雪はひとを運ぶ
芹意堂 糸由
雪についた足跡をたどってみたら
「わぁ、雪降ってるよ」
雪が、道路を白く塗っていた。このあたりでは、稀なことではある。
「雪合戦は、まだ、できないかなぁ」
しんしんと雪は降り続けてはいたが、それでもその量は少なかった。ほんのちょっと、路面を覆う程度。
「ねぇ、外に出ようよ」
路面は些か、凍っているようにも見える。遠くから車のクラクションがきこえてきそうだった。陽光も弱まってきている頃合い、人の姿もすくなかった。
「じゃあ私、ひとりで外に出てる」
ましてや凍るような寒さ。今、屋外にすすんで出ようと思う人はいないだろう。まあ、小学生ならばわからない。小学生くらいなら、この天候下、外に出たがるのも理解できなくもない。雪が珍しいところで、雪が積もる。人をわくわくさせるような冒険的な魅力があるということが、あるにはある。
「ふんふーんっ」
楽しそうな鼻歌がきこえる。
雪と一緒に舞っているような鼻歌が。
「ふんふん、ふーん」
顔を赤く染めながら、その子は踊っていた。女の子だった。長い髪が赤い輪ゴムで、ひとつに結ばれている。
「くるくる」
大人にはできないような笑顔を、その子は浮かべていた。笑顔、と形容し難いくらいの、幸福そうな顔だった。揺れる髪が虹色を映す。
「ふわっ」
不意に、女の子の動きが止まる。
視線の先には、一匹の猫がいた。お腹がだっぶんと垂れているところから、お腹に子どもがいるのかもしれない。
「にゃー」
猫はそんな女の子に構うことなく去っていく。なんともふてくされているような顔の猫だった。女の子はその猫をじっと見つめていた。
***
「うわ、雪降ってんじゃん」
掠れるような、少し背伸びしたような声がきこえる。雪が降っていること自体はどうでもいいけれど、とりあえず嫌そうに言ってみた、そんな色を見せていた。声の主は近くの友だちに話す。
「ねぇ、雪積もったら明日学校休みになるかな?」
いたずらっぽくニヤリと、その声の主は笑う。子どもらしい笑い方だった。女の子らしいえくぼが見えた。
「休みになってほしいよね、ほんっとに」
周りの女の子たちと一緒に笑う声が、あたりに響いた。
彼女たちはたまに降り続ける雪を横目に見ながら、楽しそうなお喋りを続けていた。
「じゃあ、私、もう帰るね」
徐に、その子はそう言った。
路面凍ったらカナちゃん帰るの大変だもんねー、気をつけてねー。そんな言葉をかけられて、カナちゃんといわれた女の子は頷く。手を振って、友だちと別れた。
「ふぅ……。さっむい」
手袋をつけて、女の子は歩き始める。
雪が降っているのだったから、それはちょっとした寒さだった。
──積もりそう。
そう感じた女の子は、足を早めて家に向かった。凍りそうな路面が車のヘットライトに照らされて、妖しいような光を帯びていた。
そこからしばらく歩いたところで、女の子はあるものを見つけ、急に足を止めた。
***
「需要曲線がこうまがります、供給曲線がこうまがります」
そこは塾の一室、ひとりの男子生徒がぶつぶつ何かを呟いていた。
「均衡価格均衡価格……。……ってなんでこんな角張った単語つかうんだよ」
男子の座る机には、模試か何かの結果が広がっていた。第一希望校に、努力は少し要する、そんな感じの結果だった。要するに芳しくなかった。
「あーー」
頭に手をあて、くしゃくしゃに髪の毛をまわす。苛立ちと不安と不満が、混ざりに混ざった表情をしていた。
男子はぼそりと呟く。
「もう勉強なんてやめちまうか」
自分で言ってから、彼は呻いて机に頭を伏せた。
そんな彼を窓から覗き見るように、雪がちらついてきた。男子もそれに気づいたのか、面倒くさそうにもう一度呻いた。
「今日はもう帰ろう」
男子は勢いよく立ち上がり、気怠げにバックに荷物を詰める。疲れと諦めが見えるような、そんな動き方を見せていた。
「帰りまーす」
塾の先生に一言、そう言って彼は外に出る。他に生徒がいないこんな日のこんな時間にいるということは、この男子生徒、頑張っているのかもしれない。
路面は凍りそうで、少し雪も積もっていた。受験生にも見える男子生徒は苦そうに顔をしかめた。
足早に、しかし注意深く、彼は歩いていた。
「もうつかれた」
男子は憔悴しきった表情を見せて、急にその速度を落とした。ふと横を見ると、明るく光るコンビニエンスストアがあった。見ると、暖かそうなコーヒーを俳優が飲んでいる広告があった。満足げにコーヒーで暖まるその俳優の顔を見ていると、ひかれるものがあった。男子生徒はひきつけられるようにコンビニエンスストアに足を運ぶ。
「いらっしゃいませー」
男子生徒は砂糖で甘さを極限まで混ぜ込んだようなコーヒーを頼んで、店の外で飲む。彼はちっとも甘そうな顔をしていなかった。
飲んでいる途中に、男子生徒は声をかけられた。同年代くらいの女子だった。男子生徒の知らない子だったが、きっと同じくらいの歳だったから声をかけやすかったのだろう。
「あの、幼い女の子、見ませんでしたか」
「はい?」
「4歳くらいの女の子、髪を伸ばした幼い女の子を見ませんでしたか」
「いや」
首を振る男子生徒を見て、女子は白い息を吐いた。なんだか悪いことを言った気分になる。
「どうしたんですか」
「いなくなっちゃったらしいんです。雪に興奮して、一時間ほど前に」
どうやら話す彼女は、そのいなくなった女の子の近所に住んでいるらしい。女の子の母親が、彼女に助けを求めたらしい。
「どこいっちゃったんだろう」
呟く女子生徒を見ていると、どこか助けてあげたくなった。男子はつい、こう言ってしまった。
「手伝いましょうか」
女子生徒は戸惑った顔を見せて、なにやらしばらく考えこんでから、スマホを見せた。
「スマホ、持ってます?」
男子が自分のスマホを見せると、緑のコミュニケーションアプリを開いて、連絡先を交換しようと、女子生徒はいった。見つけたりしたら、互いに連絡をとろうと言って。
「じゃあ、お願いします」
女子生徒は頭を下げて、去っていった。
残された男子生徒はひとり、髪の毛をくしゃくしゃにまぜて、面倒くさそうに白い息をつくった。
***
「わあ、雪降ってんじゃん」
同僚がそう言ったのを聞いて、ある会社員は窓の外を見る。見ると雪がみてとれた。
「電車止まると面倒だよね」
彼は同僚に苦笑してみせた。同僚はそれを機にデスクを離れて、面倒くさそうに伸びをした。周りの社員もため息をもらす。
「先輩、超寒そうっすよ」
「そうだね」
後輩が彼に話す。やっぱ冬はきついっすねーとか、凍った路面で滑って転んだ話とか。彼は笑ってそれを聞いていた。
その日は結局、普段より早く帰れることになった。
幸い電車も数分遅れですみ、何事もなく最寄り駅に着いた。やや積もっていた。
寒いなあと呟いた彼は、駅からそう遠くない道に、スマホ片手にうろうろと動きまわる少年を見つけた。端から見れば怪しげだったが、その子は制服だったので、彼は怪しむことなく声をかけた。
「道に迷ってるの?」
「いや、そうじゃなくて……」
彼は眉をひそめた。
「4歳くらいの女の子が、迷子らしいんすよ」
「はあ」
「そんで、探してるんです」
「大変だねぇ」
「大変ですよ、ほんと」
なんで引き受けちゃったんだろな、なんてことを呟く少年を見ていると、どこか懐かしい思いが蘇った気がした。
「4歳くらい?」
「4歳くらいっす」
「あまり遅くなったら、警察に言った方がいいかもね」
「そうすよね」
寒いし君も気をつけて、と彼はそう言って辺りを見渡した。
***
「ハルちゃん、どこ行ったんだろ……」
女子生徒は探している女の子の名前を呟いた。近所に住んでいる、髪の長い幼稚園児だった。好奇心旺盛で、羨ましいくらいに子どもらしい子だった。
スマホの着信音が聞こえてアプリを開くと、先の男子生徒が警察にも言ったのかと訊いていた。もうすぐ届け出る、とハルちゃんの母親が言っていたので、もうそろそろ出しているかもしれない。その旨を完結に打った。
「はあ」
白い息がこぼれる。今日は格段と冷え込んでいた。雪もずいぶんと積もっていた。
冬なのもあって、もう暗くなっていた。そろそろ私たちも帰らないといけない、そんなことを女子生徒は考えていた。
「あ、リクくんのお姉ちゃん」
不意に、声をかけられた。見ると、弟の友だちのカナちゃんという子が、こちらを見ていた。
「カナちゃん、おかえり。遊んでたの?」
「うん。もうこんなに暗くなっちゃった。お母さんに怒られるかもしれない」
カナちゃんは舌を出して笑った。
「どうしてこんなに遅くなったの?」
「そうそう! リクくんのお姉ちゃん、お腹のおおきい猫を見つけてね」
「へーえ」
「で、私より少し小さな女の子が、そこにいたの。その子とついつい喋っちゃってさ」
「その子、4歳くらい?」
「うん。幼稚園に行ってるって言ってた」
「髪の毛、長かった?」
「あー、長かったかも」
女子生徒はカナちゃんにその子と喋ったという公園を訊ねて、足早に離れていった。
「リクくんのお姉ちゃん、どうしたんだろ」
カナちゃんはひとり、ぼそりとそういった。
***
「ハルちゃーん」
女性は深刻そうな面持ちで、町中を回っていた。夫に娘の迷子を伝えても、仕事が忙しいらしく、手伝えないらしい。娘が行方不明だというのに。
警察にはもう旨を伝えてある。なにせもう暗くなっていたし、いなくなってから一時間以上が経過しているのだった。
4歳の娘は好奇心旺盛で、雪が降っているのを見て興奮して外に出ていった。そういう子だったのだから、一瞬でも目を離した私が悪かった。女性は自らを責め続けていた。気づいたときには、もう娘の姿がどこにも見あたらなかったのだ。
スマホの着信音が聞こえた。近所の人にも捜索を手伝ってもらっているので、着信音は大きめに設定していた。
見ると、近所の中学生が、この辺りの公園の名を送っていた。送られていたのはそれだけで、他には何も送られてこなかった。もしかすると、見つけたのかもしれない。女性は小走りで、その公園へと向かった。
公園には誰もいなかった。公園だと送ってきた少女の姿も見あたらなかった。女性が唇を噛んで、ため息を吐こうとしたときだった。
「ん?」
公園から、四つの足跡が見えた。
その内の三つは、ベンチのあたりから。
一つは小学生くらい、一つはそれより一回り小さい、そして一つは、四本足。
ベンチではないところから出ている足跡は、それらよりもっと大きなもので、もしかすると女性にこの公園のことを伝えた少女のものかもしれない。
女性はそれらの足跡を睨むと、そのうちの二つが向かうところに、足を動かした。
***
雪が降った、冬の出来事だった。
足跡ができるほどの雪が積もっていた。
私はあくびをしながら、帰路についていた。
寒さが普段より厳しく、路面も一部凍っていた。
仕事の悩みや、将来の不安や、家族のことをぼーっと考えながら歩いていた。
毎日は退屈で、日々は風のように過ぎていく。楽しみが少ないと、ふと、なんのために生きているのかわからなくなる。
こういうと深刻そうだけれど、そこまで深刻な悩みでもない。
ただ、深刻ではないことが、深刻なような気もする。
そんな私は、あるものを見た。
お母さんらしい人に抱きしめられる、幼稚園児くらいの女の子。それを笑顔で眺める、制服姿の学生が二人。サラリーマンも、ひとり、いた。そしてその人々にかこまれるようにして、猫と小さな小さな子猫が、そこに寝転んでいた。
どういう組み合わせの人たちなのかは分からないけれど、しかし、どこか元気をもらった気がする。
雪についた、いくつもの足跡があったから、私はそれを見ることができた。
不思議なことも、あるものだ。
雪についた足跡をたどってみたら。
雪はひとを運ぶ 芹意堂 糸由 @taroshin
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