二度も遅刻を犯した軍艦

ジム・ツカゴシ

第一話

 十九世紀のなかばに米国、デンマーク、そして幕末の日本との間で転売され、日本では福沢諭吉、榎本武揚、そして新撰組の土方歳三も関わっていたフランスで建造された蒸気艦が存在した。これだけの役者が揃えば小説の題材にされても不思議ではない数奇な運命をたどった軍艦。あの埋もれた歴史の逸話を掘り起こすことでは定評のあった司馬遼太郎も、この一件だけは見過ごしたのかどこにも書き留めた形跡がない。


 話は米国を南北に引き裂いた南北戦争から始まる。

南北戦争は、その名の通り、アメリカの北部と南部が四年間に渡って死闘を繰り返した戦争だった。南北両軍の戦病死者は五十万人に及ぶ。あの欧州とアジアで戦われた第二次大戦でさえ米兵の戦病死者数は三十六万人弱だったことからも、南北戦争の激戦はアメリカ史上では最も熾烈をきわめたものだった。

 日本の教科書ではもっぱら南北戦争と呼ばれるが、米国での正規の呼称はCivil Warで、正確な日本語訳では内乱となる。

 一九世紀なかばの米国は、綿花などの大規模なプランテーション農園を経済の基盤にする南部と、一九世紀はじめに始まった米国での産業革命を推進した軽工業を主体にした北部が対立していた。北部における資本主義の発展にはいつでも手に入る賃金労働者が不可欠だったが、プランテーション経済は土地に縛った労働力である奴隷に依存していた。南北戦争とは自由に移動する労働力を必要とする北部と、土地に固定した奴隷制に拘泥する南部との経済戦争だったことになる。


 奴隷解放を政策のひとつに掲げるリンカーン政権が誕生し、サウスカロライナ州が連邦からの離脱を宣言すると他の南部諸州も同調して南部連合を樹立した。リンカーンはこれを内乱行為と糾弾して連邦軍による鎮圧に出るに及び、抵抗のために立ち向かった南部軍が先ず発砲して戦争が勃発した。

 ところが農業を主体とする南部と工業力を誇る北部ではその経済力に大きな差異が存在した。北部の工業生産力が九に対して、南部のそれは一に過ぎず、戦争遂行力にも大差が生じた。南部は銃器を生産する能力を有せず、兵士が手にする銃でさえ調達に困窮した南部は、戦争末期には両軍の戦死者が戦場に捨て置いた銃を拾い集めて、何とかしのぐ日々が続いた。


 南北戦争の主戦場は陸上だったが、物資を欧州からの輸入に依存する南部は相応の海軍を備えていた。北部も南部の輸入を阻止すべく、主要な港を閉鎖しようと軍艦の建造に力を入れている。

 工業力が劣る南部政府では、軍艦の補充も輸入に依存せざるを得なかった。このためヨーロッパに南部政府代表を密かに派遣し、表向き中立を保つ欧州列強には秘密裏に軍艦の建造を注文している。連邦政府も代表を欧州に派遣して、南軍が注文主とわかるたびにそれぞれの政府に抗議を重ねた。そのため、南部政府が注文する船は商船の体裁を取り、進水後カリブ海に引航してそこで大砲や銃器の装填を施す苦労を重ねている。


 しかし、南部の敗戦が濃厚になると引き渡しを拒絶される例が出てきた。終戦間際にフランスの造船所に発注された六隻がその例で、この六隻は当時のルイ・ナポレオン政府が中立を理由に、ペルー、プロイセン、デンマークに転売を命じた。

 このデンマークに転売された一隻は、南部政府の出先の執拗な工作が功を奏して再び南部政府の手に渡った。北軍の放つ銃弾の雨にもかかわらず石の壁のごとく立ちはだかった南軍の勇将トマス・ジャクソン将軍のニックネームに因んで、この軍艦は「ストーンウォール」号と命名された。船体は木造ながら表面を鋼鉄で覆ったこの装甲艦は、密かに儀装を終えてアメリカに向かった。

 しかし、ようやく到着したのが終戦一ヶ月後の一八六五年五月で、南軍の戦力に加わることはなかった。そして、南北戦争が終結し軍備縮小を図るアメリカ政府は、この軍艦を幕末の動乱で官軍相手に軍備を必要とする徳川幕府に転売したのだった。


 この史実を、海上自衛隊の知人が自衛隊保有の資料で再確認してくれた。早速ファックスで送られてきた写真入りの資料は「甲鉄艦」の見出しで興味深いその後の歴史を紹介していた。

 四〇万ドルで徳川幕府に転売されたストーンウォール号は幕府が手付金の十万ドルを払った後日本に向けて出港した。ところが、横浜に到着したのは維新直後の明治元年だった。一度ならず二度まで、この軍艦は戦機に遅れをとった数奇な運命を担っていた。


 当初は米国公使が中立を理由に新政府への引き渡しを拒否したものの、新政府の勝利が確定した明治二年二月に日本に引き渡された。

 この資料によると、建造が一八六四年、排水量が一三九〇トン、全長は五七米、全幅がおよそ十米で、二基の蒸気機関を搭載し出力が一二〇〇馬力だった。建造地がフランス・ボルドーとなっている。

 明治四年に東艦と改称され、一八八九年に廃艦になるまでこの軍艦は帝国海軍に属した。


 ここまで資料を読み進んで、はっと小学生の時に何度も繰り返して読んだ福沢諭吉の伝記の一節を思い起こした。

 福沢は軍艦を購入すべくアメリカに派遣されることになった幕府の役人一行に無理をいって通訳として加えて貰い二度目の渡米を果たしている。しかし、アメリカでは通訳の仕事を放り出してもっぱら洋書の買い付に奔走したという逸話だ。その行為に立腹した団長の訴えで、帰国後に福沢は謹慎処分を受けている。

 この軍艦とは上記の東艦ではないかと、福翁自伝を引っ張り出してみると、果たしてその通りだった。


 福翁自伝の再度米国行の章に、「東艦を買う」の見出しで当時の様子が記されている。渡米は慶応三年、維新の前年だった。しかも面白いのはアメリカ側に代金を二重取りされたらしい記述があることだ。

 福沢が西欧の商取引や契約の仕組に痛く感銘を受け、苦心してそれらを翻訳して日本に紹介したことは周知の通りだ。複式簿記もそのひとつといわれる。その福沢ゆえ、アメリカ人が騙し取るはずはないと、暗に日本側の不始末を非難する口調になっているが、これはどうしたものだろうか。幕末・維新の混乱にまぎれて売手のアメリカ側に体好く騙されたのが実態のように思われるのだが。


 ところで、維新直後に起きた榎本武揚の艦隊と新政府の衝突を記した歴史の解説書にもこの甲鉄艦の名が出てくる。

 今回入手した資料で、この甲鉄艦とは東艦と改称される前のストーンウォール号であることもわかった。

 幕府艦隊の総司令官だった榎本は、戦況が不利になりつつあった江戸から艦隊を率いて幕府に協力的な仙台藩を頼って北上した。榎本には土方歳三が同行している。

 ところがその仙台藩も新政府に傾き、やむなく北海道の内浦湾に向かいそこで五稜郭を枕に敗戦の憂き目に遭うのだが、途中で新政府の艦隊が投錨中の宮古湾で甲鉄艦の奪取を試みている。米国から渡来し新政府に引き渡された軍艦とある。東艦のことだ。

 明治二年の三月二十五日に起きたこの奇襲作戦は、派遣された榎本艦隊に属する回天丸が荒天のために攻撃に失敗し、隊長の甲賀源吾が戦死している。東艦の備砲には諸説があるようだが、一インチ六連装ガトリング機関砲が一分間に一八〇発を連射して応戦したとされている。


 デンマークに売られたままであればこのような激動を経験することもなかった東艦だが、二度も遅刻を犯したために歴史に思わぬ足跡を残すこととなった。

それにつけても、維新前夜の世界は今から考えてもずいぶんとグローバル化が進んでいたことになる。軍艦や兵器が商品として太平洋や大西洋を行き交っていたのだ。

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