第1話 きっとそれは、許せなくて

「うぅ……ん」


 徐々に意識が覚醒していく。

 重い瞼をゆっくりと開くと、閉めていたはずのカーテンが開かれて朝陽が差し込んでいた。急に飛び込んできた光が眩しくて僕はぎゅっと目を閉じる。

 そのせいか、目に溜まっていた涙が溢れ出しこめかみを通じて枕へと流れていった。


ああ……またあの夢を見ていたのか。情けないな、本当に。


 今でも夢に出てくる、あの時の光景。鮮明に映し出される記憶。

 思い出したくもないのに、いっそのこと記憶から消してしまいたいのに、ずっと付きまとってくる。

 僕はゆっくりと体を起こすとパジャマの袖で涙を拭いた。


「えっと……その……お、おはよう」


 ボソボソと消えかかりそうな声で誰かが声をかけてきた。それは声を聞いただけで分かる。間違いなく、詩穂理だ。

 詩穂理は部屋の隅にポツンと佇んで、悲しげな顔をしながらチラチラと僕を見ている。


「……おはよう」


 詩穂梨の方へ目を向けて僕は素っ気なく挨拶を交わす。

 学校のカバンを手に持ち、制服に身を包んだ詩穂梨。登校途中でここに立ち寄ったんだろう。髪はちゃんと整えられていないのか寝ぐせが立っていた。相変わらずのだらしのなさに安心感を感じたが、それはすぐに薄れていった。


「何でいるんだよ。もう来なくて良いって言わなかったか?」


 僕は出来るだけ声を抑えて、怒りを隠すように優し目に声を掛けた。

 長い付き合いだからこそ、あの時の仕打ちは自分の中で特に辛いものだった。

 信じてきた、ありのままでいられる相手に裏切られる気分は、まるで底の見えない暗く寒い穴に落ちていくようで……詩穂梨の顔を見るたびにそれを思い出してしまって、どうしても耐えられなかった。


「……うん。ごめんね。でも、ちょっと顔が見たくなっちゃって……えへへ」


 詩穂梨は悲しげな表情をしながら無理して笑ってみせる。俺はその笑顔を見ていられなくて目を逸らした。

 あの出来事から十分に時間があったから、詩穂梨を許す事は出来たはずだ。

 けれど、僕はあの二重の苦しみが傷跡がずっと残っていて、そのせいで臆病になってしまって……そんなトラウマを植え付けた元凶を簡単に許す事は出来なかった。

意固地になっているのかもしれない。こういう態度を取っていればいつしか向こうから謝ってくれるかもしれない。そんな後ろめたさと期待が入り混じっていた。


「そう……僕は別に見たくもなかったよ。朝から嫌な事、思い出しちゃったし」

「……そっか。うん。そうだよね。ごめんなさい」


 詩穂梨は口元を緩めつつも、もう笑みを浮かべることも出来なくなって俯いてしまう。

 言い過ぎたかと罪悪感を感じたが、もう取り返しはつかないと感じて僕も押し黙ってしまった。


 ふと、唐突に詩穂梨のスマートフォンの着信音が鳴る。

 詩穂梨はおもむろにスマートフォンを取り出して着信を確認し始めた。

 電話じゃないところを見るに……メールなんだろう。

 相手はメールの本文を見なくても大体分かった。


「彼氏だろ? こんなところにいないで行ってあげなよ」


 詩穂理には彼氏がいる。それを知ったのは最近じゃない。もうずっと前の事だ。

 とは言っても半年以上前くらいで、付き合いはそこまで長い訳じゃないらしい。


 僕は素っ気ない態度をとって詩穂梨を突き放した。

 詩穂理はスマートフォンを握りしめて更に悲しげな表情をする……が、すぐに無理して笑みを浮かべる。


「……うん。そうだね。もう行くね」


 詩穂理は最後まで悲し気な笑みを浮かべると僕の部屋を出ていった。


「あれ? しーちゃん。鷹兄たかにい起きた?」

「うん。起きてたよ。声かけなくても良かったみたい」


 家を出る途中で音穏ねおんに声を掛けられたようだ。一階から声が聞こえてくる。


「……? しーちゃんどうしたの? 何かあった?」

「ううん。何でもないよー。じゃあ、私、先に行くね」

「え? あっ、ちょ、ちょっと待って……って、行っちゃった」


 玄関の戸が閉まる音を聞いた後で僕はベッドから下りた。

 重い足取りで階段を下りてそのまま洗面所へ向かう。

 洗面所の鏡に映し出されているのは僕の情けない顔だった。

 目は泣き腫らしたように赤くなって、髪は寝ぐせが立って酷い有様になっていた。

 

「ちょっと鷹兄ー、しーちゃんに何したの……って、えええ!? どうしたのその顔! しーちゃんと何かあった?」


 眉を寄せて僕の様子を見に来た音穏は俺の顔を鏡越しに見るや否や目を丸くして驚いていた。


「何にもないよ」


 僕はそれだけ言って水道の蛇口を捻り、顔を洗う。


「嘘。だって、しーちゃん凄く悲しい顔してたもん。音穏には分かるんだよ」


 音穏は腕を組んで胸を張りながら口をへの字に曲げている。

 音穏は、僕と詩穂理の間に何があったかは詳しくは知らない。けれど、最近の態度の変化には凄く敏感で、少なくとも今の僕と詩穂梨の関係が良くない事は分かっているようだ。


「しーちゃんも何も話してくれないし……高校に入る前からだったよね? 何があったの? 音穏にも教えてよ」


 音穏は不満げに頬を膨らませながら僕を睨んできた。

 興味本位じゃなくて本気で心配して話を聞こうとしているのは分かる。

 けれど、音穏まで巻き込んだら詩穂梨との関係が崩れてしまう可能性だってある。そんな卑怯な事はしたくはない。


「こら。興味本位で聞くんじゃありません」

「あ痛っ……もう、叩かないでよ。それに興味本位でもないよ! 音穏は本当に心配して――」

「――はいはい。早く支度しないと学校に遅れるぞ」

「もう……知んないよ」


 僕は顔をタオルで拭き取りながら音穏の頭を手のひらで軽く叩く。

 音穏はそれでも食い気味に聞いてくるが言葉を遮るようにはぐらかすと、不満げに頬を膨らましながらもようやく諦めてくれた。

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