結局、間宮は由美子の住むマンションの玄関に着いても頭の整理は出来なかった。だが、既に時間だ。間宮は出たとこ勝負を覚悟して合鍵を使って玄関を通り、階段を上る。ふと見えた夜空は綺麗で、空気も澄んでおり実際の気温よりも低い気がした。

 そんな寒空と対照的に間宮は由美子の部屋に近付くにつれて緊張が高まって鼓動が激しくなり、身体が熱くなる。程なくして間宮は由美子の部屋の前に着いた。


 何度も押したインターフォン。だが、今日は見ただけで強い緊張感を覚えた。それでも押さなければ話は始まらない。間宮は一つ呼吸をしてボタンを押す。すると少しして扉が開いた。そして部屋着姿の由美子が出て来る。


「やっと来ましたか~お勤めご苦労さまですっ!」


 彼女のテンションはいつもより少し高い。自分は大丈夫だろうか。幸い、由美子は部屋の中に間宮を誘導することを急いだため、何も気付いてはいなさそうだ。そんなことを考えながら間宮が部屋の中へと進むとそこには既に宅飲みにしては十分過ぎるもてなしが準備されていた。


「今日の主役は海鮮丼でーす。それに寒いから、おでんね? 後は小エビのから揚げとイカリングとゲソ唐。ベーコンチーズにポテサラ! バーニャカウダもあるよ!」

「……随分張り切ったんだね?」

「そりゃもう! 大好きな間宮君の誕生日祝いだから!」


 得意気な彼女。お祝いということで間宮の好物を作って待っていたようだ。彼女の得意気な笑顔が眩しくて間宮は曖昧に笑いながら料理を見るようにして彼女から視線を逸らしてしまう。料理は非常に美味しそうだ。

 ……ただ、そんな料理も今見れば自分の身の丈に合っていなかったのではないかと思ってしまう。


(……仕事も出来て家事も得意。才色兼備で性格もいいとなれば……まぁ、俺じゃ物足りずに浮気するだろうな……いや、浮いた気で付き合ってた相手が俺か……)


「どうしたの? 立ったままで……座ったら?」

「あぁ、うん」


 何やら当てが外れた様子の彼女。だが由美子が違和感を覚えていることに気付いても間宮には何も出来ない。彼女に促されるままに上着を脱ぎ、所定位置に座ると荷物を置くだけだ。間宮が用意を済ませたのを見れば由美子も小さな違和には目を瞑ってしまう。彼女は間宮の隣に座り、グラスにシャンパンを注いだ。


「じゃあ」

「うん」

「「乾杯」」


 静かな部屋にグラスがぶつかる音が小さく響く。小さな宴の始まりだ。少しお高めのお酒と美味しい料理に手を付けていく。だが……


(味が、しない)


 目の前の飲食物が美味しいものであることを知っていても、間宮は味を感じることが出来なかった。それでも間宮は表面上、歓談を取り繕う。緊張で渇く喉を癒すためにいつもより酒を飲む間宮だが、そんなものでは誤魔化せない息苦しさを覚えた。


(……今、切り出すべきではない、よな……?)


 あまり酔えない頭で間宮はそう考える。彼女との温かなひと時を壊したくないが、言わなければならないことがある。二律背反に苦しめられる間宮。


 ただ、彼が思っているよりも早く好機は来た。


「……大丈夫?」

「ん、何が?」

「いや……元気ないように見えたから」

「……そう見えた?」


 由美子の方から間宮の様子がおかしいと切り出してくれたのだ。渡りに船だった。いや、こういった細やかな気配りが出来るのが彼女だ。間宮は内心で由美子のことを褒めるが、彼女は心配そうに頷いて言う。


「うん……もしかしたらプロポーズかな? ってちょっと期待してたけど……今日は違いそうだし」

「……あぁ。まぁ、そうだね。逆、だね」

「逆……?」


 言って、理解して、由美子の顔が強張った。言うなら今しかない。間宮はそのまま流れるように終わりの言葉を口にした。


「別れよう」

「いや」


 即答だった。温かかった空気が冷え込む。だが、間宮も簡単に引き下がるほど意思は弱くない。


「いや、じゃない。ここで別れた方が由美子のためだろう?」

「いや」

「……あのさ、君、他に好きな男がいるだろう?」

「いない」

「別に怒ってないから正直に言ってほしい。嘘をつかれる方が悲しいから」

「嘘ついてない」


 いつもより極端に言葉数が少なくなって顔色を悪くし、表情を失っている由美子。こんな彼女は見たことないと思いながら間宮はなるべく優しく告げる。


「そっか……まぁ普通言えないよな。でも大丈夫。このことは誰にも言わないから。別れた理由は価値観の違いとかにしよう」

「別れない」

「……俺は由美子のこと好きだけど、だからこそ、浮気されていることを分かった上で付き合うなんてことは心が持ちそうにない」

「浮気してない」


 間宮の言葉を尽く否定する由美子。間宮はあまり使いたくなかったが溜息を吐いてポケットからスマホを取り出すと例の写真を彼女に見せた。


「由美子、これを」


 スマホを無言で受け取って写真を見る由美子。ややあって彼女の表情に少しだけ色が戻り始めた。


「なんだ……誤解してるみたいだけど、この人はお客さんだよ。私の会社では一番の大お得意様の調達部の人。だから間宮君が疑うようなことはないから」

「……まぁうん。そういうことでもいいけど」

「そういうことでもいいじゃなくて、本当にお客さんだから。確認する? 携帯二つとも貸すよ?」

「いや、大丈夫」

「いや、大丈夫じゃなくて。確認して? こんな誤解で別れるとか、ないから」


 由美子はそう言って間宮のスマホ片手に自身の私用携帯と社用携帯を取りに行こうとする。しかし、間宮はそれを呼び止めた。


「そんなことしなくても大丈夫だって。そうかもしれない、とも少し思ってたから」

「……なら私が大丈夫じゃないよ。違うって分かってるのに何で別れようとするの? 何か私悪い事……」


 そこまで言って由美子は頭を下げる。


「間宮君のお誕生祝いがあったのに仕事を優先したのはごめん。でも、締めが近くて色々と時間なかったの。来年は……」

「気にしなくていいよ。それより、別れる理由だよね?」

「別れない! けど……そうしたい理由があるなら言って。直す」

「そうだね……」


 少し逡巡する間宮。本来は言いたくないことだったが、酒が入っている彼は勢いで洗いざらい白状することにした。


「俺、その写真を見て色々と思ったんだけど……その写真を見て最初に浮かんだ思いが『やっぱり』だったんだよね」


 由美子は険しい顔になりながらも口を挟まずに間宮の言葉を待った。


「心のどこかで俺と君が釣り合わないと思ってたんだろうね。それが、表に出て来ただけだよ。気付いたからにはもう無理だと思う」

「か、勝手だねぇ……! 私の気持ちは何だと思ってるの?」


 気が昂り、思うところがあっても上手く口が回らないようだ。由美子は声を震わせながら何とか言葉を搾り出すが、間宮の心には届かない。


「……うん。確かに勝手だと思う。けど、本音だよ。こんな奴、嫌だよね? だから「嫌だ」……由美子?」


 由美子は再び別れの言葉を切り出そうとする間宮を遮る。そして彼女は周囲の声が聞こえないようにでもしたいのか、何やら言葉を繰り返し始めた。


「嫌だ嫌だ嫌だいやだいやだいやだいやいやいやぁっ!」

「由美子!?」


 最後には叫びながら由美子は寝室に駆け込んだ。ここまで取り乱した由美子を見るのは初めてだ。すぐにどうしたらいいのか考える間宮だが、自分が何を言ったところで彼女を傷つけるだけだと気付く。


(これでいい。これで……綺麗には別れられなかったけど、酷いことを言ったけど、その方が却ってよかった)


 気まずい空気だが、間宮はこのまま何も言わずに帰ることにする。由美子の家の鍵は外に出た後にドア受けに投函すればいいだろう。そう思って帰り支度を始める間宮だったが、あることに気付く。


(あ、スマホ……)


 由美子が持って行った携帯の存在だ。流石にスマホがないのは困る。由美子は酷いことをするような性格ではないはずだが、酷い振り方をされた仕返しに彼のスマホでよからぬことをする可能性はある。かなり気まずいが、由美子にスマホを返して貰う必要があった。

 間宮は由美子の後を追って静かに寝室の扉を開く。薄暗い寝室には膨らんだ布団がある。どうやら由美子は毛布を亀の甲羅の様にして中に潜んでいるらしい。


「……ごめん、由美子。スマホを」

「やだ」


 恐る恐る間宮が声をかけると布団つむりの中から涙声が返って来る。弱った間宮は由美子にお願いした。


「返してくれないと困る」

「返したら帰るからいや」

「あの「いや」……」


 取り付く島もないとはこのことだろう。間宮は一先ず彼女が落ち着くのを待つことにするのだった。



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