第五章 あさもやけぶる

 自分の吐く息が見える。たったそれだけでも存外面白いもので、繰り返し白い靄を作ってしまう。一回、二回と、視界をけぶらせるそれで戯れる。

 強い揺れを感じて少女は我に帰った。

 荷馬車の幌から顔を出す。

 どうやらまた車輪がぬかるみにはまってしまったらしく、これを取り出そうと皆躍起になっているのが見えた。

 引っ込んだにもかかわらず冷たいままの首から上を手でもみながら、彼女は膝元で動く気配に気がついた。

「どうしたの、アータ?」

「なんでもないよ」

 はだけたカュキの服を直しながら少女は言う。起きたばかりで寒かったのだろう、小さな体躯は再び毛布に包まってしまった。

 外から話し声が聞こえる。こちらの気候に合わせた馬車を見繕うべきだったかなどと後悔している様子だ。

 少し遠くへ視線をやると、色が褪せてしまったかのように生気のない景色に、どこまでも轍の跡が続いていた。


 

 長い長い草原での旅の末にたどり着いたのは、大勢の人で賑わう港町であった。商隊長はムスタと呼んでいたが、人によってこの地の名前は異なるようで一貫した呼び名はないように思えた。

 一時期は有数の港町として栄え、名前のつくものは全て手に入るような場所であったらしい。

 だが少し前に新たな港町が近くにできた影響で寂れていく運命にある町とも説明された。ならばなぜこちらに寄ったのかを問うと、こちらの方が顔なじみが多いのだと。

 信用を商売にする者はなかなか生きづらそうである。

 列をなした馬車が指定の場所へ停まると、すぐさま荷卸が始まった。

 文字通り山のように逞しい男衆が荷箱を軽々運ぶ姿に、少女は目を奪われた。

 アタグの生まれ育った村でも普段力仕事は男がやるものであったが、彼らが束になってかかろうとこの地で働く者一人にさえ敵わないだろう。

 邪魔にならぬよう端でカュキとともに小さくなっていると、狗が手配した宿に追い払われてしまった。

 気がつくと、少女は寝床で横になっていた。すっかり寝入ってしまっていたらしい。記憶の限りでは一緒にいたカュキの姿も見当たらない。ただ静かに灯る明かりが、部屋の中を照らしていた。

「起きたか」

 声がした方を向くと、狗が例のごとく書物を読んでいた。

「カュキは商隊長が連れて行ったよ。二人とも長旅が応えていたのだろう。タルモが呼びに行った時には揃って寝息を立てていたそうだ」

 おもむろに狗が手を伸ばす。その先にはどうやら水の入った瓶があった。

「しかし、女子二人でそれは不用心だな。今後気をつけろよ」気まずい顔で水差しを受け取る。

 井戸から引いてきたばかりなのか、冷たいそれは乾いた喉にとても心地のいい物だった。

「どれくらい、寝ていましたか」

 しばらくして、少女は沈黙に耐えられなくなった。

「なに、昨日ここについた時には既に夕刻だったからな。度を越したものではないさ。もうじき朝日が昇るだろうよ」

「そう、ですか」喉が潤うと、途端に強い空腹を感じた。

「腹が減った顔をしているな。忙しない奴だ」

 意地の悪そうな目をした狗が言う。

「ほら、旅装の残りだ。後で特別に朝餉を摂ろうじゃないか。久々にまともな物を食べてもいい頃だ」

 アタグが干し肉をしゃぶっていると、狗が静かに書を閉じた。黙って何かを考えている様子である。

 自分で気がついているのかは知らないが、この化け物は考え事をするとき、首元を撫でる癖がある。時折こうした仕草をしているのを、少女は細かく観察しているのだった。

「それとな―」

 その輝く青い瞳を、部屋の隅に溜まる漆黒に向けたまま狗が口を開いた。

「ああ、口は忙しくしていて構わない。ただ今後の旅にも関わることだからな、お前に話しておきたかったんだ」

 しばらく間を置いて、落ち着いた声音で化け物は再び言葉を繋げるのであった。

「カュキ―そう、あのお前が仲良くしている、商隊長の娘のことだ。あの子だが――もうすぐ死ぬ運命にあるのだ」



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獣二と一つ物語 尾巻屋 @ruthless_novel

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