★そして井戸の中から蛙は今、小鳥に空を教えている

 微かな、本当に微かな物音でユメノは目を覚ます。しばらくぼうっと卓上の灯りを見つめ、そのままでいた。

 それから飛び起きる。机に突っ伏したままいつの間に眠っていたのか。

 姿勢を正すと背骨が鳴った。シャワーを浴びた後の記憶が曖昧だ。寝る前に少しでも勉強しようと思ったのだろう。


 伸びをする。時刻は0時を回ったところ。何となく目が冴えてしまった。

 そんなユメノの耳にまた小さな音が飛び込んでくる。階段を上る音だ。あの金属でできた螺旋階段は、どんなに静かに足を置いても音が響く。ああそれでも、ここまで音を殺すのならタイラだろう。


 迷った末にユメノは部屋のドアを開けた。案の定というか、階段を上ってきたタイラが顔を出すところだった。空の高いところみたいに真っ黒な目が、ユメノの姿をそこに認めてわずかに大きくなる。

「起きてたのか?」

「うん。勉強してた」

「もう寝たらどうだ。勉強なら朝やるといい」

「トイレ行ったら寝る」

 おやすみ、とタイラは言う。聞いた端から声の色を忘れていきそうな、静かな響きだった。ユメノは思わず、「眠れない」と口を滑らせる。


「眠れない。相手してよ」


 きょとんとしたタイラが、小さく吹き出してくつくつ笑った。『あ、タイラだ』とユメノは内心当たり前のことを思う。

 なぜか妙にツボに入ったらしいタイラがしばらく笑った後で「言い方がよくない。“散歩しよう”とか“話でもしよう”とか言ってくれ。びっくりしただろうが」と指摘した。何がおかしかったのか考えて、ユメノは思わず赤面する。

「そういうんじゃないよ!」

「わかってるから言ってんだろ」

 ムッとしながらもユメノは「気をつける」と言って引いた。『タイラ以外に言わないようにする』という意味で。


 気を取り直してユメノは静かに手を叩くような仕草を見せる。うみ、と唇を動かした。

「海、連れてってよ」

 タイラは片眉を上げて「今からか」と言い、手元の携帯電話で時間を確認する。画面が光って眩しかった。

「まあ、いいか」

「いいの!?」

「寒いぞ、この時期の海は。それと移動手段はバイクしかねえからな。着込んで来い」

 自分で言い出したことながら、一笑に付されるとばかり思っていたので拍子抜けした。ユメノは小首をかしげて「タイラ、今帰ってきたところでしょ?」と聞いてしまう。ちょっと歯を見せて笑ったタイラが、「ああ。俺の気分が変わらないうちに支度するんだな」と言った。

 ユメノは高速で頷いて上着を引っ張り出してくる。タイラがけらけら笑って「トイレはどうした」と言うので、「行くよ!」と顔を真っ赤にしてその足元を蹴った。




☮☮☮




 例のごとくユメノの頭には大きすぎるヘルメットを被せられ、不安定な乗り物に揺られている。傾くたびに胃の辺りがふわっとして、慣れない。だけど寒さはそれほどでもなかった。向かい風は全てタイラが受けていて、背中にいるユメノを避けていく。景色は見なかった。タイラのジャケットの、ガソリンみたいな匂いばかり鼻をついた。


 バイクを降りたとき、タイラはユメノに握りしめられてくしゃくしゃになったジャケットを伸ばしていた。申し訳ない気持ちは少しあったが、その姿が何だか可笑しくてちょっと笑う。


 堤防の上にある自動販売機でホットココアを買ってもらって、浜辺に降りる。砂に足を取られながら海に近づいた。タイラは片手で缶コーヒーを開ける。その薄まった炭みたいな香りと、ユメノの甘ったるいココアの香りが入り混じる。そうしてすぐ、潮の香りが全てを押し流していった。

 ココアを一口飲み、白い息が漂うのを見る。「冬って何でも綺麗なのに、寒い」と不満を言えば、「寒いから綺麗なんだ。知らないのか」と返ってきた。タイラはといえばポケットに手を入れていて、ユメノはそれを「ガラ悪いよ」と笑ってやる。すると彼は肩をすくめ、波の届かない砂浜に腰を下ろした。

 だからユメノはその膝の上に座る。「隣にしろよ」「だってお尻に砂ついちゃうじゃん」と言い合って、やがてタイラはジャケットの前を開けてユメノに覆いかぶさった。そうして暖を取ることにしたらしい。


「暗くて海なのか何なのかわかんない」

「そうだろうな。地平線も水平線もねえや。全部真っ黒だ」

「でも空には星があるよ。ほら、あそこまでは空」


 タイラがユメノの頭に顎を置くので、「やーめーろ」と避ける。頭上で喉を鳴らし、笑う声が聞こえた。

 そのうちにタイラはユメノの肩に頭を乗せて、動かなくなる。嘘じゃん、と思わず呟いた。

「え? 寝てる? ここで? 凍死しちゃうよ、おじいちゃん」

 返事がない。「もぉー」と言いながらユメノはタイラの手を取って暖めようとこすり合わせた。

 遠くで車が走る音、それと潮騒。他に人がいない解放感と、ひとりではない安心感の、不思議に満たされた気持ちだった。


「あたし、これからどうなるんだろう」

 そう、口をついて出た。波の音にかき消されるほどの小さな声だ。ぎゅっと手を握りしめる。また彼のジャケットがくしゃくしゃになりそうだった。

 不意に耳元で、吐息が聴こえた。


「お前がどうしたいか、だよ」


 それはもう大変に驚いて、ユメノは飛び上がる。「起きてんなら返事しなよ、マジで信じらんない」と腕を叩いてやった。タイラが何でもないように顔を上げて、「こんなとこで寝たら死ぬぞ、凍えて」と言うので「それあたし言ったし」と呆れてツッコむ。

 タイラは頭をかいて、「まあそんな怒るなって」と苦笑した。ムッとしながらも、ユメノは「怒ってないよ。怒ってるんじゃないよ」と話す。そう、たぶん、ただ驚いただけなのだ。


「“これからどうなるんだろう”なんて、お前らしくないな。いいんだぞ、流されるままに生きなくて。たとえばお前は学校に行かなくてもいいんだ。周りばかりがその気になって、嫌気がさしたか?」

「……そうじゃないよ。あたしが、行きたいんだよ。それは間違いないもん」

「じゃあ、どうした。お前が自分で選んだ道で、それほど不安げな顔をしてどうする」


 瞬きをして、ユメノは膝を抱える。「わかんない」と吐き捨てれば、タイラは静かに「わからなくてもいいから話せ」と促す。

「わからなくてもいい。正しくなくても、本当じゃなくてもいい。喋れるだけ喋って、そうすればどれが本当か、口に出した瞬間にお前が自分でわかるだろう」

「でも口に出したら、全部本当になっちゃうよ。そうだったんだって、あたしが一番に騙されるの」

「だったらそれが、元からお前の本心だったんだろう。難しく考えるな。人は、思ってもないことは言えないもんだ」

 そっと顔を見上げる。目が合った。「俺に言えないことがあるか?」と言われ、ユメノは「ない」と答える羽目になった。もうその時点で、恥ずかしさは通り越した。


「あたし、美容師になりたかったし、学校にも行きたかった。ずっと、行きたかった。何だか自分がすごく中途半端な人間みたいで、嫌だったから、学校にはちゃんと行っておきたかった。みんなが経験したことを、あたしもやりたいから、学校に行きたかった。だから今、そういうチャンスがあって、今しかないチャンスがあって、だからすごく浮足立って、ワクワクしてる」

「ああ。わかるよ」

「でも、そうしたらもうこのままじゃいられないんだって最近思うの。少なくとも三年間、あたしは学校の寮に入るんだよ。みんなと一緒にいたかったな、って。もうちょっと後でもよかったかな、って思うの。でも今じゃなきゃ。あたし、だってもう、十八歳だもん。十八歳だよ……中学卒業したての子ばっかりの中で、あたしだけ十八歳で、馴染めるかな、浮いちゃうかな、それってすごく恥ずかしいことなのかな、って思ったらそれも憂鬱だし。行くって決めたのに、みんな応援してくれてるのに、“嫌だな”ってもう言えないし」


 タイラはふっと笑った。実際にユメノはその顔を見ていないので、本当に笑みから発せられた吐息なのかわからなかったけれど、なぜだか笑ったのだと自信を持って断言できた。

「お前が考えるほど、数年遅れて学校へ行くだとか、周囲の連中よりいくらか歳を食っているだとか、そういうのは大して珍しいことではないと俺は思うが」とタイラは口を開く。「それでもお前がそう卑屈に思うぐらいだ。同じように考えるやつもいくらかいるだろう。もしかしたらそれで、悪し様に言うやつもいるかもしれない」なんて静かに肯定する。

「お前がそう気にするのなら、高卒認定試験でも受けて、資格の取れる専門学校に行けばいい。それでも……お前がそうしなかったのは、“高校生”をやり直したかったからだろ?」

 なだめるようなタイラの言葉をひとつひとつ咀嚼して、ユメノはうなづいた。「中途半端なままの憧れを、お前は終わらせに行くんだろう」とタイラが続ける。

「そこに意味はあるのか、あるいは価値があるのか、それは誰にもわからない。お前が行って、お前が体験し、振り返ってお前が決めることだ。結局のところ、やってみなけりゃわからないことはたくさんある」

 あの大きくてごつごつした手で、ユメノの手を握る。少し、冷たかった。「やめてもいい。やめてもいいが、どうして一度はそうしようと思ったのか、それだけは忘れるな」と、タイラは言った。


 それから彼は穏やかな声で「俺は昔、教師になろうと考えたことがあるんだ」と話し始める。ユメノは唐突に飲み込みきれない単語を与えられ、思わずタイラの顔を見た。

「教師? なんで?」

「別に大した理由はない。ただ、学校ってのが好きだったんだ」

「学校好きだったの!?」

「どういう反応だ、それは」

 意外すぎて大きな声が出てしまった。てっきり、学校なんて渋々行くような不良だったに違いないと思っていた。

 苦笑したタイラが、「確かに俺は学生の頃、真面目だったとは言い難い。それでも教師に目をつけられるようなガキじゃなく、目をかけられるようなガキだった。……いや、逆か。俺みたいなガキに目をかけてくれるような教師がそれなりにいたんだ、あの頃。お前たちが何と言おうと、そうだったんだからこれ以上突っ込むな」と肩をすくめた。

「没個性を押し付けるようなあの小さな教室で、多くがそれに反発をした。だけど俺にはそれこそが望ましかった。あの箱の中で、俺はある程度外れた存在であってもその他大勢と同じように“人間”だった。だから学校が好きだった。俺もいつかは卒業するのだと考えて残念に思うくらいには」

 タイラの冷えた手が、ユメノの指をもてあそぶ。海に来てどれぐらい経っただろう。ユメノ自身はそれほど寒くなかった。タイラの腕にすっぽり抱えられているからだ。この人はどうだろう。ユメノよりかは寒いに違いない。バイクに乗っている時と同じ。風は全てタイラが受けている。

「それなら、自分が先生と呼ばれる立場になってみたらどうだろうと思った。そうすれば、俺は俺を律することができるだろうかと。何てことはない。ただ、そういう役割を演じてみたかっただけだ。自分のために」

「“先生”っていう、役割?」

「ああ。色々と考えたけどな。俺は……狭い箱に入れられて不平不満を顔に浮かべた三十余人のガキどもを、きっと愛せると思った。きっと、守れると思った。夢というほど強い想いではないにしろ、それは俺にとって魅力的な話だったんだ」

「……だから大学に行ったの?」

「まあ、そうだな。どちらにしても勉強をもう少し続けたいと思ってはいたが」

 そっか、とユメノは呟く。それから、想像する。ユメノと同じぐらいの歳のタイラが、誰のことも傷つけず傷つかないままで生きていく道を模索していたということについて。そんなかつての平和一を、想像する。


 ねえ、そこでどうやって息をしていたの。


 タイラはユメノの腕を掴んで立ち上がった。「もうすぐ夜が明けるな。歩こうか」と促す。砂に足を取られながら、ユメノはタイラの腕を支えにした。海の方から吹いてくる風が冷たかった。

「まあ、俺は教師にはならなかった。この通り、な」

「うん」

「結局のところ、元よりそんな道はなかったのを、俺が“ある”と思い込んで進んだだけだ。それで大学まで卒業したんだから勘違いってのは強い」

 軽やかな彼の声は波の音にさらわれて流される。こういう時タイラの声はあまりにも自然すぎて、背景に溶けて行ってしまうから、ユメノはそれを忘れないようにするのに必死だ。

「それでもふと考えたとき……たとえば俺は大学に行かなかったとして、あの4年間に何ができたか。大学に行くにしてもゴールを他に定めて別の道に行っていたらどうなっていただろうか。そんなことを考えたときに、」

 不意にタイラが黙る。言おうか言うまいか考えている顔だ。それから認めたくなさそうにまた口を開く。

「だけど何度考えても、『行かなけりゃよかった』とは思えない。楽しかった。たとえ、他に繋がる道でなくとも。無駄だったかもしれない。意味もなかったかもしれないな。それでも、。価値がないものと、俺は思わない」

 ユメノは立ち止まり、目を見開いてタイラの顔を見た。タイラもじっとユメノを見下ろして、「お前も必ずそう思うようになるという話ではないが」と続ける。

「犬も歩けば棒に当たるように、人間ってのはどこをどう歩いてたって運命とぶち当たる。不変を望んで歩いていたって、その時が来れば呆気ないほど簡単に人生は変わる。良くも悪くもそうだ。せいぜい、やりたいようにやることだ。歩きたいところを歩けばいい。ただ、タイミングだけは逃すなという話だ」

 まだ呆然としているユメノを見たタイラは吹き出し、けらけら笑った。そしてユメノの腰に手をあて、足をすくうようにして一息に抱き上げる。


 海の向こうから昇った朝日が柔らかく辺りを包んだ。自分を抱き上げる男より目線が高くなったユメノは、必死の思いで彼の肩を掴む。一瞬、世界が白くなった。朝焼けが、色んなものの境界線をなくしていく。笑うタイラの目尻には目立たないくらいの皴があった。

 大きな、それでいて凛と立つ止まり木だ。飛び立つことになるまで気づきもしなかった。こんなにも守られていたのに。


「おわかりですね、お嬢さま。空も海もそれ以外も全てがお前のもの。どこへでも行ける、お前がそう望む限りは。不安に思う必要はない。なんせお前の未来はまだ、どこも閉じていないんだ」


 洗われるような朝だった。色んなことが、冷たく綺麗になっていく。

 何か腑に落ちるような、自分で自分の勘違いに気付いたような気持ちがした。きっと、落とし穴があるに違いないと怯えながら歩かなくてもよかったのだ。ここしばらくのユメノの鬱々とした感情は、そういうものだった。寂しいのも不安なのも本当だったけれど、一番に怯えてしまっていた。

 今更、怖いものなどあるもんか。


「それでもどこかでどうしようもない壁にぶち当たって、べそをかくようなら帰って来いよ。あいつらが喜ぶ」

「タイラは? 喜ばないの?」

「さあな」


 もうすっかり辺りは明るくて、白っぽい泡と共に寄せては返す波が見えた。すとんとユメノを降ろして、タイラは歩き出す。ユメノも一歩遅れてそれに続いた。

「ねえ、タイラ」

「ん……」

「人生やり直せることになったらさ、まるっきり変えられるってことになったらさ、変えたい?」

「ああ、いくらでも変えるだろうな。どうせだったら色々やらなきゃ、勿体ないだろ」

「ゲームみたいなこと言うじゃん」

「次があったら今度は面白いことしかしたくねえな」

 ユメノはタイラの腕ではなく、手を掴んで歩く。冷たい。「寒いね」と呟けば「そうだな」と返ってきて、それがなんだか無性に嬉しかった。




☮☮☮




 タイラは頭をかいている。目の前にはこじんまりとした建物。木造のログハウスのような趣だ。海の家ってやつかな、とユメノは思う。

「今、何時だ?」

「もう3時だよ」

「……帰るか、さすがに。迷惑だな」

 そう言ってタイラが背を向けたその時である。目の前のドアが開き、髪の明るい男が「おーいッ」と飛び出してきた。


「お前ッ、馬鹿! お前のバイクの音が聞こえたときからスタンバってたっつうの! 遅いッ! 一回寝たわ! つうか帰んなよッ!」


 男はタイラの胸倉を引っ掴んで「こっちに来たら絶対顔出せよって言ってんじゃん」と揺さぶっている。「元気だな、伊達。3時にそのテンションは無理だぞ」とタイラが真顔で言った。

「上がってけ、クソ野郎。寒いだろ」

「それはありがてえが」

「そのかわい子ちゃんは?」

 いきなり顔を覗き込まれ、ユメノは慌てて「こんにちは」と挨拶する。男はハッとした様子で、「ユメノチャンだろ!!! 君、ユメノチャンだろ!!! タイラが『絶対にお前には会わせない』と頑として写真すら見せてくれなかったユメノチャンだ!!!」と大興奮でユメノを指さした。タイラは隣でこめかみを押さえていた。


「オレ、伊達。伊達ちゃんって呼んで。タイラとは大学が同じでね」

「別に学部が同じだったわけでも何でもないんだが、こいつが一時期麗美に付きまとっていてだな」

「ちょっ、人聞き悪くない?」


 ほんとそういうんじゃないからね、と言いながら伊達はユメノたちを中に入れてくれる。「そういうんじゃないって麗美の前でも言えるか?」とタイラが煽ると、「うるせえ、お前がそれを言うんじゃねーよ」と伊達はため息をついた。

 室内は暖かかった。夏は海の家として営業しているらしいが、今の時期は釣り具の販売・貸し出しや雑貨屋をやっているらしい。洒落たブレスレットなどが壁にかけてある。

「こんな時期に、しかもこんな時間に、よく海に来ようなんて思ったねー。オレちょっと様子伺っちゃったよ」

「まあ、な」

 親しげにユメノを見た伊達が、ふわりと「“海に行きたい”って思う気持ちにはさ、多かれ少なかれ『流されちゃいたいな』って心が含まれてるってオレは思うんだよね」と笑った。「だけど今君の顔は『この海も泳ぎ切ってみせる』って感じだ。大事だぜ、そういうの。あ、ラーメン食う?」と奥の棚から見慣れたパッケージを引っ張り出して来る。


「……こんな時間にラーメンなんて食べられないよ」

「あら。まあ、そだね。タイラは食うだろ?」

「おう」

「冬の海で食うインスタントラーメンは美味いですよぉ、おじょーさん」


 お湯が沸いて、容器になみなみとそそがれた。いい匂いがする。ユメノは膝を抱えながら、「食べるぅ」と敗北宣言をする羽目になった。タイラと伊達が、同時にニヤリと笑う。『おっさん嫌い』とユメノはぶうたれた。

「ユメノちゃんのには卵落としたげようね」

「え、俺のも入れろよ」

「タイラくんに食わせるために鶏は卵産んでないから」

「は?」

 無精卵なんて誰が食ったっていいだろ、とタイラは悲しそうな顔をする。笑った伊達が「ハイハイ」と言いながら卵を割った。


「大学で、麗美さんも仲良かったの?」

「そりゃもう、しょっちゅう絡んでたよ。オレとこいつと、瀬戸ちゃんと、あと由良な。こいつの部屋で一晩中麻雀やってた」

「そうなんだ! ユラ、さん? ってショーくんのお父さんでしょ。同じ大学だったんだ……」

「ショーくん?」

「章のことだ」

「あー、アキラくん! アキラくん元気? オレが見たの、こんなちっちゃい時だったけど」

「章はもう十五だぞ」

「十五!? 十五歳!!? そんなんになる!!?」


 深呼吸しながら伊達は「信じらんねえ。そりゃこっちも歳取るわけだわ」と呟く。それから「十五歳かぁ、由良の息子が。あと五年もすれば二十歳じゃん。マジかよぉ」とうつむいた。

「あーダメ。最近マジで涙腺が緩い」

「おっさんみてえなこと言うなよ」

「おっさんだろ、オレもお前も」

 タイラは一瞬嫌そうな顔をしたが、すぐに「そうだな」と頭をかく。その様子をユメノは麺を啜りながら見て、くすりと笑った。

「アキラくん、どうなの。由良に似てる? それともあの信じらんないほど美人な嫁さん似?」

「あー……どうだろうな。由良に似てんじゃねえか、人使いの粗さとか特に。由良の百倍、礼儀正しくて頭もいいが」

「頭いい由良とかそれ一番厄介だから」

「違いない」

 ユメノから見れば章は大変美雨に似ていると思うが、由良という人のことを知らないので口を挟まずにいた。「えー、会いたい」と言い出す伊達に、「それはどうかな」とタイラは言葉を濁す。呆れたように伊達は「何か都合が悪いのかよ。お前らほんと、色々あるよな」と肩をすくめた。しかしそれ以上は追及せずに、「写真ぐらい見せろよ」と笑う。


 ラーメンを食べ終えて小さく「ごちそうさまでした」と呟くユメノに、「美味しかった?」と伊達が尋ねてきた。ユメノは頷いて、「冬の海で食べるインスタントラーメン、美味しかった」と笑う。「可愛いねえ、ユメノちゃん」と伊達は頬杖をついた。

「昔の話、聞きたい。大学のころの」

「いいよー! どれがいいかなー。タイラくんが酔って真冬の川に飛び込んだ話とか」

「おい馬鹿やめろ」

「よくよく思い出してみれば、お前って酔っ払うと水に入る癖ない? 前世はお魚だったのかな?」

「お前は酒が入ると小学生みてえな下ネタ言ってはしゃぐよな」

「で、由良は脱ぐ。これはもう間違いない。瀬戸ちゃんは歌うし」

「なんであいつ歌うんだろうなぁ……よりによってなんであいつが歌うんだろうなぁ……」

「そういうこと言うなよ、瀬戸ちゃんに殺されるって」

 そういやあの時さぁ、と伊達が口を開く。ユメノの知らない話を、楽しそうに始めた。思い出そうとして険しい顔をしていたタイラが、記憶を探り当てた様子で破願する。「お前それ今言うか?」「いやだっておかしいじゃん」と異様なまでの盛り上がりを見せる。


 当時のことを『楽しかった』とタイラは言った。そしてその意味を今目の当たりにして、ユメノは素直に羨ましいと感じる。

 友達が、できるといいな。こんな風に、話をできる友達が。




☮☮☮




「寝ちゃったねえ」と、伊達が囁く。タイラの肩に頭を乗せて、ユメノはすっかり眠ってしまっていた。「懐いちゃってまあ」と伊達はにやにや笑う。「寝不足なんだろう、最近はずっと受験勉強で夜遅くまで起きていたからな」とタイラは瞬きをした。

「ユメノちゃん、受験なの?」

「美容師志望でな。資格の取れる学校に行くつもりなんだ」

「あそこら辺にそんな学校ある?」

「ない。学校の寮に入る予定だ……合格すればな」

 へえ、と伊達は目を丸くする。「じゃあ、寂しくなっちゃうじゃん」と眉根を寄せた。ふっと笑ったタイラが「ああ」と呟く。

「そうだな。寂しくなるよ」

 驚いた様子の伊達が「素直じゃーん、どしたのよ」とのけぞった。うるせえなあ、とタイラは苦笑する。


「“行くなよ”って言えないの?」

「馬鹿か。そんなこと言ってどうする」


 ため息交じりにタイラは「大体、縛り付けたいとは思ってねえんだよ俺は」と頬杖をついた。

「そんなこと言ってぇ、タイラくんって大事なもんは囲いたいタイプじゃん? 宝物は誰にも触ってほしくないくせに」

「何の話をしているんだ」

「わかんねえのかよ」

「わかんねえよ」

 呆れた顔をする伊達に、タイラは瞬きを一つして見せる。「わかんねえが、ユメノは学校に行くべきだとは思うよ。絶対なんてことはないし永遠なんてもんも保証されてないんだからな」とタイラは口を開いた。「そっちこそ何の話してんの?」と伊達が怪訝そうな顔をする。

「何一つとして絶対が保証されていないこの世界で、いつかこいつらは今拠り所としているものを失くすかもしれない。その時に、“自分にはそれ以外になかった”と思い知らされることは……存外、しんどいものがある。そして人生ってのは、得てしてそこからの方が長い」

「……そうかもしれないな」

「“可愛い子には旅をさせよ”ってことだよ、有り体に言えばな」

「ほんとおっさんになったねえ、お前も」

 ユメノはすやすや眠っている。柔らかな髪がタイラの頬をくすぐった。


 そうだ、とタイラは壁にかかったブレスレットを指さす。「あれいくらだ?」と尋ねれば、伊達は「あれ? 欲しいならやるよ」と言って取ってきた。いや金は払うが、とタイラは眉間にしわを寄せる。にやにや笑った伊達が「贈り物ですかぁ~?」とユメノを横目に見た。

「ターコイズの石言葉は“成功” “旅の安全”ですよ、お客さん」

「聞いてねえよ。いいから値段を言えっつうの」

 耐え切れなくなったように明け透けに笑って、伊達は「ねえ酒飲まない?」などと言ってくる。「飲まねえよ、もう朝だぞ。帰れなくなる」とタイラは吐き捨てたが、「一杯だけ、一杯だけ。昼過ぎに帰ればいいだろ」と言いながら伊達は厨房の方へ歩いて行ってしまった。

 盛大にため息をついて、タイラはちらりとユメノの寝顔を見る。飲んだら怒るだろうな、と考えた。早く帰って勉強をしたがるだろうな、と。



“人生やり直せることになったらさ、まるっきり変えられるってことになったらさ、変えたい?”



 妙なことを聞くものだと思った。可能性の話などタイラにできるものか。

 だけれど、どうだろうなと再度考えてみる。ユメノの髪を耳にかけてやりながら、「まるっきり、ねえ」と呟いた。そうして目を細める。可能性の話など、できるものか。


「どんな人生を歩んでも、旅路の果てに、またお前たちに会いたい」


 はしゃいでワインなど持ってきた伊達に「帰る」と宣言すると、伊達はひどく落ち込んだ。「また来るよ」と肩を竦めれば、「絶対だぞ、来いよ、1ヶ月以内に来いよ」と念を押される。聞き流しながらユメノを起こして、外に出た。




☮☮☮




 タイラのバイクから降りて、ユメノは「んーっ」と伸びをする。すっかり朝日は昇り切っており、外からカツトシの酒場を覗く。仲間たちが朝食をとっていた。

 ふと、上着のポケットが膨らんでいることに気付く。バイクにまたがる瞬間までは寝ぼけていたので気づかなかったのだろう。何か入っているようだった。

 そっと手のひらに出してみて、「ねえこれ」とタイラに見せる。それは美しい青緑色の石がついたブレスレットだった。伊達の店の中で見たものだ。

「伊達がお前にやるってよ」

「えーっ、お礼言わないとじゃん」

「言っとくよ」

 いそいそと腕につけてみる。「綺麗」と呟いた。海のように、空のように、深い色だった。

 何か思い出したらしいタイラが、「ターコイズの石言葉は」と口を開く。「“成功” “旅の安全”だそうだ。伊達が言ってた」と続けた。へえ、とユメノは感心する。

「大事にする! って言っといて」

「ああ」

 何か眩しそうに目を細めたタイラが「伝えとく」と頷いた。

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