第1話(3):魔女病の少女
ドッペルゲンゲルが明瞭な言葉を発したのは、それが最初で最後だった。あとはまた、さっきと同じ細切れの雑音のようなもの。だけれどその中に、「出て行け」「死ね」「害悪」といったネガティブなワードが含まれていることを、マルカは聞き逃さなかった。
時間にして十五分ほどだろうか。マルカが灯籠虫のネックレスを五回目、ぴんと指ではじいたところでドッペルゲンゲルは消えた。その場で、靄や霧のように霧散して闇に溶けて行った。
「……ドッペルゲンゲル。初めて見ましたが」
マルカはふうっと息を吐いて、その場に座り込んだ。
ドッペルゲンゲルをまじかで見てずっと観察していたけれど、得られる情報は非常に少なかった。その上に滅多に出くわすことができないのだから、そりゃあ調査がはかどらない訳だよねと納得する。
触れればすり抜けてしまう靄のような体は、彼から何かを得ることは不可能だし、コミュニケーションだってとることは出来ない。むしろ、彼から一体何の情報を得ればいいのだろう、というくらいだ。
しかし、得られたことは皆無ではない。わずかではあるけれど、それでも確実に知ることの出来たことはある。マルカは腰の雑嚢から手帳とペンを取り出すと、灯籠虫の明かりを頼りに、忘れないうちにドッペルゲンゲルの情報を記すことにした。
いや、忘れるはずはない。マルカの記憶力は良い方だし――調査人を志すにあたってその能力は鍛えてあるし、ドッペルゲンゲルの情報という重要なものを意識の外にほったらかす訳がなかった。
しかしそれでも、マルカはペンを走らせる。見聞きしたものはすぐに、その時の驚きや関心は薄れてしまわない内に記述する。これはマルカのこだわりというか、モットーのようなものだった。
「……ふう」
一気にかき終えると、マルカは手帳とペンを仕舞って、代わりに水筒を取り出した。金属製の容器に皮が貼ってある、熱の逃げない水筒だ。これに宿屋のおばさんに作ってもらったコーヒーをなみなみと入れてある。勿論、温度はやけどのしない程度に。
とりあえず仕事がひと段落したことに対して、一服。、もう春先とはいえ、夜間はいいかげん冷える。コーヒーで暖を取って、糖分も補給して。
ぐっと瞼に押し寄せる眠気を堪えて、マルカは片手に水筒を携えたまま立ち上がった。
仕事は終わった。だからここからは……趣味?
仕事でないのは確実だったけれど、これからすることは何と表現していいのか分からない。だけれど、趣味ではないことは確実だった。おせっかい、辺りがしっくりくるだろうか。
マルカは、さっきのドッペルゲンゲルのようにして廃墟同然の小屋を見つめた。わたしならここに住めるけれど、住みたいとは思わない。
緊張はするけれど、ドッペルゲンゲルに近づくときよりは大分マシだった。マルカは廃墟の玄関に立って、そのドアをゆっくりとノックした。
*
「……誰?」
塗装の剥げて所々穴のあきそうになっているドアの向こうから聞こえたのは、女の子の声だった。幼い、舌ったらずの声。だけれどそれは、無機質で無感情だった。
「わたしは調査人です。さっきまでここにいたドッペルゲンゲルを調査してました」
「そう、なんだ……」
興味なさそうに、声は言った。
「あの声は、どうなったの? もう出てこないの?」
「いえ、ドッペルゲンゲルを追い払う方法はまだ判明していません……」
「そうなんだ。別に、気にしてないよ」
「……中に入ってもいいですか?」
「いいよ」
即答だった。
鍵はかかっていなかったようで――壊れて機能していないのかもしれない、そのまま内側から扉が開かれた。
そこに立っていたのは、汚れたワンピースを纏った女の子だった。声から受けた印象通りの十歳になるかならないかくらいの年齢で、印象通りの無表情だった。ぎょろっと大きな二つの瞳が、無感情にぼんやりと、マルカの姿を映していた。
亡霊の様だった。清潔とは言え無い格好も、無造作に伸びた黒髪も、死んでいるような表情も、そのどれもが生者のものとは思えなかった。
「…………おじゃまします」
マルカはつばを飲み込むと、その廃墟に足を踏み入れた。後ろ手で扉を閉める。
ぼおっと部屋が灯籠虫によって照らされる。そこはマルカの宿とほとんど変わらなかった。テーブルとイス、それに使い古した毛布。
女の子は椅子を開けてくれたけれど、マルカは遠慮をした。代わりに女の子に座るように促すと、「そう」とだけ言って、素直に腰を下ろした。
灯籠虫を何度も弾いて、光量を最大にするとテーブルの上に置いた。一部屋ならこれで十分、昼間と同じ明るさだ。
女の子は、蝋燭程度から突然部屋全体を照らすようになったネックレスを見て、目を少し見開いた。それは眩しいのか、はたまた驚いたのか、マルカには判らなかった。
マルカがこの部屋を見渡して最初に思ったのは、「思ったよりきれいだな」ということ。廃墟のように見えた外観だったけれど、机も椅子も毛布も、かなり使用感はあるが悪いものではなかった。
「あの、お姉さん……」
「あ。はい、なんでしょう?」
きょろきょろと部屋を見渡していたマルカは、椅子に座った女の子を見下ろした。
「なんでしょう、はこっちの台詞なんだけど……。ククルに何か用なの?」
それもそうだ。この幼い少女に一本とられて、マルカは苦笑した。
「ククル、というのはあなたの名前ですか?」
「うん、そう。ククルの名前はククルっていうの。じゃあ、お姉さんの名前は?」
「わたしはマルカです。調査人をしています」
「……さっきも言っていたけど、その調査人ってのはなんなの? あと、その毛布敷いていいから、座りなよ」
「あ、これはお気遣いどうも……」
マルカは素直に彼女の毛布を引っ張ってきて、四角に畳んでからその上に座った。座り心地は良い。うん、やっぱりものは悪くないんだな。
「調査人というのは、人ならざるものを調査を仕事にしている人のことですね。人ならざるもの――隣人、とかって言ったりもします」
「ふう、ん。……隣人は知ってるけど、初めて聞いた」
「そうですか…………」
調査人のことを知らないという人間は、この国ではまずまず居ないと断言してもいいだろう。それくらい調査人とは憧れを持たれる肩書で、また栄誉のある仕事とされている。
人間が営みの領域を拡大するにつれて人間と人ならざるものの衝突は増えていき、昔はただの位置研究職でしかなかった調査人は今では時代の担い手と呼ばれているのだ。
曰く、調停士という名称も使われ始めているらしい。
その呼び方は、間違っていないとマルカは思う。少なくともマルカの志はそうだった。人ならざるものを、人類と共存する『隣人』として留めておく。それが調査人の――自分の存在意義だと、マルカはそう捉えていた。
「それって、すごいの? えっと、調査人?」
「えーと……。それは自分では言い辛いんですけど……はい、結構重要な仕事ですね。次代の担い手、なんで呼ばれたりして…………」
「それ、結構すごいんじゃないの?」
「はい、……そうですね」
その二つ名は、マルカにはどうにもくすぐったいだけのものだったけれど。
次代の担い手とまで呼ばれる調査人の存在を知らないなんてことは、この国の人間ではまずありえない。幼いから知らないということもなきにしも非ずだが――しかし、この年齢でそれは無いだろう。
その容貌から誰が見ても明らかだけれど、ククルが何か訳ありであることは確実だった。
「ククルさんは、一人でここに住んでるんですか?」
「うん、そうだよ」
彼女の家族らしい人はいないし、その痕跡もなかったから、それはこの家に入った時に分かっていたことだ。だから、今の質問はただの確認。
だけれどククルその肯定は、一つ、大きな疑問を一つ生み出す。
それは――マルカの健康状態についてだった。マルカは痩せぎすではあるけれど、しかし栄養失調の気は見えない。顔の白いのも、もともとの色素が薄いからであって青白い訳ではない。
テーブルに椅子に、それから毛布。この家にはそれにかない。本当に、ただそれしかないのだ。つまり、食べ物も金子も、それを収納する類のものも一切が見当たらなかった。
お金が無ければ食べ物を得られない。食べ物が無ければ生きられない。調査人でなくても分かる、生物としての前提の法則。
痩せぎすの彼女の四肢には筋肉というものが殆どみられなくて――農園としての仕事を手伝って金子を得ている、という訳でもないようだった。もしそうなら、もう少しまともな格好をさせるだろう。
つまり、以上のことから導き出される結論は。
誰かがこの感情の希薄な少女のことを世話していて。
しかし扶養ではなく、ククルの様子を見ると、その状態は軟禁と形容するべきだろう。
「ククルさん、ご飯はどうしてるの?」
疑念を確信に変えるために質問する。
ククルはその質問に対し、少し考えた素振りを見せる。数秒の間があって、彼女の薄い唇から出てきた答えは「みんなが持ってきてくれる」という、マルカの仮説を証明するものだったけれど明瞭ではない答えだった。
「みんなっていうのは?
「……名前は分かんないけど、みんな」
……混乱してきた。マルカは嗜好をまとめるために背嚢から水筒を取り出し、まだたっぷり残っているコーヒーに口を付けた。考える時は、甘いものが必須なのだ。その、気持ち的に、モチベーション的に。
「それはハーブティ?」
ククルが首を傾げて尋ねてきた。
首を傾げてはいるのだけれど、表情はぎょろっとした目の無感情なので、ちょっと怖い。
「これはコーヒーですよ」
「コーヒーって、あのハーブとは違うくぐもった匂いのするやつ?」
「くぐもった匂い……かどうかは分かりませんが、そうだと思います。匂い嗅いでみてください」
マルカが水筒を差し出すと、ククルはそれに顔を近づけて鼻を動かした。
「あ、そう。これだ」
「飲みますか?」
「……いいの?」
「勿論です。結構甘いですけれど」
ククルは両手で水筒を押さえて縁に唇を当てると、恐る恐る、そおっと、といった様子でゆっりと傾けた。
コーヒーが唇に触れたのだろう、びくっと彼女は肩を動かして、それからちょっとずつ顎を下げる。そして口を離したククルは、味わうようにして口をもごもごと動かして、それからやっと飲み下した。
「どうですか? ……苦かったですかね」
「……ううん、おいしい。すっごくおいしい」
ククルはマルカの顔を見て、変な表情を作った。右目の目じりを下げて、反対側の口の端を横に引きつらせる、そんな表情。まるで笑顔に失敗した顔だな、とマルカは思った。
「良ければどうぞ、好きなだけ飲んで」
「いいのっ?」
少し上ずった声で、ククルが聞き返した。勿論とマルカが頷くと、今度は勢いよく水筒を傾けてごくごくと喉を鳴らしてコーヒーを飲み始めた。
コーヒーはそんなの味方をするものじゃないだろう、と思うけれど、マルカも人のことは笑えなかった・
……さて。ククルがコーヒーに集中している内に考えを整理しよう。灯籠虫を弾いてから、マルカは姿勢を崩して顎に手を当てた。
自分はドッペルゲンゲルの調査をしていたはずだ。ドッペルゲンゲルについては、そのおおよそが隣人図鑑に書いてあったものと一緒だった。
新しく知ることの出来たことといえば、固形ではないけれど全く実態を持っていないという訳ではないことくらいか。だけれどこれも、隣人図鑑に記されていないだけで既に発見されていることなのだろう。
そのドッペルゲンゲルは村人に姿を変え、なにやらぶつぶつと不明瞭な言葉を吐きながら向かったのがこの準廃墟。ここの前でなにやら不思議なダンスを踊ったと思いきや、罵声と暴言をはっきりと言って、そして姿が消えていった。
この廃墟はマルカも前から気になっていたものだった。こんなボロ屋なのに、中から人の気配がするのだ。そして立地も、他の建築物から離れたところにある。まるで隔離するようにして……。
その廃墟にはククルという無表情の女の子が住んでいた。貧相な服だし家財も全くないけれど、その生活には困窮した様子はなかった。曰く、『みんな』に生活を支えてもらっているという。
もう少し、もう少しで分かりそうな気がする。だけれど何か、まだ決定的なものが欠けている。あと一つ必要な情報が……。
「ごちそうさまでした」
ククルが水筒を差し出してきた。「お粗末さまでした」とそれを受け取ると、軽くて驚いた。揺らしてみると何も手ごたえが無い。すっかり飲み干してしまったらしかった。
「そう、そうだ。マルカさん、聞きたいことがあるんだけど」
「うん? なんですか?」
「隣人を調査してるんだよね。調査人って」
「はいそうです」
「それってつまり、人間じゃない生き物を調べてるってだよね」
「そうです、けど……」
マルカにはククルが何を言おうとしているのかは分からなかった。
ククルは迷ったように視線を泳がせる。マルカがそれをじっと見つめていると、彼女は意を決したように――表情は無いので本当にそうかは分からないけど、切りだした。
「じゃあさ、魔女病って治せる? ククル、このままだと魔女になっちゃうらしいんだけど」
そして、マルカの中で全てが繋がった。
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