謳って~リアルで撃沈したOLが歌い手と結ばれるまで~
しょくぱん
プロローグ
― あの夜は、何もなかったんです。―
さっきまでのテレビが無音になった。ハッとして時計を見ると、夜中の3時を回っていた。ひんやりと沈む暗い部屋の中で、放送を休止したテレビと、スマホのメッセージ入力画面だけが煌々と光を放っている。
もう何時間こうしていただろう。美空ルルはふと我に返った。涙と鼻水とよだれでブラウスの裾がファンデーション色に鈍く黄ばんでいる。ちゃんと鏡は見てないけど、おそらくひどい顔をしているだろう。じんと熱を持つ瞼に、再び涙腺がうずく。
久しぶりに、しっかりと失恋してしまった。
数時間前、ルルは一人の男の泣き顔を見ていた。自分のために涙を流すには、あまりにも完璧な人。職場の上司―樋口幸太郎である。
このままじゃいけない、こんなに泣き腫らしていたら、明日職場で樋口と顔を合わせられない。駄菓子屋で量り売りしている飴玉をそのまま目に突っ込んだようなゴロっと重たい瞼を冷やしに、洗面台へと立とうとした時、ピコンとスマホが光った。ネット動画配信サイトの大手配信者、ラストケンジの生配信の通知だった。
「こんな時間に、珍しい」
ラストケンジは、職場の仲のいい先輩から紹介してもらった。休日に暇つぶし程度に見てはいたが、樋口に恋をしてからは、サイトへのアクセス自体、すっかりご無沙汰になっていた。
『みんな!こんな時間にごめんね!実は、以前に告知していたラストケンジの歌い手プロデュース企画、ちょっとした手違いで、変更になります!でも、嬉しい変更!オーディション合格枠を、1名から3名へ増やすことになりました~!我こそは歌声に自信があるというそこの貴方!イケメンじゃなくても、美人じゃなくても、僕たちは完全実力重視です!顔出しNGさんでも、声さえ公開できれば問題ありません!詳細はSNSにも公開します!僕たちと一緒に夢をかなえませんか!公開オーディション日は、3月10日です!』
涙腺が埋め尽くされて、鼻もかみすぎて、呼吸のひとつひとつに鼓膜もぼんやりと揺れる中、ラストケンジが何を言っているのか理解できなかった。でも、確実に言えることは、からっぽになった今の自分には、今後もこの人の動画が必要なんだろうな、ということだった。
「明日からまた見るね。バイバイ。」
ルルはそっと配信画面を閉じた。
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