第二章 であひとわかれ

 再び目がさめると、小屋の入り口から入り込む日が、最初に見たものよりもずっと明るくなっていた。昼、くらいになってしまったのだろうか。

 そこではっとする。

「おはようさん。良く―は眠ってないだろうな。地べたで気持ちよく寝られるようになるのには慣れがいる」

 少女が体を起こすと、先程の化物が牢の格子に背を預けて何かを読んでいた。それがどこから来たのかは、漁られた跡のある自分の荷物を見れば想像に容易い。

「失敬。すぐそこに倒れているものだから腕の伸ばせる範囲で弄らせてもらった―しかし、お前も面倒な運命にあるものだな」

 怪物が手に持ったものをぷらぷらさせて言う。どうやら文のようだが内容が読めない。少女が立ち上がろうとすると、今度は気持ち悪さのあまり尻餅を着いてしまった。

「ああ、少し休んでおいたほうがいいぞ。脱水症状と、あと恐らくは高山病を出している。荷の中にこれがあった。ゆっくり飲めよ」

 そう言うと、その女は水筒を手渡してきた。少女は受け取り、栓を抜く。

「どうせ飲まず食わずで山を駆け登ってきたんだろう。本来、人ってもんはそんなことをするように出来ちゃいない。特にこんな酸素の薄い山ではな。無理が祟ったのさ」

 先程から良く分からない言葉を連ねる女を脇目に、水を飲んで一心地つく。重かった頭が、少しは軽くなったような気がした。

「―さて、それじゃあ本題だ。と、言いたいところだが娘、お前の名は何だ」

 突然の質問に驚きつつも、少女は答える。

「私の名は、アタグです」

「アタグ?変わった名だ。まぁいいだろう。ではアタグ、この文の送り主だが―うむ。この筆跡に見覚えがあるか」女が手紙の一枚を寄越す。

 触った感触から、これが重要な書を認める際に使う紙であることに気づく。間違いなく自分の里に由来するものだ。しかし、そこに書かれている文字は見覚えの無いものであった。

「くく、そのままじゃあ分からんな。悪い悪い、どれ、裏から透かして見てみろ」

 言われた通りにしてみると、それまで読めなかった文字が途端に見慣れたものに変わる。そうして、文字の癖からそれが誰のものであったかが分かった。

「鏡文字という奴だな。全く古風なやり方だが、確かに一見読めぬものに見える。特にこの言葉の文字とは相性がいい。さぁ、それが誰の文字かわかるかな」

「母、です…母の、文字です」言い終わらぬうちに、女が手に持った紙を持ち去ってしまう。

「やはりな。ふむ、そうか―そうか」そのまま、面妖な雰囲気の女は考え込んでしまう。

 どこを見ているわけでも無いのだろうが、険しい目つきだ。薄暗がりの中にあってもその瞳には光が含まれているようで、まるで万華鏡のように虹彩のなかで形を変えているように見えた。ぎろり、とそれがこちらに向く。

「お前は本当に他人の顔を見るのが好きだな。この見てくれがそんなにも珍しいか」

「いえ、その、お瞳が綺麗でいらっしゃると思いまして」

「そんな世辞はよしておけ。化物の証だぞ」と、そこで女は咳払いを挟む。

「さて、アタグよ。お前の母が書いた文だが、これにはお前を里から連れ出せとある。どうやらのっぴきならぬ事情もあるようだ」

 その言葉によって、少女は心の傷を触れられたような気がした。最後に見た母の顔を思い出す。それはこれまで見たこともないような、恐ろしい顔だった。

「私は、昨晩に突然、母から言われたのです。もう里にはいられない。今すぐに出て行かなくてはならない。しかしその前にこの山を登り、頂上に行かなくてはならない、と。それから私たちは身支度を整え、夜に紛れて山へと向かいました」

「ほう。その母はどうした」

「道中で里の者に見つかり、私を庇ったばかりに捕らえられてしまいました―ですから、どうか、お助け下さい。嫌な予感がするのです。母が、痛めつけられてしまうのではないかと、そう思えてならないのです」

 ようやっと頭にかかっていたもやのような気持ち悪さが消え、アタグは自分のここへ来た目的を思い出す。地面に額をつけて、彼女は懇願の意を伝えて見せた。

「畏み申します。どうか、私にお力を貸し願えませぬでしょうか」

「ふむ。確かに可哀想だ。俺に残る少しの情の念までもが、同情を訴えているよ」

 顔を上げると、その女はほとんど裸のまま、何も隠さずに仁王立ちをしているようだった。しかし発している言葉とは裏腹に顔色の一つも変えていない様子だ。

「お前、文字が読めたり、最低限の礼儀作法を心得ていたりするな。それに、同じ年の子と比べても聡い方だろう。手触りからして衣服も上等品だ。それなりの家で、それなりの教育をあてがわれたな。ならば理解も出来ようさ。俺はいる。それ故、ここを出ること能わぬ。お前を里から連れ出すことも、お前の母親をどうこうすることも今の俺には出来ぬのだ。換言して、単刀直入に言おう。すまない、俺には無理だ。力になれぬ」

 アタグには、その言葉が理解出来なかった。いや、。このままでは母の身が危ない。否の返答を求めて来たのではないと、形にならぬ憤怒の感情が募る。

「そんな、ここまで来て、それはあんまりです」

「しかし、出来ぬことは出来んのだ」

 首を横に振って、そいつは座り込んでしまった。

「お前でも理解出来ぬものが俺を縛る。そいつをどうにかしない限りには動けぬのだ」溜息と共に、恐怖の怪物が不貞腐れて言う。

「この、格子がそうなのですか…」

「んん?」

「この格子がそうなのかと言っているのです」少女は、半ばやけになりながら声に出した。

「ああ、そうだ。見かけによらぬぞこれは。俺だって、この長い間壊せぬものかと試した―だが駄目だった。強度は未だ十分、脆くなることもない。それに、こいつは閉めた者達にしかこれを開けることは出来ぬ様になっている。今すぐにできることは何一つないのさ」

 愚痴を連ねる様に、その奇怪な存在は言った。

「なんで―」

 少女は、悔しさのあまり震えていた。拳を、関節の血の気を失わせるまで強く握りこむ。

 この不条理を、彼女は許せなかった。

 なぜ、つい昨日まで普段を生きてきた自分が、何一つとして悪いことをしていないはずの自分が、この様な難しい仕打ちをされなくてはならないのか。

 なぜ、今母が危機にあらねばならないのか。

 そして、何よりもこの状況に際してなお何も出来ぬ自分に腹が立った。

 半ば賢いだけに自分が里に戻ろうと、母を助けられないことは分かっていた。刈り終えた稲穂の束を軽々と持ち上げる里の男に、非力な少女が敵うはずない。

 それに、例えばそれで自分までもが捕らえられてしまってはそれこそ母が自らの身を顧みず逃してくれた意味がなくなってしまう。

 今できることは、この正体不明な相手に協力を仰ぐことくらいだ。見た目には信じ難いが、これでも化物と恐れられる存在―こいつが母を助けられるかはともかく、混乱を作ることはできるはずだ。ならばそれに乗じて母の安否を―。

 小さな頭で思いつく限りを並べてみるが、何を思いつこうと目の前の現実がそれを拒む。

 ああ、悔しい。

「ふむ。お前、母が捕まったと言ったな」

 女が、壁の向こうを見据える様な姿勢で言った。

「どうやら今度はお前の迎えが編成されたようだ。足音が聞こえる。子供相手にしては妙なくらいに多いが―」

 言葉が一旦途切れる。そうしてから、憂いを含んで、静かに続かれた。

「―誠にすまなかった。アタグ。お前の名は覚えて―」

 その言葉を、鈍い音が遮った。

 この格子さえなければ―八つ当たりにも近い殴りを打ち出した少女の拳が、ゆっくりと解れて、ざらっぽい格子から離れ、垂れ下がる。

「忘れて…結構です―」絞り出すように、彼女は言った。

 どうしたって柔らかすぎるそれは、皮が剥けて血を吹いてしまっていた。

 すっかり落胆してしまった少女をよそに、外が騒がしくなるのがその耳でも分かった。

 先ほど言っていた迎えだろうか。私は、母は一体、この後どうされてしまうのだろうか。先行きの見えぬ不安を感じるものの、今ならなんだか諦めがつきそうな、そんな気がした。

「―そうか。では、達者でな―」吸い込まれるような、美しい蒼の瞳が、伏し目となる。

 いくつにも重なって聞こえる足音が、二人のいる小屋にたどり着くまで、そう時間がかかる距離ではなかった。

 


「この者が、件の娘か。間違いないな?」

 眉の太い、角ばった顔の男がそう言った。明らかに里に住む者の服装ではなく、鮮やかな色彩によって染め抜かれた着物が集団の中で目立つ。

 集団の中心には、アタグが縄で縛られていた。

「へい。間違いありませぬ」派手な男の脇から、今度は打って変わって頼りなさそうな痩せ男が首をにゅっと出してきた。そのいつも呆けたような馬面、見間違えようがない。里の長、その倅である。

 近頃病に伏している父に代わって田畑を含む土地とまつりごとの管理を任せられている者だが、こいつはいい年までして根っからの優柔不断、加えてとんだ腰抜けであり、そのくせ威張ってばかりいるという少々困ったやつであった。

「しかし、本当に親子を差し出すだけでいいんで?そンなので向こう十年は取り税を無しにするたぁ、上様は何をお考えなんです?」

「ええい黙れ、お前には関係のないことだ。ここよりは我々が仕切る、下がっていろ」

 そう言われると、少し不服そうな顔をしながらも痩せ男は首を引っ込めていく。

「その方、アタグという名だそうだな」太眉の男が、低い声で言った。

「面を上げてみせよ」

 少女は黙ったまま、俯いている。

「上げぬか」

 男が少し、声音を強くする。それでもなお、彼女は俯いたままだった。

「アタグ、おっしゃる通りにしろ。この方が誰だと思っている。ここ一帯の領主様であるぞ―」

「煩い!下がっていろと言ったはずだ」

 長の倅が、羽交い締めにされて連れて行かれた。

「私たちは―」少女が沈黙を破る。上げられた顔に、確かな意志を宿した眼差しが光る。

「なんだ」

「私たち親子は、売られたのでしょうか」

 ほう、と太眉が顎に手を当てて言った。

「そうとも取れるだろうよ。しかし、我が主君が欲したのは汝等が首だ」顔色ひとつ変えずに男が言い放つ。

「そこの薄情者だが、協力の褒美として税の免れをちらつかせたらすぐに顔色を変えた。そも、この地は農作に向いてはおらぬ。取れ高も少ない故の条件だが―貯蓄の薄汚い魂胆は丸見えだ。男のくせその態度も目障りなことこの上ない。本当ならば汝などよりも先に斬りたいくらいだ」

 冷たい何かが胸の奥にあるのを感じる。それは恐怖か、怒りか。

「なぜ―なぜ私達親子の命が望まれるのか―聞いてもよろしいですか。領主様」

「それは聞かされておらぬ。ただ、親子の首をと、そう仰せになったのだ」

 ふん、とその男が鼻を鳴らす。

「問答はここまでだ。可哀想なようだが、主君の命に逆らうわけにもいかぬ。その首、ここでいただく」太眉が、そう言ってから腰の刀を抜いた。

 ここならば人目もないしな。里の者には化物に食われたとでも後で説得するのだろう。小さな胸の中で皮肉が膨れ上がる。

 見るに屈強そうな腕が、抵抗もない少女の髪を肩から掴み上げた。ぬらぬらと、いやに日の光を含んだ刃が、その細い喉に突きつけられる。

「最後に!最後に一つ、お答えいただけますか」

 刀を持った手が止まった。

「母は―母はどうなりましたか」

 しばしの間を空けて、男が言った。

「先にいって、待っているだろうよ」

 幼い目が見開かれるのと一緒に、刃が皮を抜けた。


 

 ぼとりと、幼い体の前に肉が落ちる。それに次いで、赤く赤く地面の草が濡れ、染められていった。

 落ちたのは―

 つい先ほどまでその柔らかい喉を断ち切らんとしていた、一対の腕であった。

 取り囲む集団に戦慄が走る。

「血糊は嫌いなんだ―生臭くてかなわぬ。特に俺の場合、鼻が利くのでな―」腹に響く声がした。

 少女の視界は、黒一色に染まっている。

 大部分を遮られた日が端から漏れて、燃え上がるような紅色を輝かせていた。

「アタグ、今は泣いてくれるなよ。それは後だ」

 目の前の人型が、地面に寝そべる娘を素早く抱きかかえながら優しく言う。一瞬見えた瞳が、きらきらと煌いていた。

 少女を軽々片手で抱き、もう片方の腕に不思議な形の得物を持ったその女は、よく聞こえる声で名乗ったのだった。

「我が名は―この山で畏れられる化物、そのものである。これ以上この娘に手を出そうものならば、一太刀の元に斬り伏せてくれよう」

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