第四章 かしとさいのめ

「わかった、これだ」

 長いこと頭をさすっていた手が、三つ並べられた椀の一つを指差した。指された椀の向こう側で、にやりと笑顔が生まれる。

「本当にそれでいい?」笑顔の主が尋ねた。

 ごくり、と唾を飲み込んだあとに「いい」という声がした。

 椀が持ち上げられる。

その下には―何もない。

「またまた私の勝ち」そう言いながら、残り二つの椀が持ち上げられる。指された椀と正反対のものの下に、蜂蜜菓子の欠片が転がった。

「おっかしいなぁ、今度こそ勝てると思ったのに」

 自ら指差した椀を頭上で傾けながら少年が言う。

「すごいやすごいや、アータ。これでもう十連勝だよ」これまでの勝負をずっと側で見ていた少女が言った。まだ幼く、生え揃わない前歯ではしゃぐ彼女を抱えながら、アータと呼ばれたもう一人の少女が意地悪そうに言うのだった。

「その勝てると言う自信が仇となるんだよ、タルモ」

「なんだよそれ。また先生の受け売りか」少年は手に持った椀に水を注ぎながら漏す。

「その受け売り屋に勝てるようになってから文句を言ってちょうだいな。ねぇ、カュキ」

「そうだよ、にいちゃん」約束の取り分をアータの勝ちから受け取りながら、小さな顔が笑った。

「いつからそんな性悪になったんだか」

 笑う二人の傍らで、タルモは深いため息をつくのであった。

 

 勝負で手に入れた菓子を袋いっぱいに詰めて少女が帰ると、その人物はあいも変わらず一人で書を読んでいるのだった。

「先生、戻りました」小さな声で語りかける。

「ああ。おかえりアタグ」穏やかに返事をして、人物が顔を上げた。

 小さな焚き火の他、明かりの何もない暗闇でもその姿はしっかりと眼に映る。

 燃え上がるような赤色の髪に、首まで覆った真っ黒な装束。そして神々しい輝きを放つ青色の瞳。

 かつて山の化け物として恐れられ、その頂上に封じられていた存在―『狗』である。

「しかしまだ先生か。慣れぬな、その呼び方は」

「そう呼ぶようになってから大分経ちますよ。狗なんて呼びにくいので慣れてください」

 火をつつきながら、アタグが言った。

「ふむ―そうか。そうだな」そうして狗は文字を追うのに戻ってしまった。


 二人が旅立ってから実に三年もの月日が経っていた。村々を転々とし、道の途中で眠り、旅の中で生きる内に、アタグも多感な時期の娘へと成長していったのだった。

 旅の目的は二つ。母から託された手紙の地へと到達すること。そして、それまで生き残ること。母の犠牲を無意味なものにしないために。

 焚き火からのぼる煙が闇に紛れていく様を見つめながら、少女はこれまでの旅路を振り返るのだった。

 手紙に記されていた目的地は、アタグの生まれ育った村から山を越え、海を越え、はるか西へと渡らなくては辿り着けぬ異国であった。神々から力を授かる王が統べ、各地の商人と貴族が集い、黄金と光に満ちるというその国の名は―トワ。

 神秘と黄金の国トワである。

 物語や書の中で読んでは夢想していた頃を思い出す。過去の自分に未来、トワを目指すなどと言ったならばどんな顔をしただろうか。まず母親を残すなどという考え自体耐えられなかったことだろう。

 焚き火の中で小枝が弾けた。緋色の粒が宙を舞う。火の周りと対象的に、闇の向こうで黒く染まる草原と丘の数々を見た気がした。

 遠くまで来たつもりでいたが、狗が言うには未だ半分も消化しきれていない。長い長い道のりの途中。いくつもの山を越え、何度も船を乗り継いだ。その度に資金繰りをしながら、ようやく対岸の大陸にたどり着き、今は商人隊とともに旅をしている。

 一人では不可能な旅路であった。

 村で暮らしている時少なからず感じていた、自分一人でなんでもできるという考えが間違いであることを少女は早々のうちに知ることとなった。麓の辺境で暮らす男どもが馬鹿ばかりであったからだけではない。単に知らなかったのだ。

 地平線の向こうで消えてしまう地にはその暮らしがあり、その言葉があり、そこでやり繰りする人々がいる。

 いくら強がろうとも、自分の知見の外側にあるものの方がどうしたって多い。考えてみれば当たり前だ。自らの存在一人が見聞きしているうちに、数えきれぬ程多く存在する他の人々が新しいものを日夜生み出している。それらすべてを追いかけることなど、誰にもできぬことなのだ。

 その中で狗の存在は心強いものであった。

 どんな環境であろうともこの化け物は上手く立ち回ることができるようで、幅広い知識と素早い理解を武器にこれまでアタグとの旅を導いてきたのであった。またその様子を見て多くの人間がこの奇怪な女をこう呼ぶのであった。―先生、と。そのうち少女もこれを真似してそう呼ぶことになる。

 そんな狗だが、旅の目的は不明である。

 しばらく前のことだ。不思議に感じて一度聞いて見たことがある。なぜ自分と共に旅をするのか、と。

 母の手紙にそう書かれていたからだとか、同情からだとか、そのようなものが理由になりえることはないだろう。この三年間で少女の目に映った化け物とは、そのような情とはおよそ遠い場所に重きを置く存在であった。

「ついでだ。気にするな」しばらく考えるそぶりを見せて、狗は淡白にもこう答えるのだった。普段から表情を見せることのない狗である。その時も特別変わったことなどなかった。

 だがしかし、船に揺れる遠くの景色を眺めそう言う姿から、深い悲しみを感じ取ったのは気のせいだろうか。

「夜が更けてきた。床につく頃だろう」狗が手に持った書物を閉じながら言った。

「商隊長のところに行ってくる。火の始末を頼んだ」

 傍に置いてあった得物を背に担ぎながら、彼女は軽く荷物を整えた。商隊長とは、今アタグたちが旅を共にしている商人隊のまとめ役であった。おおよそ明日の旅程を確認するのだろう。

 報酬の不一致を理由にこの商人隊は一度用心棒をなくしている。その様子を見た狗が格安で護衛を引き受ける代わりに道案内を受ける取引を申し出たのだった。

「それと。イカサマも程々にしておけよ」

 輝く蒼い目がこちらに向けられる。見せる手には先ほどアタグの勝ち取った菓子いくつかが握られていた。表情こそ見えないものの、その首巻きの向こうには意地悪そうな笑顔が隠れているに違いない。いつの間にかなくなっていた菓子袋を手で探りながら少女は思うのだった。

「くく、まだまだだな。そこにある、という思い込みが仇となった」

 手の中で菓子を弄びながら、狗が闇の中へと向かう。

 してやられた、とアタグはため息を吐く。そうしてから、その真っ黒な背中に声を掛けるのだった。

「おやすみなさい」

 今にも闇にとけそうな人型が振り返る。

「ああ―おやすみ、アタグ」

 よく響くその声は、とても優しいものであった。

 

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