仕掛けられた夢

フヒト

仕掛けられた夢

 夢で嫌な奴を殺した朝は、格別に寝覚めがいい。


 思いつつ、清水佑治はベッドの中で伸びをした。ゆっくりと身を起こし、カーテンを開けて外の光を部屋に招き入れた。


 佑治は、いまだに掌に残っている牧野令子の頸の感触を、もう一度かみしめる。

 この手の中で息絶えていく令子の様子は、佑治が昨日味わった屈辱感を忘れさせるに充分なしろものだった。


 昨日、佑治は令子にふられた。それも衆人環視の前で。


 令子は意地の悪い女だった。放課後の、まだクラスに人が残っている時間を選んで、ラインで送った告白の返答をしに来たのだから。

 たちまちのうちに十数人の男女がくすくす笑いをはじめた。佑治は逃げるようにして教室を出た。家に帰った後も、そのときの光景が何度も頭の中によみがえってきて、大変な苦痛を味わった。


 だがそれも昨夜までのこと。今朝の心は晴れ晴れとし、嫌な気分から解放されていた。

 佑治は頭につけたヘッドギアを外すと、丁寧にたたみ、枕元に置かれたスリープ・シフターの本体の隣に置いた。


 今日も良い日になりそうだった。


 スリープ・シフターは、あらかじめプログラムした内容で、夢の内容をコントロールできる機械だ。電話機ほどの大きさの本体に、専用ヘッドギアをつなぎ、使う。

 見る夢の内容はプログラム次第で自由自在だ。佑治は夢の中でもっぱら、クラスの女子とセックスをしたり、気に喰わないクラスメイトを殺したりしていた。


 着替えて階下におりた。ダイニング・テーブルにはすでに両親と妹が向かい、談笑しつつ朝食を食べていた。佑治も挨拶をして椅子に腰かけ、その輪に加わった。


「お兄ちゃん、おはよ」佑治より三つ下、中学二年の妹が、にっこりと笑みを向けた。おう、と佑治も笑みでこたえる。両親もその光景を、幸せそうに笑んで見ている。


 つい一年前までは、こんなやりとりが朝の食卓で交わされるなんて、想像もつかなかった。妹は佑治に挨拶すらせず、母は小言ばかりたれ、父は黙々と食事を口に詰め込みながら、細めた目の奥から憎悪の視線を母に送っていた。

 かくいう佑治は、そんな連中とともに朝を過ごすなんて真っ平と、リビングに近寄りもせず学校へ直行していた。


 スリープ・シフターが、このぎくしゃくした家族関係を、見違えるように修復してくれた。


 最初に使いはじめたのは母。その後妹、佑治、最後に父という順番で、瞬く間に清水家にこの機械は普及した。

 これは全国的な傾向らしい。ある日のニュースでスリープ・シフターおよび類似製品が、高機能なわりに安価であることも手伝い、携帯電話に迫る勢いで普及してきていることが報じられていた。


 佑治は家族に行ってきますと伝え、家を出た。


 高校へ向かう道すがら、沢山の人たちに朝の挨拶の声をかけられた。もちろん知人が主だったが、全然知らない通りすがりの人もいた。

 こんなことは、ほんの少し前まではまったく考えられなかった。おそらく皆、スリープ・シフターを使って現実世界での不愉快を精算した結果、ほがらかな気持ちで他人に優しく接しているのだろう。


 学校に着き、大きな声で挨拶をして教室に入った。


 昨日の佑治の醜態を見ていたクラスメイト数人と、目があった。ほんの少し耳が熱くなったが、佑治は彼らに屈託のない笑みを送り、道化たように肩をすくめてみせた。彼らもそれに応じ、明るい笑いを佑治に送り返してくれた。佑治はまたしても心の中でスリープ・シフターに礼を言いつつ、安心した気持ちで席に着いた。


 一人、じっと佑治を見ている生徒があった。クラスで一番地味な女子、阿久津千恵だった。おそらく佑治に気があるらしく、たびたび視線を向けてくるが、佑治の方には全く気がなく、どちらかというと鬱陶しく感じていた。佑治は彼女に軽く会釈すると、鞄から教科書を出し、始業の準備をはじめた。


 やがて教室に牧野令子が入ってきて、斜め前の席に腰かけた。佑治とは一度も視線を合わせない。

 佑治は舌打ちする。どうしてこの女は、こんなに意地が悪いのだろう。大勢の前でわざとふったり、今日になってもつんけんした態度をとったりして。たとえ気がなくとも、せめて俺が阿久津千恵にするように、最低限の礼儀をもって接してくれても良いではないか。


 もしかしてこの女、スリープ・シフターを持っていなくて、心が不安定なのだろうか。


 あり得ることだ、と思うとともに、そんな彼女の日頃の性格を知っていながら惚れてしまった自分に、佑治は少なからず腹を立てた。


「お前さ、昨日皆の前で牧野令子にふられたんだって?」


 佑治は思わずむっとして、顔を上げた。机の横にクラスメイトの尾上が、酷薄な笑みを浮かべて立っていた。


「恥っずかしい。そんなことがあったのに、よくめげずにこうやって机に座ってられるよな」


 尾上が下卑た声で笑った。佑治は苛立ちを必死で抑えながら言ってのけた。


「ああ、確かに俺はふられたさ。だけど別に恥じるようなことじゃないだろ。俺はな、そんなことをいつまでも引きずるような、自意識過剰人間じゃないんだよ」


 へえ、と尾上が大げさに眉をつり上げた。


「どうせお前、スリープ・シフターを使って、憂さ晴らしをしたんだろう。でもって今日は爽やかモードで登校。ああ、気味が悪いったらありゃしねぇな」


「そんなのお前には関係ねぇだろ」佑治は尾上を睨みつけた。


「スリープ・シフターなんて、今じゃ誰でも持ってるさ。このクラスで持っていない奴なんて、お前と、あとは数えるくらいさ」


「みんなが持ってるんだもん」幼児の口ぶりを真似て、尾上が言った。「皆が使っているからって使うんだぁ。まるで子供だな」


「こんなことで一々からんでくるお前のほうが、よっぽど子供だろうが。もしかしてお前、家が貧乏でスリープ・シフターを買えないからって、俺たちに嫉妬しているんじゃねぇのか?」


「うちは貧乏なんかじゃねぇよ」むっとした顔で、尾上が言った。佑治は尾上の急所を突いたことを感じ、内心ほくそ笑む。


 尾上は言った。「俺は嫌なんだよ。夢の中で嫌いな奴を殺したり、片想いの相手と寝たりするってのは、所詮逃げでしかねぇじゃねぇか。まあ、多分お前は、これからの人生でも、あの機械を後生大事に抱いて眠りつづけるんだろうけど、俺はそんなの嫌だね。そんな糞みたいな機械なんて使わず、現実と真っ向勝負して、生きていってやるさ」


「そうかよ。つまりお前は、このクラスのほとんどの奴を含め、世間に喧嘩を売って生きていくつもりなんだな」


「別にどう取ってもらってもかまわねぇよ」尾上は自分の席に戻っていった。


 憐れみを込めて尾上の背中を見送っていると、まもなく教室に担任の佐々木泉美が入ってきた。


 いつにも増して晴れやかな顔つきで、肌の具合も絶好調。確か実年齢は二十八だが、見かけはほとんど十代だ。多分、今朝見た夢が、よほど良いものだったのだろう。このクラスで地味の代表が阿久津千恵なら、目立つ代表は間違いなく彼女だ。


 そうだ、今度は佐々木先生とセックスする夢を見てみようか。

 佑治は、思わず口もとをゆるめた。


 一限目は、佐々木先生の受け持ちの数学だった。

 尾上が指され、黒板に書かれた問題をすらすらと解いていった。


「いつも通り、よく解けているね」佐々木先生が解答に大きく丸をつけながら言った。尾上は満悦の表情だ。


 佑治は、そんなことで満足感を得ている尾上に、心底から軽蔑の念を抱いた。


 どういうわけか、スリープ・シフターを使っている奴よりも、ごく少数の使っていない連中のほうが、学校での成績が良かった。

 これは社会人でもいえるらしかった。会社での成績が、スリープ・シフターを使っていない奴のほうが良いのだ。


 現実に満足をしている者よりも、していない者のほうが、より貪欲で、努力も重ねるせいだろうと、あるとき佑治が視たテレビ番組のコメンテーターが語った。多分こいつはスリープ・シフターを使っていないのだろうな、と思いつつ、佑治は発言を聞いていた。


 しかしまあ、その意見には一理あることは佑治も認めた。確かに、満足よりも不満足のほうが、努力という浅ましい行為のためのエネルギーを生み出しやすいだろう。


 番組は、このままいくと国全体の生産性が下がり、国際競争力が衰えていくのではなかろうか、という危惧をのべて終わっていた。スポンサーの圧力がない、国営放送ならではの見解だな、と佑治は思った。


 だが、そんな「警鐘」をいくら鳴らしても、スリープ・シフターの普及を止めることはできないだろう。

 この学校でも、皆がおっとりとし、文武ともに努力をしなくなってきている。生徒達が将来に対して過大な夢を持つこともなく、無意味な競争に明け暮れることに意欲を抱かなくなってきているのだ。


 だがそれをして堕落だと言うのは、一方的な決めつけではないだろうか、と佑治は思う。人間はそれぞれ別々の個性を持つ存在で、本来競うこと自体が間違っているのではないかと。

 互いを尊重し、無意味な競争をやめれば、いがみ合いも、いじめも、果ては戦争すらこの世から駆逐できるかもしれない。


 人類は、長い進化の果てに、その可能性を感じることができるところまで、ようやくたどりつけたのだ。スリープ・シフターという革命的機械を発明し、「もう一つの現実」を生きることができるようになったことによって。


 夜、さっそく佑治は、佐々木先生との情事をスリープ・シフターにプログラムして、寝床に入った。


 眠りのモードは明晰夢。自分が夢を見ていることを自覚した状態で見る夢だ。

 もちろんこの機械には、夢を夢と自覚せずに見るモードもあるが、佑治はもっぱら明晰夢のほうを選んでいた。そのほうが、目覚めた後に名残惜しい気持ちを抱かずにすむからだ。


 夕陽の差し込む教室で、佑治は一人、窓辺に立っていた。

 突然、背後から温かく、柔らかいものが抱きついてきた。

 佐々木先生だった。


 佑治は先生のほうへと向き直ると、しばらく見つめ合った後、ゆっくりと唇を合わせた。

 もちろん、あらかじめ自分で書いたシナリオの通りの展開だった。だが五感に訴えてくる圧倒的なリアリティに、佑治は狂おしいほどに興奮した。


 震える手で先生のブラウスのボタンを外していき、豊かな胸をおおったブラジャーのホックに、指をかける。

 もう少し。もう少しで、先生の胸を拝める。


 期待と興奮が高まったそのときだった。

 突然、世界が闇に覆われた。


「あれ、れ?」佑治は間抜けな声をあげる。

「おい、どこに行ったんだ先生は? ここはどこだ? なんで何も見えないんだ?」


 矢継ぎ早に疑問を口にするが、応答はまったくない。


「おい! どうなってんだよ」叫んだそのときだった。


 自分自身の声に、目を覚ました。

 すでに朝で、佑治は自室のベッドの上に身を起こしていた。


「糞。何だよ。何が起こったんだよ」


 佑治はヘッドギアをむしり取ると、スリープ・シフターの傍に放り投げた。


 もしかして故障だろうか。

 佑治はスリープ・シフターを取り上げて、操作画面を見た。だが、別段エラー表示が出ているわけではない。


 深々と溜め息をつき、ベッドから下りて、身支度をはじめた。

 仕方ない。ともかく近くのカスタマー・サービスセンターに持っていって、点検をしてもらおう。うまくいけばきっと、今夜にはまた楽しい夢の世界で遊べるはずだ。


 奥歯を噛みしめつつ、階下へ行った。

 リビングに入った佑治は、いつもと違う雰囲気を感じ、ぎょっとして食卓を見渡した。


 ぐしゃぐしゃに潰れた卵焼きと、焦げたトーストがテーブルにのっていた。それを父が、いかにもまずそうに顔をしかめながら、機械的に口に運んでいた。

 母はテーブルの上に突っ伏し、頭を抱えたまま動かない。

 妹は席にもつかず、テーブルの傍に仁王立ちし、ぴくぴくと頬をふるわせながら両親たちを睨みつけていた。

 朝の挨拶をする者など、誰もいなかった。


 佑治はいたたまれなくなり、口の中でもごもごと出かける挨拶をした後、鞄を持って玄関を出た。


 教室にも、異様な空気が満ちていた。

 男子生徒の多くが貧乏揺すりをし、口の端をねじ曲げていた。机の上に一心不乱に落書きをしている者も、少なくなかった。

 女子たちはうつむき、何かに耐えるかのように、唇を横一文字に引き結んでいた。一人、阿久津千恵だけが佑治に目を向け、顔色をうかがうような表情で会釈をした。


 「なんだよ、これは」


 佑治はつぶやくと、自分の席に歩いていき、どっかと腰かけた。そして苛々をおさめるため、筆入れの中から消しゴムを取りだし、カッターナイフで細かく切り刻みはじめた。


「ざまぁねぇな。中毒患者」横から声がした。尾上だった。


 尾上は佑治の机の上に手をつくと、顔を寄せ、囁いた。


「聞いたぜ。スリープ・シフターが壊れたんだってな」


 佑治は思わず顔を上げた。「お前、どうしてそのことを――」

「やっぱり、お前もか」尾上が鼻を鳴らした。「どいつもこいつも様子がおかしいから、もしかしたらと思って、何人かに訊いてみたのさ。そしたら大当たり。大事な機械がぶっ壊れて、楽しい夢を昨夜は見ることができなかったって言うんだ」


 そうだったのか、と納得したのも束の間、なぜそんなことが起こったのか、という疑問がすぐに浮かんできた。


「皆のスリープ・シフターが一度に壊れるなんて、どうしてそんなことが起こったんだろう」


「さあな。初期不良か何かで、元々あったエラーが、何かのきっかけで昨日一気に出たんじゃねぇの? ともかくはっきりしたことはわからねぇよ。まあ、あの機械の中毒じゃない俺にとっちゃ、関係のないことだがな」


 尾上は笑いながら、席に戻っていった。


 佑治はぞっとした。もしも奴の言うとおり、大きな問題があって装置が一斉に駄目になったのなら、メーカーの対応が大幅に遅れる可能性がある。好きな夢が見られないというストレスに、何日も耐えられるだろうか。


 佐々木先生が教室に入ってきた。彼女は放るように出席簿を置くと、投げやりな口調で出欠をとりはじめた。はすっぱなその声に、昨日あれほど盛り上がっていた佑治の気持ちが萎えていく。


 昼休みになっても、教室内の緊張は一向にゆるむ気配がなかった。

 佑治は黙って正面を向いて、購買で買ってきたパンを口に詰め込んだ。他の皆も似たり寄ったりの様子なところを見ると、この自分同様、他人と視線を合わせないようにしているのだろう、と佑治は思った。


 パンを食べ終え、やることのなくなった佑治は、あまった昼休みの時間をつぶすべく、午後の授業の予習をすることにした。

 教科書を一冊ずつ引っぱり出し、叩きつけるように机の上に放っていると、斜め前から牧野令子の声がした。


「うるさいよ」棘のある声音に、佑治は思わずむっとする。彼女が苛ついた様子で言った。「あんた、なにキレてんの」


「はあ?」佑治は声をあげた。「別にキレてねぇし。お前、神経質すぎるんじゃねぇの?」


「あたしが神経質だったら、あんたは大間抜けだよ」令子が言った。「まったく、一昨日だってポエムみたいなラインをよこしてきてさ。キモいんだよ。知ってる? あんたのことを皆がどう思ってるかって」


「なんだと。言ってみろよ」


「馬面エロ。そう言われているんだよ」


「なんだって? どうして俺がそんなふうに呼ばれなきゃならねぇんだよ」


「まだわかんないの? 授業中にちらちらあっちこっちの女子をやらしい目で見て、鼻の下長くしてさ。あんたがそうするたびに、元々の馬面が余計に目立つんだよ。馬鹿。ああ、気持ち悪い」


 佑治は思わず、椅子を蹴って立ちあがっていた。

 息を荒くし、令子を睨みつけていると、横から尾上の声がした。


「おい、お前、周り見てみな」


 教室を見渡した。


 目、目、目。


 クラスの皆が、尖った目つきで佑治のことを睨んでいた。


「な、なんだよ」思わず吃ってしまった。「なに睨んでんだよ。お前ら、おい――」


 だが彼らは、佑治を見るのをやめなかった。やがてじょじょに席を立ち、皆して佑治のほうへと集まってきた。


 戸惑いが恐怖に変わった瞬間、誰かが佑治を背後から強く突き飛ばした。佑治は派手な音をたてて机をひっくり返し、床に倒れ込んだ。痛みを味わう間もなく、背中に、頭に、脚に、掌に、無数の蹴りが飛んできた。やめろと叫んでも暴力は際限なくつづき、やがて佑治は生命の危険を感じはじめた。


 そしてとうとう、最後の一撃がやってきた。


 ひときわ強い蹴りを、頭にくらった。

 頭蓋が陥没するような不気味な音とともに、佑治の世界は闇に沈んだ。


 叫びとともに、佑治は目を覚ました。


 むしるようにヘッドギアを外し、ベッドの横に置かれたスリープ・シフターに叩きつけた。

 佑治は、三十歳を過ぎてから特に白髪が目立ってきた頭を激しく掻きむしり、立ちあがると、家庭用プリンタほどの大きさのスリープ・シフターのボディを、思いきり蹴りつけた。そして電話を取り上げ、修理担当者の携帯電話に直接かけた。


「おいお前、全然直ってねぇじゃねぇかよ」


「申し訳ございません」担当者が平板な声で謝った。


「申し訳ございませんじゃねぇよ。お前昨日、確かに直りましたって言って帰ったよな? なのにどうして、今朝もまたおかしな夢を見させられなきゃならねぇんだ! しかも明晰夢だったらまだいいのに、そうじゃないから、こっちはまるきり本当の体験だと思って、悪夢を見させられるんだ。これでもう十日目だぞ。たまったもんじゃねぇよ!」


「ほんとうに申し訳ございません」


「無意味に同じ言葉を繰り返すな。ともかく至急来て、修理をしろ。こっちは今日も会社で重要な仕事をしなきゃならねぇんだから。お前みたいなルーティン・ワークの作業員とは違うんだよ」


「わかりました。なるべく早く伺います」


 佑治はさらに強く念を押し、電話を切った。


 階下へ行くと、妻が苛立たしげな顔で佑治のことを見ていた。

 食卓についた佑治に、早速妻が攻撃をしかけてきた。


「ちょっと、毎朝いい加減にしてよ。うるさくてしかたがないじゃない」


「仕方ねぇだろ。スリープ・シフターが壊れているんだから」


「そんなの理由にならないでしょう。ちょっとくらい壊れたからって、毎朝そんなふうにがなり立てられたんじゃ、家族としちゃやってられない。子供じゃないんだから、少しは我慢してよ」


「おい。俺は今、神経がささくれ立ってるんだ。不用意なことを言うのはやめろ。でないと――」


「でないと?」


「後で、お前自身が後悔することになるぞ」


「なによ、それ」妻が鼻を鳴らした。「わたしを脅迫する気? だいたい後悔ってなによ。夢の中でしか自由に振る舞えない腰抜けのくせに、偉そうなこと言わないでよ!」


「もう一度言ってみろ」佑治はゆっくりと立ちあがった。だが妻はまったく臆さなかった。


「ああそう。何回でも言ってやるわよ。臆病者! 役立たず! あんたなんかと結婚して、ほんとうに失敗だった!」


 佑治は妻を、椅子から床に突き落とした。そして妻の上に馬乗りにまたがると、頸に両手をかけた。


「この女! ぶっ殺してやる!」


 そのとき、突然、頭に強い衝撃を感じた。


 佑治は床にどうと倒れこんだ。みるみる目の前に、どす黒い血溜まりが広がっていくのが見えた。


 ああ、これもまたきっと夢なんだな。佑治は思った。

 意識が闇に沈んでいくのを感じつつ、佑治は次の目覚めを待った。


 * * *


 警察の取り調べとマスコミの攻勢が一段落つくまで、ひと月近くがかかった。


 さらにそれから半年後、佑治の妻は「その男」に正式な礼をすべく、地下鉄の列車の車輌で待ち合わせをしていた。


「その男」とは、スリープ・シフターの修理担当者、山岡のことだ。


 山岡は指示したとおりの車輌に乗ってきた。

 彼女は山岡と目を合わさずに、封筒を渡した。中には高額の現金が入っていた。彼はそれを素速くポケットにしまった。


 彼女は前を向いたまま囁いた。「ほんとうにいい細工を機械にしてくれてありがとう。おかげで万事予定通りに進んだわ」


「たいしたことしてないですよ」山岡が言った。「すべて奥様が計画したとおり。私は指示にしたがっただけです」


「ともかくよかった。あの男には長いあいだ苦しめられていたから。今こうやって心の平穏を取り戻せたのは、あなたのおかげ」


 山岡は照れたように笑うと、次の駅で列車を降りていった。


 そう、あの一件はすべて佑治の妻が計画をたて、山岡に頼んで遂行したのだ。

 高いお金を払ってスリープ・シフターを購入してから、佑治はしだいに妻を粗雑に扱うようになっていった。


 いつしか彼女は、佑治からのまなざしに、愛情というものをまったく感じられなくなっていた。


 佑治が彼女を見るときの目は、まるでモノに対するそれのようだった。


 彼女は思った。おそらく夫は私を見るとき、夢の中でどうとでも御しうる存在と思っているのだ。要するに彼にとって、現実とはもはや夢の方であり、この世界ではないのだ、と。


 そんな日々を長く過ごした結果、彼女は、佑治を殺す決意をした。

 おそらく佑治は、彼女が離婚を申し出たら、素直にそれを承諾したことだろう。だが彼女は、そんな手ぬるい方法をとることでは、気が済まなくなっていた。


 結婚以来彼女は、佑治が頻繁に起こす癇癪や暴力に耐え、浮気も水に流し、尽くしてきた。

 なのに佑治の態度は、彼女をモノ扱いするようなものになっていた。

 もはや彼女は、佑治を殺す以外に復讐の選択肢を想像できなくなっていた。


 計画を練った末、彼女は、いつも家に出入りしているスリープ・シフターのアフターケア担当者、山岡を金で買い、佑治を壊していくことにした。


 彼女は山岡に指示し、佑治が悪夢しか見られなくなるよう、スリープ・シフターに改造を加えさせた。

 佑治はなにも知らずにそれにひっかかり、見られるわけもない楽しい夢を今夜こそは見られるだろうと願いをかけ、毎夜眠りについた。


 果たして佑治は、朝を迎えるたびに精神を荒廃させていった。

 最後には、駄目押しのようにひときわ残酷な夢を見させた。前半に楽しい思いをさせ、ラストに向かって地獄に突き落とすような展開の悪夢だ。


 佑治は予想通り、荒みきって起きてきた。彼女はそれを逆なでするように、わざと口やかましく責め立てた。


 佑治はまんまと罠にはまった。癇癪を起こし、夢の中で牧野令子にとった行動とそっくり同じように、彼女の頸を絞めてきたのだ。


 あのとき、実は彼女は、佑治の手に本気の力が込められていないことを知っていた。佑治はおそらく、怒りを示すためのポーズとして、彼女の頸に手をかけたにすぎなかったのだろう。


 だが、彼女にとって、そんなことはどうでもよかった。

 彼女は、馬乗りになってきた佑治の頭めがけ、あらかじめ床に置いておいた重たい鉄製の猫の餌皿を力いっぱい叩きつけた。


 佑治は死んだ。一部始終は、あらかじめ部屋にしかけておいた防犯カメラにおさめられた。

 彼女はそれを警察に提出することによって、自由を手に入れた。


 列車を降り、家に帰った。

 寝室に入ると、彼女は大きく欠伸をし、ベッドに横たわった。

 そして、今は正常に直されたスリープ・シフターのスイッチを入れ、ヘッドギアをかぶった。


 彼女は静かに明晰夢の世界に落ちていった。

 あの日以来、自分のものとなったこの機械を使い、彼女が見る夢は決まっていた。

 高校時代、ひそかに好きだった彼。自分の本当の初恋の相手であり、死んだ夫の友人。

 彼女は夕陽の差し込む教室に入り、彼に笑って声をかけた。


「ねえ、一緒に帰ろう。尾上くん」


 彼はにっこりと笑んだ。その笑みには、クラスで一番地味と言われた彼女を見下すような意地の悪さは、かけらも見当たらなかった。


 彼は彼女を旧姓で呼んだ。


「ああ。一緒に帰ろう。阿久津さん」

(了)

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