恋に落ちたルル

 樋口との出会いは、今年の春。樋口は地方支社からの異動で、ルルの部署へ係長として配属された。40代独身。バツイチとも噂されていたが、本当のところは誰も知らなかった。配属されたばかりとは思えないほど樋口の仕事ぶりは精力的で、部下への気遣いも忘れない、完璧な上司であった。内気ではっきりとものを言えず、プレゼンや交渉の場面に弱いルルもまた、樋口に助けられた一人であった。

 ある夏の日、取引先とトラブルになり、電話口でルルは狼狽していた。受話器を握る手には汗がにじみ、血の気が引いて、口はどんどん乾いていく。気の利いた言葉が何も思い浮かばず、「申し訳ございません」を繰り返すしかなかった。

その時、ルルの隣にそっと樋口が現れた。指をくるくるさせながら、にっこりと笑いかける。『電話、替わるよ』の合図。なんとか頃合いを見て樋口に代打を引き受けてもらい、事なきを得た。

 樋口の電話が終わった後、情けないやら悔しいやらで涙目になるルルを、樋口は一言も責めなかった。

 「あの人、ちょっと変わってる人だから。気にしなくていいよ。こういう電話ならいつでも頼って。」

それから、ルルにとって樋口が特別な存在になるには、時間はかからなかった。完璧な上司。この人のために私は働きたい。ルルは久しぶりに人を心から信頼し、尊敬した。樋口のためなら、多少なりとも無理もした、残業もいとわなかった。働くことが、苦ではなかった。部下を適切にケアし、その気にさせるスペシャリスト、樋口。社内でも彼の評判は上がっていた。


 ある秋の日。プレゼンを終えたルルと樋口は廊下を歩いていた。ルルが何度も持ちますと言っているのに、樋口は大量のファイルを腕に抱え、ルルには紙フラットファイル1冊しか持たせなかった。こういうところも本当に素敵だな、ルルはそう思いながら樋口の横顔を見た。

 「樋口かかりちょ~ぉ!」

ふと後ろから声がした。樋口が振り返ったその時、抱えていたファイルのバランスが崩れ、どさどさとルルへ向かって降りかかってきた。

 「ひゃっ」

ルルは驚いてそのまま後ろに倒れこんだ。

 「美空さん!」

真っ青になった樋口はルルをすぐさま抱え、立ち上がったルルの足を一心不乱にさすった。

 「あ、大丈夫です、びっくりしただけです。」

 「若い娘さんに傷なんてつけたら大変だ。本当に大丈夫?本当のこと言って!指の骨とか折れてないよね⁉」

 幸い、ルルの足はかすり傷ひとつなかった。尻もちをついた衝撃でじんわりとまだ尻に痛みはあるが、それだけだった。樋口があまりに慌てた顔をして自分の足をさすっている。こんな表情を見るのは初めてだった。そして、想像以上に手が大きく、温かかった。

 「本当、大丈夫なんで。」

情けないわけでもなく、呆れていたわけでもない。だけど絶対に不愉快ではない妙な気分が込み上げてきて、ルルは樋口から目をそらした。その時、

 「樋口係長、いくらなんでも焦りすぎ(笑)。傍から見たらセクハラになっちゃいますよぉ~!ルルちゃん本当に大丈夫?」

 樋口に後ろから声をかけた同じ部署の月嶋ユイカだった。ルルの1年先輩で、ルルをとても可愛がっている。

 「ああそれはまずいな。ごめんね美空さん、転ばせた上にベタベタ触って。でも本当、痛みがあったら言ってね!」

樋口の手が離れた。

ルルは少し寂しい気がした。


 樋口の手の温もりを知ってから、ルルの目に映る樋口は、もはやただの上司ではなかった。樋口の声、樋口の笑顔、樋口の横顔、樋口の後ろ姿、樋口の今日のスーツの色、樋口の今日のネクタイ、すべてが毎日気になって、目で追いかけた。

 ルルは樋口に恋をしていた。

 尊敬が愛に変わる瞬間。それは男と女であれば、とてもたやすいものであった。樋口のおかげで保っていた仕事への熱意が、すべて樋口本人に注がれるようになった。もちろん今まで通り働いてはいたが、ルルは、樋口と同行できる仕事にはすべて手を挙げるようになった。樋口とずっと一緒にいたかった。

 また、樋口に触れてほしかった。

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