第三章 さりしうつろひ
「おい、アタグ」こつりと木の幹を蹴っ飛ばして、奇怪な姿をした女が言った。
鬱蒼とした森の中。
葉と葉の間から漏れる陽から他に、光の入り込む余地はない。そんな場所だからこそ、昼間だというのにここはじめっぽく、薄暗い。
「飯を獲ってきた。今日こそは食っておくれよ、悪いことは言わぬから」
言い切らぬうちに、どさりと鈍い音がした。けもの独特の臭みが広がる。
「一昨日と昨日とで前のは食い切っちまったからな。今日は大物を獲ってきた。明るいうちに火を焚くぞ」
女が身をかがめる。天辺がどこにあるかもわからぬような大木―その苔生した根元には、丁度良いくらいのウロがあった。中を覗き込むと、そこにはまだ幼さののこる少女が膝を抱え、荷に挟まっている。
「水は―飲んでいるみたいだな。あとでまた汲んでこよう。朝餉とも昼餉ともつかぬような頃だが、とにかくもうすぐ飯だ。腹は空かせておけ」そう言うと、中を覗く影は消えてしまった。
葉がさざめく、風が通り過ぎる、そんな音がした。
牙山でのあの日。領主率いる役人の一行が母娘二人の身を狙った出来事から、およそ二日と半が経った。
一刀のもとに武士いくらかを黙らせた、称するは山の怪物―『狗』と名乗るその奇妙な女は、アタグと呼ばれる少女を抱きかかえてすぐ山の峰を駆け下りた。
枝葉はその行く手を阻む間も無く切り拓かれ、岩山、荒れる川もその強靭な脚によって翔び越えられた。風さえも追い越すようなその疾走は、またたく間に山脈を突き抜けたのだった。
人の足で十日はかかる道のりを消化した頃、日はすっかり落ちてしまっていた。
大木のウロが寝床となった顛末だ。
少女が身を震わせ、少しして荷の間をすり抜けた。
大木の懐から這い出ると、『狗』が獣を吊り下げてさばいていた。今までに見たことのない形をした刀の背に指をあてがって、器用に毛皮を剥いでいる。
アタグはつい、見入ってしまって足元に気を付けないでいた。意図せず小枝を踏み折ってしまう。
その音で気付かれたのだろうか、「何か用か?」と目の前の忙しい人型が声を発した。獣をさばく手も止めず、こちらを見向きもしないが。
少女は返事もせずにさっさと立ち去ろうとする。
「ふむ、だんまりか。あまり遠くに行ってくれるなよ」よく通る声でそいつが言う。
耳の良い怪物だ、と少女は思った。
ウロからそれほど歩いたわけでもないのに、迷ってしまいそうになる程深い森。小娘の体躯をゆうに超えて太い樹々が、その腹に苔を乗せて天へと伸びている。薄暗さに目が慣れてしまえば、そこは気味の悪さなど微塵もありはしない、神秘の場と化す。
柔らかな腐葉土の床と、木の根が為す段々が、葉の緑に染め抜かれた視界と、濡れていて冷たく、あおみを帯びて鼻腔に満ちる空気が、人の身に解し得ないような雄大さを誇っていた。
森には不思議なものが宿っているものだ。
それは、人のことなんて気にも止めないような、おっきな存在さ。だから、私達は彼らと暮らす以上、そのご機嫌を見ながら、出来るだけたのしく生きる他ないんだよ。
今からずっと昔、母と山菜狩りに行った思い出が蘇った。
少女は咄嗟に、思考の矛先を変えてしまう。棘に触れかけたような、そんな気がしたから。
戻ってくると、『狗』が火をつついていた。
「追われている身にとって、煙はできる限り隠したいものだ。居場所が知れるからな。だからこうやって、枝葉で散らされるように木の根元あたりで火を焚いちまうのさ。乾いている薪を見つけるのには苦労したが―」
そう言って淡々と支度を進める姿は、山頂の牢で見たときと比べてだいぶ雰囲気の違っているものだった。
格好は黒い羽織物と袴を身に纏い、口元も隠すように首巻を着け、燃え上がるような紅い髪は後ろで結わっている。気怠気でかつ半裸だった時と比べて、生き生きとしている今のその異質な威厳は確かに増していた。だがそれでもその眼は光を宿した蒼―変わらず神々しい美しさを保っているのだった。
「そろそろ焼けた頃だろう。どれ、齧ってみろ」
木の皮を器にして、狗が火から取り上げたばかりの肉を手渡してくる。先ほどの獣は茶色の焼肉に姿を変えたようで、獣臭さがいくらか抑えられ、代わりに香ばしい匂いを放っていた。
口の中が潤うのを感じる。先ほどまで感じていなかった空腹が一層強まった。
気づかぬうちに、少女は肉を頬張っていた。
時折不快な匂いがする気がしつつも、それは馳走に違いなかった。口の周りが、油や焦げで汚れるのも気にしないまま、肉に食らいつく。
怪し気な人型は満足気な表情でそれを見つめているのだった。
「よしよし、急がずに食え。まだまだあるからな―」と、言葉が途切れる。
「なんだ、泣いているのか」
腹が膨れたことで、その胸の虚が際立ったのか―はたまた、食事の懐かしい記憶がそうさせるのか。その幼い目から、涙が溢れ出てくるのだった。
母がもういない事実。
当たり前が当たり前でなくなる恐怖、悲しみ、悔しさと恨み。
それは、二日程度で納得出来るものではなかった。
しかし、起きてしまったことに変わりはない。まだ未熟ながらもアタグのこころがその理解を始めようとしているのかもしれなかった。
ぼやけた視界に、茶の何かが飛び込んでくる。
「食え。泣き止まなくていいから。とにかく、今は食うんだ」力強くも、優しい声がした。
少女は言われるがまま、その時は肉を食らうのだった。肉も嗚咽も一緒に頬張って、口からは出さなかった。
「最後に一度だけ振り返っておきな―少し離れてしまったが、お前の故郷に違いはない。別れくらいしてやってもいいだろう」
大荷物を背負った狗が言う。
食事から出立の準備を始めて次の日。陽が昇り始め、遠くの空が薄桃と青に染まり出す頃のことだった。
足を止め、言われるままに少女が背にかけて振り向くと、開けた光景が見えた。一瞬自分の生まれ育った里を探そうと思うも、彼女の目には違うものが写った。
山々がうねって、荒ぶっている―しかして、その厳しさの中には緑を孕んでいた。色づく空には、柔らかな綿毛の雲が散らばって広がっていた。時折吹く風の他に音はしないのに、静けさの中に激しい滾りを聞いた気がした。
吸い込まれそうになるその景色を見たまま、アタグは胸いっぱいに息を吸い込む。そうして、前へ向き直った。
下を見やる。まだそれほど使っていないはずなのに、もう汚れてしまった自分の履物がそこにあった。これを一つ前へと出せば、故郷からさらに遠のくことになる。それは、母からも離れることでもあるのだった。
顔を上げると、そこには怪しい人型。語り継がれる牙山の化物―『狗』がいた。光り輝く双眸でこちらを見つめている。
「もういいのか」
「はい」返事は早かった。
「そうか。それでは行くとしよう」
一歩、また一歩と、少女は足を前に出す。過去の思い出、母の喪失を振り払いながら。
どのみちもう里には戻れない。化物についていく自分に、この先何が起きるのかもわからない。ただし、今は他のどこかへ、他のどこかで生きなくてはならない。
その小さな背が振り返ることは、もうなかった。
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