報も限られていますが……断言します」
「なるほど……。それで、ではどうやったらあれを追い払えるのですか?」
それは当然の疑問だろう。というか、あれがドッペルゲンゲルか否かというのは過程であって、この村の住民からすればそれが本題だ。
「……それを説明するには、ドッペルゲンゲルの生態を説明しなければなりません」
「生態……ですか?」
「いや、実態と言った方が正しいかもしれませんね」
「はあ……」
回りくどいマルカの語り口に村長は眉を歪めるものの、素直に話は聞いてくれるようだった。マルカは続ける。
「ドッペルゲンゲルに対して、調査人とそれ以外の人たちでは決定的な認識違いがあるんです。そもそもの、根本的な違いが」
「それは……何ですか?」
マルカはやや溜めて――意図的にそうした訳ではないが、無意識的にそうなってしまった。すうっと息を吸ってから、村長の目を見た。
「ドッペルゲンゲルという生き物はいないんですよ」
「……えっ? いや、でもさっきあなたが、あれはドッペルゲンゲルだって……」
「はい、ドッペルゲンゲルは存在します」
「つまり、ドッペルゲンゲルは生き物ではないと?」
その言葉にマルカは頷いた。その拍子に、マルカの緑の髪がさっと揺れた。
「一部の妖精のように肉体を持たない生物もいますし、視覚化できる霊であるレイスという存在もいます。けれどドッペルゲンゲルはそれとも違うんです。回りくどいと思ったのなら申し訳ございません、ですけれどドッペルゲンゲルとはそれくらい特殊な存在でして……」
マルカは乾いた口を潤す為に、お茶を少し口に含んだ。その間も村長は、じっとマルカの言葉を待っていた。
「人ならざるものには様々な分類があるのですけれど、ドッペルゲンゲルとはその中でも特殊な分類――『現象種』と呼ばれる存在なのです」
「現象種……」
聞きなれない言葉だったのだろう、村長はその言葉を反復して口に出した。それもそのはず、現象種というのは調査人でもなかなかどうして関わることの出来ない存在だからだ。
現象種という呼び方も比較的最近定まったものだ。それほどまでに現象種は「どう呼べばいいか分からず」、その特異な生態――実態は「現象」としか形容できないのだ。
「実態を持たず、命を持たず、ただただ姿や音などの現象を引き起こす。それが現象種なのです」
春先に海で稀に観測することの出来る「ウカシガエシ」という現象種がいた。浮かし反し。遠くにある物体を浮かせたりひっくり返って見せる、という存在だ。
しかしこれは、最近では隣人ではなく科学で証明できる「蜃気楼」という気象的事象だということが判明している。
このように現象種と呼ばれている存在には、まだ証明できていない科学的事象が少なからず含まれているとされており、蜃気楼のように後の時代に証明されることもままある。
しかしそれはつまり、現象種というのは「この世界の様々な要因が合わさって引き起こされる自然現象」と区別がつかない程に人知を超えている――少なくとも現段階の人間では理解することのできないということでもある。
「初めて聞きました、その、現象種のことを……」
「わたしも久しぶりに口に出しました。……ドッペルゲンゲルの情報が少ないのもそれに起因するのです。実態の存在しない、生きていない、ただ現象を引き起こすだけの存在……対処法を研究しようにもその調べる方法が分からないという状況なのです」
「……ということは、あのドッペルゲンゲルを追い払うことは出来ない、ということですか?」
「…………申し訳ございません」
マルカは頭を下げた。こればっかりはどうしようもないのだ。
雨を止ませてほしい。気温を下げて欲しい。現象種を追い払うとはそれと同義なのだ。
「勿論言うまでもないことですけれど、報酬も頂きません。力が及ばず、本当に申し訳ございません」
しかし、じっと机を見つめているマルカに掛けられた言葉は「いえいえ、良いんですよ」という柔和な声だった。「頭を上げてください。どうしようもないものは、どうしようもありません。しょうがないですよ」
マルカは面食らった。今と同じような状況が今までになかったわけではない。しかしその際に掛けられた言葉は良くて嫌味。「しょうがない」なんて言葉、聞いたことが無い。
これが嫌味なのか、と思ってマルカは顔を上げるけれど、マルカの向かいの村長は穏やかそうに笑っていた。
「困っているとはいえ、農園を荒らされたり襲われたりじゃないですしね。時たま夜中に騒いだり、その程度です。……ただこれだけは聞いておきたいのですが、ドッペルゲンゲルはもう消えることは無いのでしょうか?」
「いえ……それは大丈夫です。最長で、一年程度だったでしょうか、それくらいで何事もなかったかのように消滅します。……人を襲ったという話も聞いたことはありません」
「それなら良かったです。危険は無いという保証を頂けただけで、十分。謝礼は払わさせていただきますよ」
マルカは慌てて首を振った。
依頼を解決できていないのにそんなの受け取るわけにはいかない。
「う、受け取れませんそればっかりはっ!」
「……ですが」
「お気持ちは嬉しいですけれど、わたしも調査人の端くれ、何もできていないのにそれは出来ません!」
それはマルカ個人の感情というより、公認調査人という肩書から来るものだ。
マルカ自身はフリーランスとはいえその肩書を表に出している以上は、その肩書に恥じない仕事をしなければいけない。依頼未達成で報酬を貰うなんて、とてもできない。
「ですけれども、ドッペルゲンゲルか否かという判定をしていただいた以上は、多少はお礼をしなければ……」
だけれど村長も食い下がり、なかなか譲ろうとしない。
こればっかりはマルカが折れる訳にもいかない。
と、そこでマルカは妙案を思いつく。
「……じゃあ村長さん。一つ、報酬代わりに教えていただきたいことがあるんですけれど」
あのことをどうやって切り出そうか、ここに来る前から今までずっと悩んでいた。
後で聞き出そうと決めていたことだけれど、それを報酬ということにしてもらおう。
「……それでいいのなら、私は構いませんが。何でしょう……?」
村長はいまいち納得した様子はなかったけれど、頷いたのを見てマルカは「ありがとうございます」とお礼を言った。
……。
マルカは、今度は意図的に溜めてから、その名前を口にした。
「ククル、という少女について教えていただきたいのです」
村長は表情を崩さず、しかしみるみると眉間のしわが深く濃くなった。
*
「……そうですか。まあ、知られてしまってもしょうがないとは思っていましたが」
今までよりも数段低い声で、村長は呻くように言った。
「できることなら秘密にしたかった……程度のことだったんですか?」
「はい。隠している訳ではないけれど言いたくはない、というところですね……」
だろうな、とマルカは心の中で頷いた。
何としてでも秘匿にしておきたかったのなら、まずマルカのような旅人を快く受け入れたりなんてしないだろうし、好き勝手に村を歩き回らせたりはしない。
「あなたはどこでその名前を?」
「本人から直接聞きました」
「……そうですか。あの家に行ったんですね。最初に『あの家には力寄らないように』なんて言っておこうかとも思いましたけれど、それだとあそこには何かがあると言っているようなものですしね」
村長はそこで言葉を切ると深く俯いた。しかしそれも数秒、顔を上げると大きく息を吸い込んだ。
「彼女の身の回りの世話をしていたのもあなた達――この村の大人たちですね。どうしてあんな軟禁のような真似を?」
「……それは」村長は少し言いよどんだものの、言葉を喉奥から捻り出す。「…………魔女病なのです、彼女は」
魔女病。
それはククル自身からも聞いた言葉だった。
「もともとあの子はこの村の人間ではないのです。彼女がこの村にやってきて、まだ一年もたっていないのです」
「そんなに最近なんですか」
それは初めて知ったことだ。
「はい。父親と一緒にこの村に移住してきて、しかしその父親はすぐに病で亡くなってしまい……あの子が魔女病を発症したのは、そのすぐ後でした」
魔女病と呼ばれる謎の病の歴史は長い。
歴史は長くとも、何故、どうやって発症するのか、全く分かっていない。
「医者には見せました。この近くに住んでいる医者すべてに見せました。しかし対象法は分からず……。先程のドッペルゲンゲルではないですけれど、魔女病はその目に見える症状以外は全く分かっていないそうなのです」
魔女病というのは正式名称ではないけれど、では正しく何というかはマルカは知らない。そんな言葉を使うのは宮廷の学者だけだ。それくらいに魔女病という俗称は定着している。
「伝染病ではないということは知っていますけれど、しかしそれでも、それが分かっていても、……あの子と一緒に営みを送るということは出来ませんでした」
魔女病は命に係わる病気ではない。
発熱したり、嘔吐や吐血をしたり、発疹が出たりといった症状は一切ない。
じゃあどうなるのか。
何故ここまで恐れるのか。
――感情が無くなるのだ。
笑わなくなり、怒らなくなり、泣かなくなる。
常に無表情で、良くできた精巧な人形の様な顔立ちになってしまうのだ。
それはまるで、動く死人のよう。
生物としては生きていても。
人間としては死んでいる。
それが魔女病だった。
「……我々もどうすればいいか分からなかったのです」
マルカが何も言わずにいると村長は、許しを請うように額がテーブルに付くスレスレまで頭を下げた。
「若い者はほとんど、ククルを殺すべきだと言いました。この村に危険が及ぶ前に久繰を殺せと言うのです。そこまで過激ではない者もいましたが、それでも村から追い出すべきだと。……しかし魔女病の人間を引き取ってくれる物好きなどいません。追い出すのも、結局殺すことと同義です。そして私には……どうしてもそれができませんでした」
話しながら、次第に村長はぽろぽろと涙をこぼし始めた。
下唇を噛みしめ、机の上に乗せられた手は固く握られる。
「ですから私は、理解を持ってくれた者たちとどうにか彼らを宥め、ククルを世話することにしました。そのためにまず村の外れに小屋を建て、そこにククルを住まわせました。しかし……」
「ククルちゃんに反対していた若者たちはそれを快く思わなかった……ですね?」
「……そうです。でもその反発も、道義的にどうであれ、仕方がなかったものだと思います」
自分たちはククルが住むことに反対しているのに、どうして村が彼女の生活の世話をしなければいけないのか――ということだろう。
「……ドッペルゲンゲルの実態について、一つお話していなかったことがあります」
「えっ?」
突然もう終わった話だと思っていたドッペルゲンゲルの話をぶり返され、村長は目を丸くする。マルカはそれをお構いなしで言葉を続けた。
「ドッペルゲンゲルは、誰かその近くに住んでいる人の姿を真似て現れます。これは間違っていないのですが、正しくもありません。……ドッペルゲンゲルはさっきも言ったようにただの『現象』、生命も魂も持ちませんので、もちろん自我も持ちません」
「……なにが言いたいのですか?」
「自分から行動を選択するということはない、ということです。ドッペルゲンゲルとは、過去にその場所で行われた人間の行動を模倣するというだけの現象です」
「行動を……模倣する…………?」
村長はいまいちピンと来ていない様子だった。
マルカは砕いて説明をする。
「ドッペルゲンゲルは姿を真似るのではありません。誰かの行動を繰り返すのです。誰かの行動を人の形の靄で再現する、それがドッペルゲンゲル」
「……ということは、私たちが見たドッペルゲンゲルは」
「はい。実際に起こったことということです」
物事を記憶するのは人間だけではない。
事象を記憶できるのは生物だけではない。
ドッペルゲンゲル――すなわち。
世界の記憶だ。
「わたしがククルちゃんを見つけたのは、ドッペルゲンゲルの後を追っていた時のことでした。何かをぶつぶつ呟きながらドッペルゲンゲル――若い男性の姿は歩いて、足を止めたのがあの小屋でした」
「……はい」
村長は俯いて、掠れた返事を返した。
分かっているのだ、彼は。マルカが何を言おうとしているのかを。
「男性の姿はそこで……暴言を吐きました。すごい暴言を。そして、その時は分かりませんでしたが、彼は石を投げ始めました。何回も何回も」
ドッペルゲンゲルが小屋の前で行っていた不思議な動き。しゃがんで、手を付いて、立ち上がって、振りかぶって、腕を付きだす。あの動きは石を拾って投てきしていたのだ。
「わたしがたまたまあの光景を見てしまったのではないでしょう。宿屋のおばさんは、たまに聞こえるドッペルゲンゲルの暴言にみんな迷惑をしていたと言っていました」
「…………全て、あなたの考えている通りだと思います。私たちには――私には、彼らを止めることが出来なかったのです。ククルを助けたことは事実ですが、ククルへの仕打ちを黙って見過ごしていたのもまた事実です。私は――」
村長の言葉の続きは、彼の流れ続ける涙による喘ぎによって遮られた。それがあまりにも激しくて苦しそうにしているものだから、マルカは彼の傍へと立ち上がって寄って行って背中を撫でた。
マルカの飲みかけのお茶を手渡すと、村長はすっかり温くなったそれを一気に飲み干した。
しばらく背中をさすっていると、段々と村長の様子は落ち着いてきて、「……あ、りがとうございます」と涙をぬぐいながらマルカの顔を見た。
「大丈夫ですか……?」
「はい、もう……落ち着きました。申し訳ございません」
村長はおほんと大きく咳き込んでから大きく深呼吸。「話に戻りましょう」と閑話休題を切りだしたので、マルカはまだ少し心配だったけれどそれに合わせることにする。
「村の若い者たちは、ククルに直接暴力を振るうことは少なかった、と思います……。魔女病のことを恐れていましたから、中に入ることはめったになかったはずです」
マルカはあの小屋の中の家具たちの状態は良かったことを思い出す。毛布だけは使い古されていたけれど、それでもずたずたに引き裂かれたりはしていなかった。
「……なので、ククルが直接被害にあっていないのならと、私たちはそれを見過ごしました。見て見ぬ振りをしました。…………それが彼らの発散になっているということも知っていました。もはやククルに対する疎外意識ではなく、ただの発散でしかない、と」
村長はもう涙を流していはいなかった。
代わりにしたたらせていたのは――血だった。
「だけれどこんな娯楽の無い村でそれを取りあげたら、今までククルに向いていたものがこちらに来るのではないかと…………怖かったのです。結局は保身でした。怖かったんです、私は」
強く握られた彼の乾いた拳。それは、手の平に爪が付き刺さるほどに強く握られていた。
それは怒りか、悔しさか、はたまた後悔か。
後悔であってほしいと、マルカは思う。
「……分かりました」マルカは頷いた。「全て、分かりました」
「…………」
村長は、その言葉に対して何も言わなかった。
テーブルの木目を見つめて、そこに染みこんだ血を睨みつけて。
険しい表情だった。激しい感情が感じられる表情だった。
だけれど、それがどういう類の感情なのかは、やはりマルカには分からない。
「まず、言いたいことがあります」
「……はい」
村長は、沈痛な面持ちで頷いた。
まるで刑を宣告される囚人の様だと思った。
マルカは裁判を見たことがなかったけれど。
「ククルちゃんをお世話して下さって、ありがとうございます」
「…………はっ?」
「魔女病の少女を殺さずに、家まで与えてあげるだなんて、なかなかできることじゃないですよ」
いやいやいやと、村長は慌てたように血まみれの手を振った。
彼の表情にはまた感情が色濃く浮かんでいたけれど、さっきまでものとは真逆であることは明白だった。
「確かに若い人たちの行動を見過ごしていたのは褒められるべきことではないかもしれませんけれど、でも攻めることでもありません。そもそも悪いのはその人たちですし、それが怖いと感じてしまうのも人間としては当たり前です。どうか悪い部分だけを攻めずに、ちゃんと自分たちがククルちゃんにしてあげたことを見てください」
ぽかんと。
今度は口を開いて、無感情だった。
いや、表情が感情に追い付いていないのだろう。
自責、驚愕、困惑。それらが混ざりすぎていて、自分の表情へと出力ができていないのだ。
「それに、わたしは結果的にこの村のククルちゃんのことを知ってしまった訳ですけれど、ただの一調査人ですからね。個人的にあーだこーだ文句は言うことはできますけれど、それまでです。何の権力もありませんし」
「それは……そうかもしれませんが…………」
「それとですね、村長さん。この話はドッペルゲンゲル調査の報酬として聞かせてもらった訳ですけれども、もう一つだけお願いがあるんですけれども」
「なんでしょうか……?」
そして、マルカは言った。
「ククルちゃんを引き取らせていただいてもいいですか?」
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