第2話 きっとそれは、移り変わりの季節で
「鷹兄ー、そろそろ行くよ!」
「ああ……分かった」
玄関の方から音穏の声が響いている。
朝食を摂った後、寝癖を直していなかったことを忘れていた僕は慌てて脱衣所で寝ぐせを整えていた。けれど、なかなか寝ぐせは直ってくれない。結局諦めて僕は渋々玄関へ向かった。
「ぷっ! 鷹兄っ……何その髪の毛。流行りのファッションか何か?」
「し、仕方ないだろう? 直らなかったんだから。大体、僕がくせ毛なの知っているだろ?」
「いや、だって……それでも、その髪はっ! ぷはっ! もうだめ、お腹痛い! イヒ、イヒヒ!」
音穏は僕の姿を見るや否や突然吹きだして、口を押えて笑いを堪えていたが、段々と耐えきれなくなったのかお腹を抱えて笑い出した。
「酷いなぁ。そんなに笑う事はないだろう?」
「ごめんごめん。そんなに拗ねないでよ」
ひとしきり笑った後、音穏は涙を指でぬぐっていた。
そうかそうか……泣くほど面白かったか。鷹兄傷付くなぁ。
「ほら、早く学校に行こう?」
「あっ、ちょ!?」
音穏に腕を引っ張られながら僕は自宅を後にした。外に出てみればそこはもうすっかり春の陽気に晒されていた。空気は花の香りがして甘く、風が吹くたびその甘い香りが鼻を掠めた。
「今日から1年生〜、今日から1年生〜」
「厳密に言えばこの間、入学式に行った時からだけどな」
リズム感のない自作の歌を歌っているご機嫌な音穏は僕の腕に自分の腕を絡めてきた。僕の通っている高校へ今日から通うことになった音穏。入学式は土曜日に終えたばかりだが、音穏にとって今日という日が一番楽しみだったんだろう。同じ高校の制服に身を包んでいる音穏はどこか新鮮な気がした……それよりも、だ。
「腕を絡めるのはやめてくれませんかね、妹君」
「おや、仲がいい証拠だから良いではないですか、兄上」
仲がいい証拠って……普通ここまで仲のいい兄妹はいないって。
「どの世界に恋人みたいに腕を組んで歩いている兄妹がいるのかね?」
「良いじゃん。鷹兄そういう人、今はいないみたいだし。彼女出来るまでは音穏が妹兼彼女になってあげる」
どこか誇らしげな表情をしながらそう宣言する音穏。
残念ながら音穏、僕には妹を彼女にする趣味はない。
「調子のいいことを言って……どうせ何か欲しい物が出来て、買ってもらいたいがために芝居売ってるだけだろ?」
「ぎくっ! 鷹兄鋭いね。さすがの音穏もビックリだよ!」
「いや、ぎくって……初めて聞いたぞ。声に出してぎくっ、なんて言う奴。大体、何年お兄ちゃんしてきていると思っているんだ? 音穏の考えていることなんて手に取るように分かるさ」
音穏は欲しい物ができると決まって同じような態度をとる。甘え上手と言うか何というか、僕にとってはわかりやすい態度だけれど、まあ、買ってあげちゃうのが兄としての性な訳で……。
「……ダメ?」
「……良いけど、あんまり高いのは買ってあげられないからな?」
「やったー! 鷹兄大好き!」
「安い愛情だなぁ」
上目遣いと猫なで声のような甘い声で甘えてくる音穏に僕はやれやれと呆れながらもついつい甘やかしてしまう。
「おやおや、相変わらずの仲睦まじさだ事。妬けるなぁ」
突然、後ろから声を掛けられ、僕は声のした方向へと振り向いた。その呆れるほどに聞き飽きた、からかうような声に僕は眉を寄せる。
そこには無邪気な笑顔を見せながら手を振る紘輝の姿があった。
「どちら様か存じ上げませんが?」
「うわっ……酷いなぁ。親友の顔も忘れたのかよ。苦しいなぁ、傷付くなぁ」
紘輝はわざとらしく胸を抑える素振りを見せ、顔を歪ませる。4年も付き合いがあればこの手の冗談やからかいも慣れたものだ。
「みっきー! おっはろん」
「おはろん、音穏ちゃん。今日も元気いっぱいだな」
音穏と紘輝はお互いにハイタッチをしながら元気のいい挨拶を交わす。音穏は紘輝と波長が合うのか、かなり仲が良い。それでも恋愛感情的なものはお互いないらしく、強いて言えば悪友……と言った感じだろうか。
「へぇ、音穏ちゃんも今日から高校生か。うんうん、お兄ちゃん、音穏ちゃんの成長っぷりに感慨深いものを感じるでござるよ」
「でしょー」
紘輝は音穏の制服姿をまじまじと見つめ、顎に手を当てて目を閉じながら頷いている。満足げな笑みを浮かべる音穏はその場でクルリとターンしてみせた。制服のスカートが音穏の動きに合わせて翻る。
「成長すべきところは成長してないけどな」
僕はそんな音穏と紘輝のやり取りを見ながらついつい水を差してしまった。
僕の言葉にピクッと反応した音穏は急に動きを止めて僕をギロリと睨む。
まずい、思っていた事がつい口に出てしまった。
「今、遠回しに幼児体形って言ったよね?」
「何の事だか。お兄ちゃん知らないな。成長すべきところはしていないと言っただけでどことまでは言ってないさ」
「そう? で? どこがどういう風に成長してないって?」
音穏は満面の笑みを浮かべて問い掛ける。明らかに声のトーンが低いし、目が笑っていない。一応とぼけてみたけれど、こりゃ間違いなく怒らせちゃったな。
「まあまあ、ここでこうしてたら学校遅れちまうぞ。さっさと行こうぜ」
「ああっ! そうだね! 入学初日に遅刻なんてしたら学校生活最大の汚点だもん!」
タイミングよく仲裁に入った紘輝によって事なきを得る。僕は音穏に気付かれないように安堵の溜息を吐いた。
「ところで、だ。恵介。例のアレ……持ってきてやったぞ」
紘輝は周りに気付かれないようにバッグを自分の体で隠しながら例のブツを少しだけ僕に見せた。それは僕が求めていたブツで、紘輝に頼んでおいたものだ。
「おおっ! さすがだな、我が親友よ」
「何、気にすんなよ。数々の女を落としてきた恵介にならこれも楽勝だろ?」
紘輝はそう言って外から中身が見えないように黒い袋に入れたブツを僕に渡す。
僕はそれを受け取り、すぐにバッグへと仕舞った。
「というか、その言い方は良くないな。彼女にしたって言ってくれよ」
「一人を彼女にしたらすぐに乗り換えて別の彼女を作るのか。荒んでるなぁ。まあいいか。それで? 今回は何日で出来そうなんだ?」
「さぁ、やってみないと分からないな。公式で大体の内容とかは見ているけれど、これは結構ハードル高いみたいだし」
「そうなんだよなぁ。かなりルートを絞らないとベストな終わり方にならないんだよ。何度ホモエンドになった事か」
「そうそう。今時、恋愛シミュレーションゲームに親友とのホモエンドを取り入れるなんて、製作者絶対狙ってるもんな。しかも、一歩間違えるとホモエンドまっしぐらなんてさ」
紘輝から借りたブツというのは、今、世の男子の間で話題の恋愛シミュレーションゲーム『恋★運』だ。その名の通り『恋は運次第』というキャッチコピーを掲げ、登場するヒロインとの出会いを繰り返しながら仲を伸展させるゲームだ。
このゲームはなんでも、ヒロインを自分では選択できない事が売りのようで、一つの街をマップとして各々のエリアでランダムに配置されているキャラクターと出会いながら仲良くなっていくという、ある意味酷いゲームだ。プレイした大体の人はかなりの酷評をしている。
けれど登場するヒロインの声優さんも豪華だし、作画もお金をかけている事が不幸中の幸いのようで、酷評だと知りつつもついつい買っちゃう人は多い。恋愛が簡単じゃない事をしみじみと感じさせるゲームだと高く評価する人もいるからその影響もあるのだろうけど。
「なになに? 新しいゲーム?」
僕と紘輝の後ろを付いて来ていた音穏が間に割り込むように駆け寄ってくる。ゲームと聞いて興味を示したんだろう。
「おっ、音穏ちゃんも興味ある? 何だったら俺のとっておきのゲームを――」
「――それは止めろ! 妹になんてものをやらせようとしているんだ」
ゲームに興味津々な音穏に紘輝がとんでもない事を提案しようとする。僕は紘輝の言葉を遮るように言い放った。
「いやいや、そんなマジになるなよ。冗談だって」
紘輝は予想通りの反応と言わんばかりに白い歯を見せながら無邪気な笑みを浮かべている。音穏は僕達の反応を見て首を傾げ、怪訝そうな表情をしていた。
大丈夫、大丈夫だ音穏。音穏は何も知らなくていい。知らなくていい世界も世の中にはあるんだ。
僕らにはまともな恋はできはしない 藤也チカ @hujinari1805
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