事態が再び動いたのは由美子が布団に籠ってしばらく経過してからだった。


 間宮が帰りの足を気にし始めた頃。布団の中で音楽が鳴った。間宮もよく聞くその音は日本人の多くが利用するスマホアプリの無料通話の着信音だ。


「由美子、俺のスマホにかかって来てるのか? なら……」


 返して。間宮がそう言うよりも前に着信音が止まった。いや、止めたのだ。スマホの音が止まったと同時に布団の中から由美子の声が聞こえる。


「もしもし、おかあさんですか? 助けてください」


 口調からして彼女のおかあさんではないだろう。しかし、彼女がおかあさんと呼ぶ人物を間宮はもう一人知っている。大学時代に間宮が里帰りをした際、折角だからと顔合わせを済ませた人物……


 即ち、間宮の母親だ。


「ちょ、由美子?」


 思わず焦り声が出る間宮。そんな間宮を無視して由美子は電話を続ける。


「すみません、急に……でも、間宮君が私と別れるって言うんです」

『えーっ!?』


 驚きの声が毛布を貫通してこちらまで聞こえて来た。その後も何やら話をしているようだが、毛布の壁が邪魔でよく聞こえない。


(こう来るとは思ってなかった……)


 予想外の一撃に間宮は茫然とする。その間に話は進み、やがて布団つむりが頭と手を出した。涙の跡が残っている顔は真剣な表情だが、何ともシュールだ。


「……お義母さんから。スマホここに置くけど、絶対帰ったらダメ」

「はい……」


 この時点で間宮の心は半ば折れていた。別れたことは事後報告にするつもりだったが、先に事情を話されてしまった。これで強引に別れると由美子を知る家族一同が敵に回ってしまう。


(やだなぁ……)


 気分は既に敗残処理だ。間宮はその場に腰を下ろしてスマホを見下ろす。そして、スマホがスピーカーモードに変更された。


「お義母さん、スピーカーモードにしました」

『幸弘! あんた何考えとーとね!』


 母君は既にかなりお怒りの様子だ。間宮が弁明する間もなく矢継ぎ早に言葉が続けられる。


『何が浮気されるのが怖いから別れる。よ! 情けない!』

「はい……」

『あんたゆみちゃんを馬鹿にしとーと? 馬鹿なのはあんたよ! あんたをこんだけ想ってくれる子なんて他におらんやろうが!』

「いや、でも、『何かあると!? 何かあるなら言ってみぃ! 納得できる理由があるなら聞いちゃーよ!?』」


 はっきり言って勝ち目は薄い。殆ど言いがかりに近い無理筋で別れようとしていたのは自分でも理解しているのだ。それに、余計なプライドを取っ払えば釣り合わなくとも、本命とされなくとも付き合っていたいという気持ちは確かにある。


 間宮の頭の中もぐちゃぐちゃだったが、それでも彼は言葉を続ける。


「俺と由美子じゃ釣り合わないんだよ」

『誰がそんなこと言ったとね!?』

「いや、流石に誰かに面と向かって言われた訳じゃないけど……」

『じゃあそんなんあんたが勝手に思っとるだけやろうが!』


 お怒りの母君に対して間宮はまるで将棋の形作りのような気分で会話を続けるが、間宮の母は間宮に体裁すら保たせてくれない。一方的に正論で苛烈に攻め立てて来ては間宮を投了に追い込む。五分も経過する頃には間宮は諦めた。


『じゃあ仲直りするってことでいいね!?』

「はい……」

『ならいい。由美子ちゃん、ごめんね? ウチの馬鹿が……勉強出来るのにこういうことには疎くてねぇ』

「いえ、助かりました」


 負けた間宮の隣で元布団つむりはスマホ片手に戦後処理を行い始める。間宮の母は後は二人で話し合うように言っているが、間宮にはもうそんな元気はない。やがて、通話が終わると間宮は大きな溜息を吐いて言った。


「……あのさぁ、由美子。今のはズルいよ」

「知らない。間宮君の方が先に酷いことしたもん。これでおあいこ」

「由美子はそれでいいの? 正直、幻滅させたと思うけど……」

「今後の挽回を期待してます。だからもう別れるとか言ったらダメ。いいね? この話はもうお終い。飲み直すよ!」


 由美子はそう言って布団から出て間宮の手を取った。明るい場所に出ると彼女の目が赤くなっていることがよく分かる。彼女を傷つけた自覚から気まずい空気になると思った間宮に反省してるなら私の酒を飲むことと言って由美子は間宮を酔い潰した。


 その後は間宮が酔って壊れて何度も謝り続けるbotになって終わり、間宮は由美子の用事があるという翌日の昼まで由美子に罰と称して日頃は言えない歯の浮くような台詞を強要されるなどしていちゃつくことになる。



 そして、週が明けた。


「間宮先輩、先週の件ですけど、大丈夫でした?」


 今度は残業中に二人きりになったところを見計って間宮に由美子の浮気疑惑の情報提供を行った後輩が声をかけて来た。二人きりで帰りがけという秘密の話には持って来いの状況だが、間宮は帰り支度を始めて普通に答えた。


「あぁ……誤解だったみたいだよ。お騒がせしました」

「え~? 彼女さんが言ったんですか? ホントですかねぇ? 先輩、良い人だから嘘でも信じちゃいそうで心配です~」

「……あれが嘘なら俺はもう人間不信になるよ」

「何かあったんですか?」


 後輩の言葉に間宮は何とも言えない曖昧な返事を返す。帰り支度は終わった。後はもう退勤するだけだ。尤も、彼が向かう先は自宅ではなく由美子の家だが。


「じゃあ、お先に。喜多寺さんの会議は終わりそうにないし、もう帰っちゃっていいと思うから。あんまり遅くまで残らないようにね」

「あ、はい。お疲れ様でーす」


 間宮と一緒に帰ろうと思っていた後輩の女性社員だったが、間宮がさっさと支度を済ませてしまったので溜息を吐いて残務処理に入った。


「はぁ~……持ち直しちゃったかぁ。このまま相談に乗りながら行けるかと思ったのになぁ」


(喜多寺さんと一緒に帰るのは嫌だし、もう帰っちゃお)


 色々なハラスメントをしてくる嫌いな相手と一緒に帰りたくないので彼女はさっさと帰ろうとする。


 その時だ。


「お疲れ様です」


 不意に女性の声が聞こえた。女性社員は驚いて後ろを振り返る。そこには。


「え……? 間宮先輩の彼女さん……?」


 微笑みを浮かべている由美子の姿があった。彼女が何故ここにいるのか。女性社員が疑問の言葉を出すよりも前に由美子は口を開く。


「はい、間宮由美子です。今回はよくもやってくれましたね? 西谷 環さん」

「わ、私のこと知ってるんですか?」

「はい。2000年7月21日生まれで栃木県××市〇〇の△-▽に実家があり、家族構成は両親に姉が一人。厳しく育てられた姉と違い甘やかされて育ったこと。幼稚園の頃から自分の欲しいものは強引にでも手に入れようとする性格だったことまで、あなたのことは大体調べました」


 笑顔のまま自分のことを調べ上げたと宣い、間宮も知らない情報を並べる由美子に西谷は恐怖を覚える。だが、由美子は西谷の恐怖などどうでもいいようだ。少し困り顔になって勝手に続けた。


「困るんですよね……私の幸弘君を惑わせたら。あの人は私のなんですよ? 初めて出会った中学生の頃から、ずっと」

「な、何の話ですか? 私、彼女がいる人に手を出したりなんてしませんよ?」


 しっとりした口調で断言する由美子に少しだけ抵抗する西谷。だが、由美子は更に困ったように言った。


「あの、さっき大体調べたと言いましたよね? 南橋さんとあなたの話も私、知っているんですよ」


 南橋は西谷の私的な友人だ。間宮どころか会社の誰もが知らない情報が更に由美子から告げられる。西谷は更に恐怖した。それでも由美子はお構いなしだ。


「あんまりお行儀がよくないことはしない方がいいですよ? 特に私の間宮君に手を出すなら……ね? ご友人はそこまで大切には思ってらっしゃらないようですが……郁美さんは大事にしたいんですよね?」

「ま、ママに何する気……?」

「それはご想像にお任せします。ただ、まぁ……あなたが思っているよりは酷い目に遭ってもらいます」


 笑顔のままそう言ってのける由美子。西谷は遅まきながら踏んではならない虎の尾を踏んだことを理解する。


「安心してください。私の間宮君に手を出さなければ今回の件は見逃してあげます。昔みたいに選別や排除はしてませんので。ただ、分かりますよね? 次は……ね?」


 あくまで微笑みを絶やさず、しかし薄っすらと開いた目からは全く笑っていない色を覗かせて由美子はそう告げた。西谷は壊れた人形の様に何度も首を上下に振ることしか出来ない。ただ、由美子は満足したらしく、優雅に別れの挨拶をするとこの場を去った。


 残された西谷は恐怖のあまり喜多寺が戻るまでその場から動けなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

裏と表の恋心 古人 @furukihito

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ