私と彼の境界線
水嶋陸
私と彼の境界線
「うわ、
高一の夏、席替えで発せられた親友の辛辣な一言に苦笑した。偶然、クジ引きで隣になった
校則が緩く、派手な生徒が集まる高校で、黒髪に額縁眼鏡の佐倉は地味でかえって目立つ。これまで特に話す機会がなかったが、噂どおり根暗だろうか。
「やぁ佐倉くん、
明るい笑顔で声をかけると、佐倉は面食らった。好意的な態度に慣れていないのか、明らかに戸惑っている。うっとうしい前髪のせいで顔はよく分からないが、彼の纏う空気がみるみる険しくなった。
「……罰ゲームですか?」
「へ?」
「とぼけても無駄ですよ。わざわざ僕に声を掛ける理由なんてそれしかないでしょう。笑い話のネタですか。いい迷惑です」
「ええええ!? ち、違うよ! 何も企んでなんて」
「言い訳は不要です。僕に関わらないで下さい」
被せ気味に言い放った佐倉に鋭く睨まれ、閉口した。まるで手負いの獣だ。『スクールカースト底辺に属する嫌われ者とお近づきになる理由はない』と言わんばかりの激しい拒絶。
「みんな席に着いたかー? んじゃ授業始めるぞー」
呆気に取られ数秒、担任の声で我に返った。佐倉は教壇に向き直ると、何事もなかったように教科書を開く。堅牢な砦に近付き、警告の矢を射られたみたいだった。
「取り付く島がないっ!」
昼休み、陽菜は悲痛な面持ちで学食のテーブルに突っ伏した。人魂をしょい込みそうな落胆っぷりに、パスタをフォークに巻き付けていた親友が肩をすくめる。釈明を試みた陽菜が、佐倉に無言でシャットアウトされる場面を目撃していのだ。
「あのさぁ、陽菜は誰とでも友達になれるタイプだけどあいつは無理だって。諦めなよ」
「やだ! 誤解されたままは後味悪いもん」
「誤解? あいつに何か気になることでも言われた?」
陽菜はむくりと起き上がった。エア眼鏡をクイッと親指で押し上げ、険しい表情を作る。
「罰ゲームですか?」
佐倉の声真似をした途端、盛大に吹き出す親友。こら、笑うな。笑いごとじゃない。
「期待を裏切らない反応、超ウケる! 佐倉のやつ卑屈過ぎ」
「いやー驚いたよ。普通に声かけただけであんな警戒するなんて。隣の席なのに、これからずっと無視するつもりなのかな。ひとりで寂しくないのかなぁ」
「世話焼きだねーあんたは。根暗眼鏡なんかスルーしてイケメン攻略しなよ。こないだ別クラの男子から陽菜に彼氏いるか聞かれたよ。優良物件っぽかったし紹介しよっか?」
「いーや、パス! こうなったら意地でもぜぇーったい佐倉と友達になる。よぉぉぉし、そうと決めたら気合いだー! おーっ!」
がばっと椅子から立ち上がり、人目を憚らずメラメラ闘志を燃やす。お人好し病を患う陽菜に、親友はやれやれとため息を漏らした。
佐倉と友達になろう大作戦をスタートし、一週間が過ぎた。結論からいうと惨敗だ。佐倉はラスボス級に手強かった。小細工はせず直球でアタックしたのだが、追い回したのが仇になり、佐倉はますます警戒を強めてしまった。もはや『佐倉』の頭文字を口にしただけで逃げられる始末。これはまずい。
一発逆転のアイデアを絞り出そうと粘るうち、妙案を閃いた。手紙だ。実に古典的だが手紙なら佐倉と意思疎通できるかもしれない。
思い立ったが吉日。
さっそくレターセットを購入した。帰宅後は自室にこもり、納得できるまで文章を練った。色々なパターンが思い浮かんだが、やはりシンプルイズベストだろう。
『佐倉くんへ
この間は驚かせてごめんね。でも、本当に罰ゲームなんかじゃありません。
私は佐倉くんと友達になりたいです。どうすれば信じてもらえますか?
無視されるのは悲しいので、話を聞いてもらえると嬉しいです。
宮田』
翌朝、欠伸をかみ殺しつつ登校した陽菜は、まだ誰もいない教室で佐倉の机の中に手紙を忍び込ませた。ミッション完了。あとは返事を待つのみだ。
しかし――待てど暮らせど返事はなかった。
ノーリアクションの佐倉に痺れを切らし、行動を起こしたのは3日後。お昼ごはんで満腹になり、睡魔と戦う生徒が現れる午後一の授業。真面目にノートを取っていた佐倉は、突然机に置かれたメモに目を瞠った。
『手紙読んでくれた?』
こちらを振り向いた佐倉に『読んで』と口パクでアピールする。さすがに無視されないだろうという淡い期待は秒速で打ち砕かれた。眉を顰めた佐倉が、何の躊躇いもなくメモを握り潰したのだ。究極の塩対応に硬直した。これは相当嫌われている。
「次の問題を宮田。前に出て解きなさい」
ショックで放心していた陽菜は、後ろの席の子に突っつかれて魂が戻った。爬虫類顔で鋭い目つきの数学教師は通称・ヘビ男。ヘビが獲物に狙いを定めるような視線を注がれ、背筋が寒くなる。
直々に指名され、断頭台に連行される囚人みたいな気持ちで前へ進み出た。よりによって一番苦手な数学で、黒板に書かれているのはこむずかしい応用問題。頭の中で数字がぐるぐる回った。
「……すみません、分かりません」
「なんだ、この程度の問題が分からないのか。少しは頭を使え。授業が終わるまでそうしてるつもりか?」
嘲笑を浮かべられ、体中の血液が沸騰した。俯けた顔に熱が集まる。恥ずかしくて死にそうだ。短時間で二度も心折れる事態に遭遇し、泣きそうになった。
シンと静まり返る教室。空気が重くて痛い。誰もが標的になるのを恐れて息を殺す中、佐倉が起立した。クラスメイト達は一斉に目を丸くする。
何かが始まる予感。
注目の的となった佐倉が前に向かってきた。あたふたすると、無言で教壇の脇に押しやられる。佐倉は余っていたチョークを拾い、難解な数式の答えを淀みなく書き綴っていく。カツカツと小気味いい音が鼓膜に響いた。
「先生がおっしゃる通り、この程度の問題に時間を浪費するのはナンセンスです。授業を進めて下さい」
淡々と告げた佐倉の眼差しは、凍てつくほど冷ややかだった。黒板に記された文句のつけようがない回答に、ヘビ男は悔しげに口をへの字にした。
「もういい。二人とも席に戻りなさい」
陽菜は驚いて目を丸くした。この瞬間、佐倉は紛れもなくヒーローだった。
休み時間のチャイムが鳴ると、佐倉はふらっとどこかへ消えてしまった。陰湿な教師に日頃から不満を募らせていたクラスメイトの間で、佐倉の行動はちょっとした話題になった。しかし本人は騒がれるのがお気に召さないらしい。平常3割増の塩対応で透明バリケードを強化し、終始迷惑そうにしていた。
「佐倉くん、今日は助けてくれてありがとう!」
放課後、賑やかな教室でひとり帰り支度をしていた佐倉に声をかけた。爽やかな笑顔を向けられ、佐倉は不本意そうに眼鏡を押し上げる。
「勘違いしないで下さい。助けたつもりはありません。問題が解けないと分かっていて、わざと恥をかかせようとした先生に腹が立っただけです」
「そ、そっか。でも結果的に救われたから、やっぱりお礼言わなきゃ。ありがとう! あんな難しい問題サクッと解けちゃうんだねー。カッコよかったよ」
「……暇な人ですね。わざわざそれを言うために声をかけたんですか」
「うん! それだけじゃないけどね。聞きたいことがあるんだ」
「聞きたいこと?」
思わず聞き返した佐倉は、はっとして視線を逸らした。しまった、つい会話に応じてしまったという心の声がだだ漏れだ。逃走の気配を感じてすかさず肩を掴むと、佐倉の鼻から眼鏡がずり落ちる。お、意外と睫毛長い。よく見ると童顔で、女の子みたいな目鼻立ちをしている。悪くない素材だ。磨けば光りそう。
まじまじ顔を近づけると、佐倉は真っ赤になって後退した。
「は、離れて下さい! 近すぎです!」
「おっとごめんよ。びっくりさせちゃった?」
両手をホールドアップして腰の後ろで組む。佐倉は野良猫が威嚇するように睨みつけた。
「……要件は何ですか。忙しいので手短にお願いします」
「机の中に手紙が入ってたでしょ。読んでくれた?」
「あの手紙なら開封せずに捨てました」
佐倉はぎょっとした。陽菜の傷付いた表情に。大きな飴色の瞳は急速に潤み、今にも涙が零れ落ちそうだ。
「な……!? ど、どうして泣きそうになってるんですか」
「だって手紙を読まずに捨てるなんてひどい。そんなに私のこと嫌い? 私、佐倉くんに何かした?」
静かに糾弾され、佐倉は唇を噛んだ。脳裏に浮かぶ悪口が書かれたメモや、偽のラブレター。ひどい時には、告白の呼び出しに応じるかで賭けをされたこともある。数々の苦い経験から人間不信に陥っていた。
「……詳細は省きますが、あなたは僕の反応を見て楽しむ悪趣味な人と同類だと思っていました。あの手紙も嫌がらせの一環かと」
「違うよ!」
「はい。たった今、誤解だったと確信しました。僕の被害妄想だったみたいですね。最低なことをしました。本当に――本当にごめんなさい」
佐倉は深く腰を折り、頭を下げた。居合わせた生徒達が何事かと好奇の視線を向けてくる。それでも佐倉は微動だにしない。人目を気にする彼の誠実な行動に、責める気持ちが薄らいでいった。
「もういいよ。顔を上げて」
「……っ、はい」
「そんなに怯えないでよ。私は怒ってないし、むしろ誤解がとけてホッとしてる。ところで佐倉くん、ここからが本題です。君と友達になりたいです。ハイかイエスで答えてね!」
「ええええ!? 一択じゃないですか!」
驚愕する佐倉に笑顔で詰め寄る。及び腰の佐倉が後ずさり、陽菜が近付く。やがて壁際に追い込まれた佐倉はキラキラ輝く双眸に上目遣いで見つめられ、白旗を揚げた。
「あぁもう、参りました! 友達になるので離れて下さい」
「やったー! ついに念願成就!」
「念願? 僕と友達になることが? まったく……物好きにも程があります。こんなに強引でお節介な人は初めてだ」
佐倉が浮かべた困惑気味の笑顔にキュンとした。可愛い。ものすごく小動物っぽい。スマホのカメラを向けると、意図を察した佐倉は光の速さで顔をガードする。残念。
「ねぇ、佐倉くんの下の名前"慧"だよね。慧くんって呼んでもいい?」
「どうせダメって言っても呼ぶんでしょう」
「大正解~! 慧くん、分かってきたね。私のことは陽菜でいいよー」
「……議論の余地がありますが面倒なので譲歩しましょう。"陽菜さん"」
「お、新鮮な呼び方。慧くん限定だな」
佐倉の肩がぴくりと揺れる。お、耳が赤くなった。
「どしたの? もしかして照れてるー?」
「照れてないです、こら、制服を引っ張らないで下さい! さっきからテンション高すぎですよ。何がそんなに楽しいのか分かりません!」
「だって私、高校では慧くんの友達第一号でしょ? 嬉しいよ!」
陽菜が軽く跳ねると、亜麻色のロングヘアがふわっと背中で揺れた。シャンプーのいい香りがする。『明るく気さくで可愛い』――クラスで人気者の陽菜が自分に笑いかけている。それも、宝物を見つけたように。
「……陽菜さんの思考回路は理解不能です」
「あはは、それはお互い様だよー。って、あああああ! バイトに遅れちゃう! また明日ね!」
「はい、また明日」
陽菜は愛想よく手を振って教室を後にした。さっき佐倉の声色がやや嬉しそうだったのは、希望的観測じゃないかもしれない。
佐倉と和解して数週間、いくつか分かったことがある。佐倉は電車通学で帰宅部、バイトもしていない。放課後はだいたい旧校舎の図書室で勉強している。
旧校舎の図書室で机に向かう陽菜は、遠くに聞こえる吹奏楽部の演奏に耳を傾けた。窓の外に視線を移すと、夕焼け空にたなびく雲が太陽の光で金色に縁取られている。
「そういえばさ、慧くんはなんでうちの高校にしたの? もっと偏差値高いとこ狙えたでしょ」
閑散とした図書室で、黙々とシャーペンを走らせていた佐倉は肩をすくめる。
「単純な理由ですよ。普通の高校生活を送りたかったんです」
「これまでは普通じゃなかったの?」
「そうですね。うちは母が教育熱心で、小・中学校と受験して進学校に入学しました。勉強は嫌いじゃないので苦になりませんでしたが、周りはライバル同士ピリピリしていて、気が休まらなかったんです。その上、放課後は塾で遊ぶ暇がなくて。だからせめて高校では思い切り青春を謳歌しようと」
「へー、そうだったんだ」
「笑わないんですか? くだらないって」
「いいじゃん、青春したい気持ち分かるよ。楽しいもん」
肯定されるのが予想外だったのか、佐倉は驚いた。男女問わず友達の多い陽菜が放課後、わざわざ旧校舎の図書室で暇潰しすること自体解せない――といった表情を浮かべている。
「陽菜さんは本当に物好きですね。僕といても退屈でしょうに、ここで貴重な自由時間を浪費するなんて異常です」
「むっ、退屈じゃないよ。なんでそう卑屈になるかなぁ」
「当然でしょう。僕は勉強しか取り柄がないし、流行に疎くて、面白いことをひとつも言えない。高校生になって環境が変われば僕も変われるかと期待しましたが、現実はご覧のとおりですよ。つまらない人間なんです」
自嘲する佐倉は強いコンプレックスを抱いているようだ。下手な慰めは気休めにもならないだろう。それなら気分転換しようじゃないか。シャーペンを握り締める佐倉を、頬杖をついて見つめた。
「ねぇ慧くん時間ある? これから遊びに行かない?」
下校後、やや抵抗する佐倉を強引に連れ込んだのはアミューズメントパークだった。ボウリング、カラオケ、ビリヤード、ダーツ、卓球など様々な遊戯を楽しんでスッキリしてもらおうという魂胆だ。
「とりゃー!!」
「わわっ、そんなに強く打たないで下さい!」
「甘いよ慧くんっ! いざ、真剣勝負!」
初っ端、卓球コーナーで戦いを挑まれた佐倉はこてんぱんにやられた。運動神経が悪いので、体を動かすことに関しては陽菜に軍配が上がる。それでも各フロアを移動しながら色々なことにチャレンジするうち、思いの外楽しそうな佐倉の姿を拝むことができた。気分転換は成功したようだ。
一通り遊び終えた後は、街中のワゴン販売でクレープを買った。座る場所がないのでちびちび囓りながらウィンドーショッピングする。洒落たテナントが軒を連ねる遊歩道は人で溢れ返っていた。
「すごい混雑ですね。気を付けないと迷子になりそうです」
「あはは、大丈夫だよー。私がいるから安心して」
「保護者ですかあなたは。まったく……」
ため息を吐いた佐倉はふと、すれ違う同年代の男子が陽菜を目で追っているのに気付いた。肩を並べて歩く自分の垢抜けない姿が無性に恥ずかしくなり、前髪で顔を隠し俯く。
「陽菜さんは僕と一緒にいて恥ずかしくないんですか」
「えぇ、急にどうしたの。一緒にいて恥ずかしい人と友達になったり、遊びに誘ったりしないよ」
「本当に? 無理してませんか」
「してないしてない。もしかして慣れない人込みで疲れちゃった? 連れ回してごめんね。今日はもう帰ろう」
陽菜はできるだけ人込みを避けて駅まで誘導し、自販機で冷たいお茶を買った。佐倉に差し出すと、すぐに代金を支払おうとしたので「今日付き合ってくれたお礼」と渡した。
「……優しいですね、あなたは。そして強い。僕とは住む世界が違う人です」
「同じ学校でクラスメイトなのに?」
「それは関係ありません。世界には透明な境界線ボーダーラインが沢山引かれているんです。みんな口に出さないだけで、意識して行動してる。あなたはクラスの人気者で、僕は嫌われ者だ。僕達の間にも線は存在している。どんなに近付いても、交わることはない」
「うーん、難しいことは分からないけど、慧くんがその境界線とやらに苦しんでることは理解したよ。境界線は消せないの?」
「どう足掻いても無理です」
「そっか……じゃあ仕方ないね。プランBでいこう」
突然陽菜に手を握られ、佐倉は狼狽した。
「陽菜さん? 何を――」
「だって慧くんは境界線ボーダーラインを消せないんでしょ? だったら私がその線を超えるよ。こんな風にね!」
陽菜の笑顔を見た瞬間、佐倉の中で光が弾けた。モノクロだった世界が鮮やかな色を得て輝いていく。何も変わっていないのに、隣に陽菜がいるだけで、まるで別世界だ。頭上から幸福が降り注いだ気がした。
「驚いた……。陽菜さんは未来から派遣された幸福の使者ですか?」
「そんな大したもんじゃないよー。慧くんを笑顔にするっていう小さな魔法なら使えるけどね」
繋いだ手に力を込められ、鼓動が速まり落ち着かない。これから素敵なことが起きる予感が胸に閃き、佐倉はワクワクした。
「僕は今、世界が美しかったことにようやく気付きました。卑屈な僕が見落としていただけで、光は確かに存在したんですね」
「お、詩人だねぇ。そういうとこ好きだなー」
「……陽菜さんは自分の発言や行動に影響力があることを自覚して、自重すべきだと思います」
「あれ、怒られちゃった」
「はぁ……その様子じゃ全く理解してませんね。僕の高校生活は前途多難です」
疑問符を浮かべる陽菜に、佐倉は特大のため息を零した。
翌週月曜、寝坊した陽菜は遅刻間際に教室へ駆け込んだ。乱れた髪を手櫛で整えながら席に向かうと、衝撃的な光景が目に入る。――――佐倉がイメチェンしている。
「おはよう慧くん! びっくりしたぁ、髪短くしたんだね。眼鏡もコンタクトになってる」
「おはようございます陽菜さん。まだ違和感があって落ち着きませんが、おかしくないでしょうか?」
「うん、全然おかしくないよ! さっぱりしたねぇ、爽やかな感じでよく似合ってる!」
「よかった。朝から胃が痛くてしょうがなかったんです。今の言葉で安心しました。ありがとうございます」
柔らかな笑みを浮かべる佐倉に衝撃を受け、ポロリとスマホを落とす親友。目が点になっているのがおかしくて、陽菜は笑いを噛み殺した。
「ちょちょちょ陽菜! あの堅物をよく攻略したねー、侮ってたわ!」
「いやいや、普通に友達になっただけだから」
休み時間、女子トイレに連行された陽菜は親友に事情聴取を受けた。このところ放課後は佐倉と過ごすことが多かったため話が尽きない。
「あいつさ、陽菜とつるむようになって少し変わったよね。人を寄せ付けない刺々しい空気が柔らかくなった。今回のイメチェンをきっかけにブレークしちゃうかも」
「そうだね。慧くんのいいところに気付く人が増えたら嬉しいな」
「呑気だなー。ボヤッとしてて後悔しても知らないよ?」
親友の忠告はいつも的を得ている。――――後悔って何を? 思考を滾らせる陽菜は背後から肩を叩かれた。振り向くと、中学の時クラスメイトだった女子に頬を突かれる。悪戯が成功した彼女は首を傾げて笑う。
「あのさ、突然だけど陽菜って佐倉と付き合ってるの?」
「ううん、慧くんとは友達だよ」
「そうなんだ! よかったぁ。実は私、佐倉のこと気になってるんだ。イメチェンした画像が回ってきてさ~、顔がタイプだったっていう話。でもあいつ人見知りっぽいし協力してくれない? お願い! このとおり!!」
鼻先で両手を合わされ、胸の奥がツキンとした。棘が刺さったような違和感がある。だけど深く考えずに頷いた。
「いいよ! 私でよかったら相談のるよ」
「本当!? ありがとー!! じゃまた後でね!」
上機嫌で走り去る彼女を見送る間、親友に観察されていたことにまったく気付かなかった。
放課後、陽菜は旧校舎の図書室で頭を悩ませていた。迫る学期末試験、無駄に広い試験範囲、刻々と過ぎる時間。赤点の常習犯であることを佐倉にカミングアウトして以来、勉強を教えてもらっている。佐倉は丁寧に説明してくれるが、覚えることが多すぎて脳がパンクしそうだ。
「う―――もうダメだ! 休憩していい? せっかく教えてくれてるのに飲み込み悪くてごめんね」
「大丈夫ですよ。試験までまだ少し余裕がありますし、焦らずいきましょう。サポートしますのであまり思い詰めないで下さい」
「頼もしいなぁ。ありがと。最強の助っ人だね」
「大げさですよ」
佐倉の纏う落ち着いた空気に心が安らぐ。うっとうしかった髪がすっきりしたことで、意外に端正な顔が際立っている。特に漆黒の双眸は夜空を切り取ったみたいに綺麗だ。
「複雑だなぁ……」
「どの問題ですか?」
「あはは、勉強じゃなくて慧くんがイメチェンしたことだよ。それ自体はすごくいいと思うんだ。だけど外見で周りの態度が変わるのはあんまり気持ちよくないなーなんて。ごめん、独り言。忘れて」
空気が重くならないよう、わざと軽い口調で告げた。しかし、佐倉の真剣な眼差しに意表を突かれる。迷いを打ち消したみたいな、意思の強い瞳に惹きつけられた。
「僕が変わろうと思ったのは陽菜さんがきっかけです。あなたと肩を並べても恥ずかしくない自分になりたい。だから外見を変えたことで少しでも周りに良い印象を持ってもらえたなら作戦成功です」
「慧くん……。前向きになったね」
「根本は変わってませんよ。僕は根暗で卑屈です。ただ、陽菜さんが側にいると勇気が湧いてくるんです。いつか僕も陽菜さんを笑顔にする魔法を習得する予定なので、気長に待ってて下さい」
佐倉が笑顔を浮かべ、陽菜は瞳を見開いた。何の前触れもなく唐突に自覚する。
――――佐倉が好きだ。
意識した途端、胸の奥が締め付けられた。切なさで息が苦しい。佐倉を好きだという友達を応援する約束をしてしまった。今更言えない。
「……実はね、慧くんと仲良くなりたい女の子がいるんだ。もしよかったら紹介してもいい?」
断腸の思いで切り出すと、佐倉は面食らった。一瞬、複雑そうな表情を浮かべたが、冷静に話を聞いてくれた。
「……なるほど。信じ難い展開ですが事情は理解しました」
「急にこんなことお願いしてごめんね。考えてみてくれる? 無理なら私から断っておくよ」
「僕が断ればあなたの立場が悪くなるでしょう。かまいません、紹介して下さい。ただ、ひとつだけ確認してもいいですか? 陽菜さんは僕が……彼女と親しくなったら嬉しいですか?」
想定外の質問に動揺した。こちらの様子を窺う佐倉の意図が読めない。しかし澄んだ瞳の前では全てを見透かされそうで怖い。不安を煽られて無意識に拳を握り締めた。
――――お願い、気付かないで。
「もちろん嬉しいよ! 承諾してくれてありがとう。さっそくその子に連絡しておくね」
明るい笑顔で嘘を吐き、スマホを手に取った。佐倉は何も言わずに少し寂しそうな笑みを浮かべる。それ以降、お互いこの話題に触れることなくテスト勉強に戻った。
嘘を吐いた罪悪感と後悔、そして自己嫌悪――――様々な感情がない交ぜになって、佐倉を直視できなかった。
佐倉に了承をもらって友達を紹介して以降、日常に変化が生じた。積極的な彼女は休み時間の度に教室へ来て佐倉にアタックし始めたのだ。事前の根回しが功を奏したのか、佐倉は淡々としつつも丁寧に応じている。傍目には付き合ってるように見えなくもない。
胸が軋む思いだ。隣の席なので彼女が佐倉の肩や腕に触れ、高い声で笑う姿が否応なく目に入ってくる。陽菜の足は自然と教室から遠のいていった。彼女が教室に現れるのと同時に席を立ち、チャイムが鳴る直前に戻る。何度か佐倉から物言いたげな視線を感じたが、気付かないフリをした。
そんなある日、机の中に手紙が入った。
『陽菜さんへ
放課後、旧校舎の図書室でお待ちしています。
お話があるので少しだけ時間を下さい。
慧』
その日、親友含めクラスの女子数人で遊ぶ予定があった陽菜は、事情を話して後から合流することにした。話の内容は察しがついている。佐倉を避けていることに気付いているのだろう。
放課後、旧校舎の図書室の前で深呼吸した。既に当たり障りのない返事を考えてあるが、気まずさは変わらない。陽菜は意を決して扉を開けた。
「慧くんお待たせ。手紙読んだよー。話って何?」
「呼び出してすみません。聞きたいことがあったのですが、なかなか教室で話す機会がなくて。単刀直入にお伺いします。最近僕を避けてませんか?」
「あはは、気のせいだよー。先生に雑用頼まれたりしてバタバタしててさ」
「なんだ、そうでしたか。それなら手伝いますよ。次は遠慮なく声をかけて下さい。陽菜さんはお人好しですから、頼まれると断れないでしょう?」
避けられていたことが勘違いだったことに安堵し、茶化すような声色で微笑む佐倉。罪悪感が胸に降り積もり、喉がじんと熱くなった。今、佐倉の信頼を裏切っている。
「……ごめん、嘘吐いた。本当は慧くんのこと避けてた」
「え? 僕、何かまずいことしましたか?」
「ううん、違うの! 慧くんは何も悪くない。ただ私があることで勝手に悩んで自己嫌悪して、落ち込んでただけ。不安にさせて本当にごめんなさい。二度と避けたりしないから許してくれる?」
「もちろんです。よかった……僕が何かして陽菜さんを傷付けたわけじゃなかったんですね」
「……そんなこと気にしてくれてたんだ」
「陽菜さんは大切な人ですから」
佐倉が微笑み、瞼の奥が熱くなる。佐倉への想いが込み上げて胸を焦がす。少し前まで顔を髪で隠し、卑屈になって俯いてた佐倉が、今はまっすぐ目を見て笑いかけてくれる。小さくて大きな変化だ。
「ありがとう。席替えの日、慧くんの隣になれてよかった。最高の当たりクジだった」
心からの笑顔で握手を求めると、佐倉は一瞬、泣きそうに顔を歪めた。手首を掴まれ、強く引かれたと思った次の瞬間――――佐倉の腕の中に居た。
抱き締められている。
自覚した途端、体が熱くなった。身じろぐと、背中に回された腕が離すまいと力を強める。上半身が密着した状態で、前傾した佐倉が肩口に顔を埋めてきた。頬に触れる黒髪から爽やかな香りがしてドキッとする。
「あなたが好きです」
耳朶を打つ佐倉の声に心が震えた。ひどく切実で甘い声色に目眩がする。
「……教えて下さい。片思いを患った場合はどうすればいいですか? 恋愛初心者の僕には難問すぎて解けません。毎日バカみたいにあなたのことを考えて、顔を見る度に幸せで、同時に、一方通行だと思い知って打ちのめされる」
ゆっくり体を離した佐倉に両肩を掴まれ鼓動が速まる。心臓が早鐘を打ち、足が小刻みに震えた。何か答えなければと思うのに、言葉にならない。佐倉は返答に窮する陽菜から手を離し、後ろに下がった。
「困らせてすみません。陽菜さんが僕のことを友達以上に思ってないことはちゃんと分かってます。だけど、どうしても我慢できませんでした。伝えなかったことを後悔したくなかったから」
佐倉の真摯な表情に胸を打たれる。応えたい。しかし友達との約束がある。ありがとう、ごめんなさいというありふれた、無難な返事をするのが一番丸く収まることは明白だ。
「……ありがとう慧くん。好きになってもらえてすごく嬉しいよ。でも――」
ごめんなさい。
たった一言がこんなに胸を抉るなんて思わなかった。言わなければと思うのに。零れ落ちたのは謝罪ではなく大粒の涙だった。
「陽菜さん……!?」
「あれ? あはは、おかしいな。なんで今、涙なんか」
ポロポロと頬に伝って流れ落ちる涙を手のひらで拭う。ハンカチを探して慌てる佐倉が愛おしくてたまらない。だめだ。もう限界だ。これ以上、自分の気持ちに嘘を吐けない。
「――好き」
「え?」
「好きなの。私、慧くんのことが好き……!」
衝撃に瞳を見開いた佐倉の胸に飛び込み、自分から背中に両腕を回した。ぎゅっと力を込めて顔を制服に押し付ける。涙の跡が佐倉のシャツに透明な染みを作るのもかまわずに、夢中で抱き締めた。
――――その時、図書室の扉がけたたましい音を立てて開いた。
「「「カップル誕生おめでと――――!!!」」」
割れんばかりの祝福の声を浴びせられ、飛び上がった。こっそり扉の後ろに隠れていた女子達が、待ち構えていたかのように雪崩れ込んでくる。先頭には親友の姿があり、佐倉を紹介してくれと頼んできた友達まで混ざっていた。応援するという約束を破ったはずなのに、にっこり笑っている。これは一体……?
「ふっふっふ~。驚いた? 全ては"陽菜と佐倉を見守る会"によるドッキリ胸キュン大作戦でした!」
「えええええ!?」
「だってさー、どう見ても両想いなのになかなかくっつかないからじれったくて! こっそり仲間を集めて応援してたんだよ~。騙してごめんね?」
「えええええ!?」
「陽菜も佐倉もさっきから同じ反応じゃん。超ウケる」
カラカラ笑う親友に景気よく背中を叩かれ、危うく転びそうになる。佐倉が支えてくれたおかげで事なきを得たが、周囲の生温かい視線がむず痒くてたまらなかった。
散々冷やかされた後、ようやく解放された陽菜は佐倉と下校した。その間にも物凄い勢いで祝福のメッセージが届く。ピロンピロンと絶え間なくスマホが鳴り、佐倉が笑った。
「愛されてますね、陽菜さん」
「いやいや、あの葛藤はなんだったの……!」
「まぁかなりお節介でしたが結果オーライなので大目にみてあげましょう」
「えー慧くん寛容になったね。どういう心境の変化?」
「僕は変わってませんよ。ただ柄にもなく浮かれてるだけです。あなたが隣にいるので」
照れ臭そうな佐倉に胸が鳴る。さり気なく距離を詰め、佐倉の手を握った。
「ねぇ、これからもずっとこうして一緒にいられるといいね」
「そうですね。何気ない、かけがえのない日々を陽菜さんと重ねていきたいです」
優しく手を握り返され、嬉しくなる。温かな光に包まれるような感覚があった。一旦手を離し、数歩先回りして佐倉を振り向く。とびきりの笑顔で首を傾げ、上目遣いに見つめた。
「ところで慧くん、ここからが本題です。私と付き合って下さい。ハイかイエスで答えてね!」
ふっと顔に影が差した。唇に触れる柔らかな感触。小鳥が啄むような、一瞬のキスだった。茹で上がった陽菜を見て、佐倉は気まずそうに口元を手で覆う。
「すみません。可愛くて我慢できませんでした」
「ううん。……アンコール希望」
佐倉のネクタイを引き、背伸びした。もう一度重なる唇。先ほどより少しだけ長いキスに甘く頭の芯が痺れる。今なら空も飛べそうだ。余韻を味わうように、瞳の奥を覗き込む。自分の顔がいっぱいに映っている。
「境界線ボーダーライン、0になったね」
佐倉が目を丸くした。陽菜は悪戯が成功した少年のように笑う。
爽やかな、夏の風が吹いた。
fin
私と彼の境界線 水嶋陸 @riku_mizushima
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