それって告白ですか?
ある冬の日、樋口とルルは一日外回りをしていた。雪がちらつく夕方の街灯の下で、樋口がつぶやいた。
「今日はこのまま直帰しようか。」
「はい。」
もう今日はお別れか。ルルは小さく返事をした。その時、身に覚えのある温もりがルルの肩に伝わった。樋口の手だった。
「もし美空さんさえ良ければ、俺おごるからご飯食べてから帰らない?」
いたずらっ子のような目を輝かせて、樋口はお酒を呑むジェスチャーをした。にっこりとした、樋口のまぶしい笑顔。
「はいっ!」
ルルも思わず表情が緩んだ。
クリスマスが近づくイルミネーションに飾られたこの街に、恋人でもない男女が急遽ロマンティックな食事ができるほどの空席はなかった。5,6軒当たってやっとで、雑然とした大衆居酒屋に入店することができた。
「本当にごめん。こんな汚らしい店で!」
おしぼりで手を拭きながら、樋口は小さく胸の前で手を合わせた。樋口と一緒であれば正直どこだっていい。ルルはにっこり微笑んだ。
このおつまみはいいね、あの店は美味しいよね、行ったことある?なんて他愛もない世間話をしながら、ビール3杯を飲み干し、皿に残り1個になった鶏軟骨を箸でつまむと、樋口は追加でビールと手羽先を注文した。
「ビール2つ、あと、手羽先1皿お願いします!」
店員に向かって挙げた手のひらを、樋口は急に振り下ろしながらルルの前に向けて指さした。
「そうだ!暴露大会しよう!」
ほんのり赤い樋口の頬が、くしゃっと崩れる。
「俺ね、実はバツイチなんだよ。」
急にどうした。ルルは思わずむせてしまった。咳き込むルルなどおかまいなしに、樋口はにっこり笑った。イェホンと咳払いをすると、ルルは深呼吸をしてから口を開いた。
「それは、聞いたことあります。」
「まじか~!やっぱりどこに行っても情報って早いものなんだなぁ。」
自分の差し出したカードのあまりの手ごたえのなさに、樋口は頭をかいた。
「美空さんは?職場の人に内緒にしている秘密とかってあるの?」
「え・・・あの ― 。」
あなたが好きですなんてさすがに言えなかった。
「休みの日は、インターネットでよく動画見てます。それで一日潰れちゃうこともあったりして。干物ですよ、基本的に。」
とっさに出てきた秘密がこれかよ。自分の言ったことのあまりの内容と色気のなさに、ルルは自分を呪った。何かある?って言われても、何も出てこなかった。
頭の中は、樋口のことでいっぱいだったから。
「そんなの秘密のうちに入るの(笑)。」
ひゃははと手を叩いて笑う樋口。手は相変わらず大きくて、温かそうだった。よくよく見れば爪もきれい。上品な指先に、ざわりと胸が騒ぐ。
「俺さ、逃げてきたんだ、東京に。」
ビールと手羽先が運ばれてきた。樋口は店員に「ありがとう」とまた手を挙げた。この人懐っこい笑顔に、ルルはいつだって心をくすぐられる。
「俺、この会社入ってすぐに結婚したんだ。でも、若すぎたんだよね。嫁さんとは学生時代から付き合ってて、『就職するまで待ってて』って、勝手に妙な責任感で期限を決めてたんだ。嫁さんはもともとすごく寂しがり屋で頼りない人だったんだけどさ、結婚して数年で子供が産まれた。そしたら嫁さん、急にすっごくたくましくなったんだよ。やっぱり女の人って子供ができれば本当に強くなるんだって、初めて実感した。」
樋口が新しいジョッキのビールを流し込む。
どうして私に、こんな話をするんだろう。ルルは戸惑った。
「それでも子育ては父と母2人でやるものだからさ、いつだって俺は協力しようと思って声かけたんだ。『大丈夫?何か俺にできることある?』って。でも嫁さんはいつだって『大丈夫』って答えたんだ。笑顔で言われる日だってあった。だから本当に、強くなったな、すごいなって思ってたんだ。そう、信じてた。でもね。」
樋口から急に表情が消えた。
「何一つ大丈夫じゃなかったんだよ。ある日、嫁さんが子供を連れて家を出て行った。理由は、子育てや家事に何一つ協力してくれない、父親としての自覚もない、夫婦として、あなたと両親としてやっていく自信がもうないって。手いっぱいだったって。俺は、毎日のように『大丈夫?』って声をかけた。気にかけたんだ。だけど、その『大丈夫?』っていう問いは、すごく残酷だったのかなって思った。気に掛けるだけじゃダメなんだよね、強がるしかないんだよ、母親って。絶対に弱音を吐けない立場なんだ。重圧と闘っているんだ。そう思った。『大丈夫?』なんてそんな悠長に聞いてないで、自分の頭で考えて、嫁さんの苦労を想像して、実際に行動に移さなかった自分が悪かったんだなって。」
樋口は、スーンとため息をついて手羽先に手を伸ばした
「でもさ、俺もう女の人が分からなくなっちゃって。あんなに笑顔で、『大丈夫』って返されて、それが全部裏返しだって思ったら、俺怖くなったんだ。その時はどんな平和な態度とられていても、後からまた実はこうじゃなかったんだって手のひら返されて逆上されるんじゃないかって、怖かった。娘のことは可愛かったさ、もちろん。何度も別居したり同居したりを繰り返したけど、結局俺はもう嫁さんとは一緒にいられなかった。とっくに終わってたんだよな。もうさ、怖くて。」
― 怖くて。―
どんな相手にも卒なくコミュニケーションをとれる完璧な樋口の、見てはいけない部分を見たような気がした。ルルの胸の中で、心臓がダギンと鼓動を打つ。
「前住んでいたところは、結構な田舎でね。離婚した後でも、町中のスーパーで嫁さんと顔を合わせるなんてしょっちゅうなんだ。それくらい狭い社会だから、なおさら会社にはいづらくなるしさ。もう俺、本部に直接、遠方に、できれば人がたくさんいる都心の方に飛ばしてくれって異動願いを出したんだ。そしたらここに来た。こうして美空さんに会えた。これって運命だよね。」
「え?」
今の空耳?運命って。
「俺さ、美空さん見てて、本当救われたんだよ。美空さんってさ、困っている時には困ってる顔するし、おなか減っている時にはすっごく物欲しそうな顔するし、嬉しいときは心から笑ってくれるじゃない、こういう女性もいるんだなって。女性に対する恐怖心を克服できそうな気がして。今日だって、こんなに外が綺麗なのに、みすみす家に帰るのがすごく惜しそうだったから、誘ったんだよ。迷惑だったかな。」
樋口が、またカラッと晴れた笑顔に変わる。いじらしい笑いを見せる口元に、ルルの心臓の鼓動はコトコトと高まる。図星。この人には、何もかも見抜かれている。
え。
ルルは急に我に返る。これってもしかしたらもしかして、遠回しに告白されているんじゃないか。いけるんじゃないか。脈ありなんじゃないか。樋口の真っ直ぐな笑顔が、自分を口説いている男のそれとイコールのような錯覚がした。ふふふんと込み上げてくる笑いをビールで飲み込んで、ルルは口を開いた。
「迷惑なんかじゃないです。でも、そんなに私って物欲しそうな顔ってしてますかあ?」
ルルはわざと頬をふくらませた。ごめんごめんとケタケタと笑う樋口に、ルルはもう一手勇気を出した。
「秘密ってほどでもないんですけど、私今彼氏いないんです。」
「うん、それは知ってる。じゃなきゃごはんなんて誘わないよ。」
「クリスマス空いてるんですけど、今日行けなかった系のオシャレなお店、チャレンジしませんか。もし、樋口係長が予定がなければ、ですけど。」
少し間が開いて、樋口がまたにこっと笑う。
「いいよ。ルルちゃんが行きたいお店あるの?」
― よっしゃ、始まる。 —
踊る心を抑えながら、ルルは「はいっ!」っと笑った。
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