鷹揚自若のじいさん

第1話

「やれやれ。助かった助かった。悪かったな青年」

 俺はその人の肩を支えて引き起こした。彼は泥だらけだ。

「なんのこともありません」

「君、仕事は何をしているんだい」

 聞かれたので俺は答える。

「商社の営業ですよ。自慢じゃないけどそこそこの成績です」

「そうかそうか。そいつは何よりだ。なにかお礼がしたいな。君、これから良いかい?」

 律儀な人だ。これぐらいのことでそこまでしなくても良いというのに。俺は自分に付いた泥を払った。

「いえ、仕事がありますから。これで失礼しますよ」

「そうかそうか。そいつは何よりだ。いや、本当に礼を言うよ。ありがとうよ」

「なんのこともありませんよ。では」

 そう言って俺は手を振りながら歩き出した。後ろは振り返らない。背中で挨拶するという映画のような立ち去り方だ。我ながら決まったと思う。

「ああ、じゃあな。難儀だろうが達者でな」

 そんな俺にその人はこれまた粋な言葉を送った。








 ある日、家に帰るとじいさんが居た。

「.....」

 俺は固まることしか出来なかった。じいさんが俺のベッドに腰かけているのだ。古めかしいコートに丸帽、手には細かい装飾の入った杖を持っていた。いかにも昔の貴族だか紳士だかといったような外見だ。

 無論、俺のじいさんではない。そもそもここは俺の入居しているマンション『パークハイツ名田』の204号室だ。俺一人の住居だ。同居人など居ないのだ。このじいさんは真っ赤な赤の他人であり、そして不審者だった。

「......」

 俺は黙ってじいさんを見つめる。じいさんも俺を見ていた。俺は恐ろしくてならなかった。誰だこいつは。なんで俺の部屋に居るのだ。なんの目的があるのだ。一体これから俺にどんな害を加えようというのだ。俺は警戒した。

「誰だあんたは!!」

 俺は叫んだ。威嚇である。お前の手の平の上には乗るまいぞという意思表示だ。

「......」

 しかし、じいさんは何も答えなかった。代わりにあくびをして鼻を掻いた。

「出ていけ!!! これは不法侵入だ!! 警察を呼ぶぞ!!!」

 俺はさらに威嚇する。間違いないことだ。俺が鍵をかけたはずの部屋に無断で侵入しているのだ。これは不法侵入であり犯罪行為だった。俺はスマホを取り出した。

「聞こえていないのか!!」

 しかし、じいさんは俺の威嚇行為にもどこ吹く風でありまったく無反応だった。

 俺は恐怖の向こうから怒りが沸いてきた。なんだこのじいさんは。なぜこんなに傍若無人なのだ。人が金を払って借りている部屋に無断で入ってどうしてこんなに平然としているのだ。こっちは月々5万も払っているというのに。

「電話するぞ本当に!! 良いんだな!!!」

 俺はスマホを見せつけじいさんに言う。しかし、じいさんはやはり無反応でまたあくびをした。俺は怒り心頭に達し、とうとう110番をダイヤルした。ほどなくして警察が出る。俺は事情を話し、来てもらうように言った。

 これで警察が来る。この訳の分からんじいさんもお払い箱だ。まったく意味が分からなかったがとにかくこれでこの気色の悪いじいさんはこの部屋から追い出せる。じいさんはのんきにあくびをしていた。実に腹がたつ。なぜ見ず知らずの他人の家でこんなにもリラックスしているのか。だが、この怒りもあと十数分の辛抱だ。馬鹿め、と俺はじいさんを嘲笑った。




「こんにちはー。警察でーす。お電話していただいた田所さんのおうちで間違いないですか?」

 10分後、俺の部屋のドアの向こうに警察は到着した。

「はい、間違いありません。お願いします」

 俺は警官を部屋の中に招く。年配の警官と若い警官の二人だった。

 じいさんの様子は警察を呼んだ時から変化なしだ。俺は喚いたり、罵ったりしたがじいさんはまったく動じず馬耳東風だった。ずーっとぼんやりと俺を見たり部屋を見たり窓の外を見たりしていた。恐ろしくて触る気にはなれなかった。今もじいさんはベッドの上に座って入ってきた警官を見ていた。

「このじいさんです。帰ってきたら座ってたんですよ」

 俺はじいさんを指差して言った。

「......ふむ」

 年配の警官はあごに手を当てて俺を見た。

「どうにかしてくださいよ。気色悪くてたまらないんですよ」

 俺は言うが警官はベッドの上と俺を交互に見るだけだ。

「田所さん。あなた病院への通院歴は?」

「は? ないですけど」

「なら、なにか薬物をやってるってことは?」

「な、なんのことですか。俺は清廉潔白の経歴の持ち主です。そんな恐ろしいことするわけないでしょう」

 俺の人生は真面目なものだ。横断歩道だって青以外で渡った試しはない。いや、田舎の横断歩道で面倒だから赤で渡ったことはあったか。だが、それ以外俺は決して後ろ暗いことに手出しなどしていない。なのになんだこの警察官たちは。その目付きは明らかに俺に対して疑いを持っているものだった。

「あのね田所さん。申し訳ないけど私たちにはベッドの上にじいさんなんて見えないんですよ」

「え...?」

「私たちにはこのベッドはただのベッドにしか見えないんですよ。だから、私たちはそのあなたが見ているじいさんをどうにかすることなんてできないんです」

「そ、そんな。確かに居るんですよ。今そこに!!」

 俺はじいさんを指差す。じいさんは俺と警官を交互に見るとなんとため息をつきやがった。面倒そうに。俺は腹が立った。

「なんだ! その表情はなんだ!! ここは俺の部屋なんだぞ!!!」

 じいさんに向かって喚く。警官たちはそれを見て一瞬怯えたような表情を浮かべた。しかし、それから意を決したように俺を睨み、そして俺の手を掴んだ。

「田所さん。署までご同行願えますか?」

「な、なんでですか! 俺はなにもやっていない!!」

「すみません。一度検査を受けていただきたい。あなたはドラッグをやっている疑いがあります」

「やってないって言ってるでしょう!! 離して、離してください!!!」

俺の要求も空しく二人の警官は俺の両手を掴んで部屋の外まで連れていく。二人の警官は俺を頭のおかしい薬物中毒者だと信じて疑わないようだ。俺は抵抗すれば逆効果なように思われ仕方なく従った。ちらりと後ろを振り返るとじいさんが明らかな嘲笑を浮かべながら小さく手を振っていた。

「な、なんだ....。なんなんだお前は!!!」

 俺は叫んだ。警官二人に制されるが俺はじいさんを有らん限りの憤怒を込めて睨んだ。



 薬物検査は当然のようになんの反応も無く、事情聴取もやはりこれといった問題もなく終え俺は自分の部屋の前へと戻ってきた。もうとっぷり日が暮れあたりは真っ暗だ。警察は俺に病院へ行くことを進めたが無視だ。俺は頭がおかしくなってなどいない。全然ノーマルなのだ。仕事だって問題ないし、日常で発狂しそうな苦痛を味わうことだってない。頭がおかしくなる要因なんて無いのだ。

 俺はドアの前で深く息を吐く。この向こうに待ち受けているものへの覚悟を決めるためだ。まだ居るのか、ひょっとしてもう居ないのか。俺は居ないことを心から願った。そしてドアを開けた。

「やっぱりダメか...」

 俺はがっくりと肩を落とした。やはりじいさんはベッドの上で杖を突いて座っていた。やはり何をするでもなく帰宅した俺を見てきた。

「お前はなんだ」

 俺は声を落としてじいさんを睨む。

「お前はなんなんだ!」

 俺は叫ぶがじいさんはやはり動じない。ぽりぽりと頬を掻いている。

「くそっ!!!」

 俺は急いで靴を脱ぎ部屋に入るとじいさんに掴みかかった。そして、思いきり引っ張る。警察は無力だ。もはや自分の力でどうにかするしかない。俺はじいさんを腕力でもって部屋から追い出すことにしたのだ。

「くそっ!! くそっ!!!」

 しかし、じいさんは動かなかった。まるで巨大な岩塊のようだ。どれだけ力を入れてもビクともしない。俺は全身全霊でじいさんを引っ張り出そうと試みた。腕を回して背負い投げのように全身で力を込める。動かない。引っ張ってダメなら押してみる。しかし、やはり動かない。その後もいろんな角度から様々な力を加えたがやはり動かない。終いにベッドの上から思いきりドロップキックをかましたがやはり動かなかった。

 そこでようやく俺は思った。改めて言った。

「お前はなんなんだ」

 じいさんは明らかに普通のじいさんではなかった。じいさんはあくびをひとつかました。



 それからはずっとじいさんと共に生活するはめになった。

 翌朝、俺は祈るように目を開けた。そもそも前日就寝する時から実に難儀だった。じいさんが座っているベッドで寝る気にはとてもなれなかった。なので、俺は押し入れからものを出し、つっかえ棒で簡易的に鍵をかけて眠ったのだ。そして、起きてみてもやはりじいさんはベッドの上に座っていた。

「なんでだ!!!」

 俺は叫ぶ。朝っぱらから頭に血が昇った。現実を受け入れられなかった。

 とにかく俺は仕事に行き、憂鬱な気分で仕事をこなしまた帰宅する。やはりじいさんは居る。

「どうしてだ!!!」

 俺はまた絶叫する。

 そして翌朝もじいさんは居た。また、仕事に行って帰宅してもやはりじいさんは居た。その繰り返し繰り返しだった。俺は気が狂いそうになりながら毎日をなんとか過ごした。部屋に得体の知れないじいさんが居るのだ。そんな生活が果たして想像出来るだろうか。どれだけ恐ろしいことか分かるだろうか。俺は少なくとも想像したことなどなかったし、他人だったらその恐怖が分かるはずはない。しかし、俺は今当事者でとにかく頭がおかしくなりそうだった。

 本当に病院に行くべきなのか悩んだ。引っ越しをしようかとも考えた。しかし、自分はやはりまともだと思うし、引っ越しするにはまだ貯金が十分ではなかった。俺は仕方なくじいさんと向き合うしかないのだった。そして、このじいさんをなんとか追い出せないか、このじいさんが何者なのか、その方法と探求に頭を巡らせていた。

 俺は毎日うんうん唸りながら考える。そんな俺を尻目にじいさんはのんびり鼻を掻いている。



 日曜になった。じいさんが現れたのが丁度月曜だったので6日が経過したことになる。俺は昨日の晩、この狂った一週間をなんとか乗り越えた自分を称え、したたかに飲んでいた。居酒屋で刺身やら揚げ豆腐やらを食べながら熱燗を飲んだ。それから帰ってきてやっぱりじいさんは居たのですぐに酔いは覚めたのだがとにかく俺は押し入れで寝て、そして今目が覚めた。

「.....」

 俺はじいさんを睨んだ。じいさんはそれに視線で応じてきたが別に敵意は無い。そしてあくびをした。俺はぶちギレそうになったが自分をなだめた。ここで怒りを爆発させても意味はない。今日は休日。行動を起こすにはこの上無い。俺は今日一日を使い、ありとあらゆる手を使ってじいさんを追い出そうと決めていた。そのための道具も買いそろえている。戦いの始まりだ。

「ええい!!」

 俺はじいさんを縄で縛り上げた。ホームセンターで買った60mの縄。短いサイズが無かったため決して安くはない金額を出して買った縄だ。俺はそれで思いきりじいさんを引っ張る。しかし、動かない。相変わらずの異常性だ。しかし、こんなものは想定の範囲内でしかない。

 次だ。俺はまたホームセンターで買ってきた決して安くはない1m以上あるバールを手にする。そしてベッドとじいさんのケツの間にねじ込み思いきり力をかけた。テコの原理でじいさんを持ち上げるのだ。しかし、やはりビクともしない。ここも予想通りだ。

 次だ。俺はじいさんを動かすのはやはり不可能だという結論に至った。熱湯をかけたり刃物で斬りつけるなどの方法も考えてはいた。しかし、やはりあまりに非人道的であるように思われた。じいさんは明らかに人間ではないが何らかの意思を持っている。そういう人型のものに暴力的な手段を使うのは良心が咎めたのだ。もうじいさんを動かすことは諦める。なのでじいさんが乗っているベッドをどうにかしようという結論に至ったのだ。

 この方法はこの一週間でもいくつか試した。しかし、動かそうと思ってもじいさんの重みのせいなのかさっぱり動かなかった。なのでもう俺はこのベッドを諦めることにしたのだ。俺はノコギリを手にする。そして、ベッドの枠の部分に刃を入れた。ギコギコと動かす。

「おお...」

 俺は感嘆の声を漏らす。刃が通っている。つまり、ベッドを破壊することが出来るということだ。木製ベッドにしたことにこんな形で感謝する日が来ようとは思ってもみなかった。金属製だったら分解するのに恐ろしく手間取っていたことだろう。俺はベッドの下に台車を入れる。こうすれば乗っているじいさんの部分が倒れてくれば台車に乗っかり、そのまま押して外に出せるというわけだ。

 俺は作業を続け、布団を持ち上げながら枠を切断していった。そして、丁度真ん中を両断することに成功した。俺は思いきって引き抜く。

「ああ....」

 俺は愕然として声を漏らした。真っ二つにしたベッドの片方、俺が持っていないじいさんの乗っている方はまるでじいさんが支柱になっているかのように倒れることなく立っていた。

 俺は残念な気分になりながらじいさんの回りを丹念に切り取っていく。しかし、やはりどれだけ切ってもじいさんがバランスを崩して倒れることは無かった。とうとうベッドは足まで切り、じいさんのケツの部分しか無くなってもじいさんは空気椅子をするように平然と鎮座ましましていた。そこに俺は台車に乗るように力をかけるが当たり前のようにビクともしなかった。作戦は失敗だ。

「くそぅ...」

 俺は作業を終え汗の流れる額を拭いながら言った。悔しくて堪らない。見ればもうずいぶん日も傾き夕方だ。丸一日試行錯誤を重ねてもじいさんを外に出すことは叶わなかったのだ。

「くそっ」

 俺は再度言う。どうやらじいさんを外に出すことは到底不可能であるらしかった。俺はうつむいた。

 そんな俺の前でじいさんは本当にうんざりしたように大きくため息を吐いた。

「なんだお前は!!!」

 俺は絶叫した。



 それからは成す術もなくじいさんとの同居生活が続いた。憂鬱だった。毎日気が狂いそうだった。家に来た母親に思いの丈をぶちまけて狂人扱いもされた。寝るのは変わらず押し入れだ。毎日が陰惨としたものだった。

 しかし、人間とはたくましいもので一月もしたら俺はじいさんとの同居生活に慣れてしまっていた。実際じいさんは不気味ではあったが何日経っても何が起きるわけでも無かった。じいさんは時々あくびをしながらただたたずんでいるだけだ。声を出すこともなく立ち上がることもない。一度寝ずにじいさんを監視した一日があったがずーっと座っているだけだった。つまり、このじいさんは不気味だが実害はまったく無いのだ。居心地の悪さはあったが俺はじいさんが居ても平常心を保てるようになっていた。悲しいことに仄かに愛着心まで沸き始めていた。仕事に失敗し、怒られ傷心のまま家に帰ってじいさんがあくびをしているのを見ると吹き出してしまった日もあった。危険な兆候だったがずっと臨戦態勢で居るのも疲れるのだ。どこかで俺はじいさんを受け入れつつあった。

 そうなってくると疑問が浮かんでくる。今まではどうにかじいさんを外に出せないかということばかりに頭が行っていた。じいさんは敵だったのだ。しかし、いざ受けれつつあると思うのは一体このじいさんは何者なのかということだった。なんども意識せずに叫んでいたことだがやっと意識出来た。

 人間でないことには間違いない。しかし、現れたのは唐突だった。なんの予兆も無かった。一体どうしてこのじいさんは俺の部屋にこうやってたたずんでいるのか。なんの目的があるのか。このじいさんはどういう意味を持った存在なのか。俺はそれについて考えるようになっていた。

 ネットで『じいさん 謎 出現』で調べてみる。当然のように目当ての検索結果は出はしなかった。もはや、自分でじいさんの正体を確かめる他無い。

 しかし、確かめるとは言ったものの一体どうすれば良いのかは分からない。

「あなたは一体何者なんですか」

 ある日、俺は努めて丁寧でへり下った言い方で聞いてみる。しかし、じいさんはやはりなにも言わない。俺の右斜め上に向かってあくびをしただけだ。

 じいさんは言葉を話さない。つまり本人から聞き出すことは出来ない。

 俺は改めてじいさんが現れてからの今日までのじいさんの様子を思い出してみる。何らかのパターンでもあれば手がかりになるかもしれないと思ったのだ。しかし、頭をひねって現れてから今日までのことを思い出してもなんの参考にもならなかった。じいさんの様子は現れてからずっと何も変わらないのだから。ずっとのんびりした様子であくびをしているだけだ。公園に居れば暇なじいさんにしか見えないだろう。なんの法則性も意味もじいさんの様子には存在していなかった。

 手詰まりだった。俺はもはやじいさんが何者であるかの手がかりを掴めるとは思えなかった。捜査は終了である。やはりこのじいさんは謎以外の何者でもない。俺は諦め布団に潜る。押し入れのドアを閉めながらいつもと同じように空気椅子でたたずむじいさんを眺め、そして俺は眠りに着いた。



それからまた日々が過ぎる。俺は完全にじいさんの居る生活に順応してしまっていた。出ていって欲しいとは思うものの、何がなんでも追い出したいとは思わなくなっていた。実に邪魔ではあるが邪魔なだけだ。もはやこんなものだと思いながら俺は過ごすようになっていた。ハロウィンもじいさんと過ごし、クリスマスもじいさんと過ごし、年明けもじいさんと迎えた。そのまま春になり、夏が過ぎ、そうしてじいさんが現れてから1年が経過しようとしていた。



「ただいま」

 俺は言って部屋に入る。この1年で気づけば俺はじいさんに挨拶をするようになっていた。起きればおはよう、帰ればただいま、寝るときはおやすみ、だ。当然返事などありはしなかったが俺はなんとなく口にするようになり、口にするとなんだかいい気分だった。いつの間にかじいさんは俺の生活の一部と化していたのだ。

 そして部屋の電気を点ける。この1年毎日行ってきたとおりだ。そして部屋を見る。

「あ...」

 俺は漏らした。目の前の光景に納得とそして寂しさを覚えたからだ。

 じいさんは目の前に居なかった。じいさんが居た場所には壊れたベッドの一部が転がっていただけだった。じいさんは完全にこの部屋から姿を消していた。

「1年か。1年で消える存在だったのか」

 俺は言う。自分の言葉を確かめるように。思考にその言葉を意識させるように。じいさんが何者なのか。探していた法則の一つが見つかったのだ。

 しかし、そんなことはどうでも良かった。俺は安堵していた。ようやくじいさんが消えたのだと。

 そして同時に言い知れない寂しさが胸に沸き上がった。むしろ安堵よりも寂しさの方が大きかった。1年だったが、じいさんには様々な時間を共に過ごしてもらったからだ。楽しいときも苦しいときも、じいさんはこの部屋で俺の様子などまるで気にせずあくびをかましていた。謎で不気味で意味不明なじいさん。しかし、いつの間にか俺の生活の一部になっていたじいさん。最後まで何者か分からなかったじいさん。

 初めはあんなにどうにか追い出そうと思っていたのに気づけば俺はじいさんが居て当たり前になっていたのだ。

 俺は1年前、じいさんが現れる前と同じ俺だけのものになった部屋にどっかりと腰を下ろした。壁にもたれかかりゆっくり天井を見上げる。

「居なくなったら居なくなったで寂しいもんだ」

 俺は呟く。なるべく平静な口調になるように努めて。言うだけ言うがやはり寂しさは消えなかった。ただ、言っただけだった。それだけだった。

 俺はじいさんがかますあくびを思い出す。こ汚い、ぞんざいなあくび。全然癒されない不愉快なあくび。今やそれも懐かしかった。それから、じいさんと過ごした1年を少し思い返した。

「ようやく元通りだ。まったく」

 俺は自嘲的な笑みを浮かべる。それから立ち上がった。晩飯を作らなくてはならない。これからはようやくまともな生活だ。それを思うとまた嬉しくもあり、そして寂しく思った。しかし、現実は変わらない。無くなったことを嘆くほどの存在でもない。ただ、面倒が無くなって少し拍子抜けしているだけだ。そうだ。そう思うことにした。

 俺は買ってきたニラとレバーでレバニラを作り始める。

 こうして俺の狂った1年は終わった。



「あんた。最近ずいぶん調子が良いみたいだね」

 田所学に母親は言った。

「何が?」

「いや、前より笑顔が増えたと思ってさ」

「そうかな。これといって生活に変化はないけどな」

「そう。なら良かったわ」

 母親はそう言いながら学の出したお菓子をバリボリと食べる。おかきだ。海苔を巻いたやつとピーナッツが一袋にまとまっているタイプである。

「仕事の方はちゃんとやってるの?」

「うん。だいぶん上手くいってるよ。こないだも上司に誉められた」

「そう、良かったわそれは」

 母親はまたおかきをひとつ口に頬張る。

 田所学はまともではなかった。彼は仕事などしていなかった。この部屋の家賃は全て実家が出していた。

 彼は生まれつき妄想癖が激しい人間だった。病気では無いと医者は言っている。現代の医療を持ってしても原因不明で、障害としての名前も付けられないとも医者は言った。学はこの世界で一番妄想が激しい人間だった。学はここまでまともに生きてこなかった。学校にも馴染めず、高校にも行けず、そしてやはり仕事にも就けなかった。学のような異常者を受け入れてくれる集団はこの世界に無かった。

 なので母親は本当に悲しかったが諦めていた。こうして学の妄想に付き合いながら彼を見守るしかないのだと母親は思って今日まで生きてきた。

「本当に良い子なんだけどねぇ」

「なんだよ、急に」

「呆れてんの。あんたに」

「なにに」

「あんたの人生」

「ひどい母親だな、まったく」

 学は腹を立てて眉をしかめた。母親はやれやれといった調子。

「平日の街歩いてるから職質もしょっちゅうだしねぇ。この前のじいさんがどうのとかの時も大変だったわよ」

 母親はまたおかきを口に頬張る。それから思い出したように「そうだ」と口にした。

「あんたが1年前に助けたおじいさん。留蔵さん。この前亡くなったそうよ」

「助けたじいさん?」

「あんたが親父狩りにあってたのを助けたおじいさんよ。あの後ご家族の方がお礼に来て、当の本人は入院中だったって話したでしょ。病院抜け出してたところを不良に絡まれたとか何とかで。その後ずっと寝たきりだったって」

「いや、分からないな。そんなことあったっけ」

「あー。平日の昼間だったからあんたは仕事中だったかもしれないわね」

「ああ、平日の昼間ならそうだろうな」

 学はその時の記憶が辻褄が合うように変化してしまっているのだった。

「また、ご家族の方がお礼に来てね。1年も前のことなんだから良い、って言ったのに聞かないんだから。その留蔵さんが最後に目を覚まして言ったんだって。『居座ってすまなかった青年。少しでも楽しめたなら良いのだが』って言ったらしいわよ。たぶんあんたのことだろうからって、伝えにいらしたんだけど」

「なんだろうな、そりゃあ」

 学はいぶかしげに表情を歪めた。

「ああ、でも。じいさんと言えば1年前から居座ってたじいさんがようやくこないだ消えたんだよ。ほんとにひどいもんだった。腹の立つじいさんだったけど居なくなったら居なくなったで寂しいもんだ」

 その言葉を聞いて母親は驚いたように目を開いた。

「え? 消えたの?」

「うん。いきなりな。はた迷惑なじいさんだった」

「詳しく聞いてなかったけどそれってどんなおじいさんだったの」

「教えようとしても聞いてくれなかっただけだろ。なんていうかこう、時代がかった服装のじいさんで貴族って言うか紳士って言うかそういう服装のじいさんだよ」

「なんてこった。留蔵さんじゃないの...。そんな...本当の話だったの...」

 母親は手を会わせて祈った。

「何やってんだよ」

「感謝してるの。留蔵さん、あんたにお礼するためにあんたを見守ってたんだわ」

「何言ってんのか良く分かんないけど、とにかく邪魔だったぞあのじいさん。感謝の気持ちなんて感じられなかった」

「留蔵さんひょうきんな人だったらしいから。捻った感謝の仕方だったんでしょう。ああ、ありがとうございます留蔵さん...」

 母親はそう言って手を合わせ続けた。

「何が何やら」

 それから母親ははぁ~、とため息をつきまたおかきとピーナッツを頬張る。

「あんたから現実の話聞いたの久々よ」

「何言ってんだよ本当に。まったく、明日仕事なんだよ。そろそろ帰ってくれよ」

「はいはい。分かったわよ」

 そう言って母親は残ったおかきを流し込み、それからお茶を啜った。学はそれを見て困った母親だ、とため息をつくのだった。



 それから三月が経った。

―ガチャリ

 俺は鍵を開けて部屋に入った。仕事帰りである。今日も実に疲れた。残業になってしまったのだから。夜道を家に帰ってビールを飲むことだけを支えに人気の無い道をトボトボ歩き、俺はようやく部屋にたどり着いたのだ。これから宴だ。ビーフジャーキーなど各種つまみと共に良いビールを盛大に飲むのである。

 俺は部屋の電気を点ける。これからが楽しい時間だ。

「.....」

 俺はそれから固まってしまった。目の前の光景に我が目を疑ったのである。

「なんでだ....」

 俺は漏らした。

「くそっ!!! なんでなんだよ!!!!」

 俺は叫んだ。

 目の前にはじいさんが居た。俺が再びかった10万の金属製ベッドの上に鎮座ましましていたのである。

 じいさんは忌々しいことに嘲笑を浮かべながら俺に手を振りやがった。

「くそがっ!!!」

 俺はじいさんに掴みかかる。しかし、やはりじいさんはビクともしない。何をしても動きそうにない。くそったれだ。

「なんでなんだよ!!! お前は!!!」

 俺は憤怒を込めてじいさんを睨み付けた。

 こうしてまた、忌々しいじいさんとの同居生活が再開された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鷹揚自若のじいさん @kamome008

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る