★あといくつ寝たら、春は来る

 階段を降りたところで、ノゾムはカウンターを覗く。例のごとくというか、タイラとカツトシが言い合っていた。

「俺は残飯処理担当じゃないんだよ。余ったら俺に食わせとけばいいと思ってるだろ」

「いいじゃないの別に」

「いいじゃないの別に、じゃなくて」

「大体1日経ったくらいでこの僕の料理を“残飯”と呼ぶのは許しがたい」

「えっ、そんなキレ方ある? ごめん……」

 近づいていくとカツトシが気づいて「あんた起きるの遅いわよ」とノゾムに顔をしかめてみせる。「すみません」と言いながらカウンターに腰かけた。


 タイラはノゾムの襟を正して、頬杖をつく。「寝癖ついてるぞ」と指摘されたので「先輩よりマシっすわ」と肩をすくめた。

「? 俺のどこに寝癖がついているんだ」

「毛先遊ばせすぎですよ」

「勝手に遊んでんだよ、これは。俺の毛先が」

 倒置法に倒置法を重ねるスタイルかぁ、とノゾムはぼんやり思う。寝不足だった。

「べんきょー?」とカツトシが端的に確認してくる。「いや、ソシャゲのイベントです」と答えておく。実際のところ根を詰めて試験勉強などしているわけだが、『へえ、頑張ってるんだね』とは死んでも思われたくない性分だった。


 伸びをするノゾムに、カツトシはサンドイッチを出す。「俺には昨夜の残りだったのに」とタイラが眉をひそめた。

「あんたが食べなきゃ捨てるしかないものだってことを、あんたが一番許さないんだから、あんたが昨日の残りを食べることは理にかなってる」

 たっぷり3秒ほどの沈黙の後で、顔をしかめたタイラが「うん?」と聞き返した。


 サンドイッチを頬張る。新鮮な野菜と厚いハムが美味しかった。オレンジジュースの入ったグラスが置かれ、ノゾムは咀嚼しながら礼を言う。「食べてる時に喋らなくていいから」と嫌そうな顔をされた。

「お前、受かったらどこに住むつもりなんだ?」

 そんなタイラの問いに、わざとサンドイッチを頬張りながらもごもご言うというボケを返す。タイラは笑いながら「ハイハイ、俺が悪かったよ。飲み込んでから喋れ」と肩をすくめた。


「まだ“受かったら”の話するの早くないすか。試験受けてもないですからね」

「そうはいっても部屋探しとかなきゃ見つからなくなるぞ。大学から一駅離れたアパートなんかに住む羽目になったら毎日大学行く気なくなるからな。そのまま留年するお前の姿が見える」

「勝手にひとの未来予想図立てないでください」


 カツトシに「ごちそうさまでした」と皿を渡すと、「お粗末様でした」と言葉が返ってくる。そういう日本語を、一体だれがこの人に教えているのか。あるいは勝手に覚えるものなのか、ノゾムは不思議に思うとともに少し面白い気持ちになった。

「つうか、先輩はそんな真面目に行ってたんすか、大学」

「真面目かどうかはさておき、余裕で卒業したよ」

「マジで言ってます? 瀬戸さんに聞きますからね」

「おう、聞けよ」

 腕を組んだタイラがにやにや笑う。どうやら本当にストレートで卒業したらしかった。それはそれとして面白そうなので瀬戸麗美から話は聞いておこうと思う。


 食事を終えたらしいタイラが「ご馳走様」と皿をカツトシに差し出した。カツトシも何でもないようにそれを受け取って「文句言う割には完食じゃないの」と憎まれ口を叩く。そういえば、とノゾムは頬杖をついた。

「昔は先輩、律儀に料理を注文してそのたびに金払ってませんでした? 『ここのコーヒー高いんだよな』って文句言ってましたよね」

 いつから、金銭のやり取りなくここで食事をするようになったのだろう。よく思い出せない。

 タイラもカツトシもきょとんとしている。『そんなことは考えたこともなかった』という顔だ。それから同時に苦笑した。


「いいのよ、そもそもこいつの財布は僕たちの財布でもあるんだから」

「客として注文するときはちゃんと払ってるだろ」


 立ち上がったタイラが背を向けて、「あっ」と呟く。カウンターに寄り掛かり、「お前、免許取ったか」と聞いてきた。

「免許、というと……車の?」

「その反応はアレだな。思考の外だった反応だな」

「えっ……取った方がいいすか?」

「お前が行くって言ってた大学、遠いだろ。あとあの辺はお前が思っているより田舎」

「えー、マジか。いや遠いだろうなと思って、オレあっちに住むつもりだったんすけど。それでも生活に支障ありますかね」

「大学周りは色々あるから、本当にその近くに住めれば問題ないんじゃないか。車はあった方がいいだろうが」

「今から無理でしょ」

「無理なことねえよ。センター受けたらすぐ合宿免許申し込めって。車は俺が買ってやるから」

 さらっとそんなことを言われて、ノゾムはフリーズする。思わず「は?」と聞き返した。

「今、オレに車買ってくれるって言いました?」

「ああ、言ったよ。合格祝いにな。親父さんには内緒だぞ」

「なんであんたはそうやってナチュラルにオレにプレッシャーをかけるんです??? てかなんであんたがオレの車を買うんです???」

 唇に当てていた人差し指を下ろして、タイラはけらけら笑う。「正直に言うと、俺が車を買おうと思ったんだ。だからこれは、『お前の名前を使って車を買わせてもらえるなら、ついでにお前の車も買ってやる』という話になる」と肩をすくめた。

 ノゾムはため息をついて、「なーにが『合格祝い』だよ」と眉をひそめる。

「変に口先だけで先輩風吹かせないでくれます?」

「うん? お前が“先輩”と呼ぶ限り、俺はお前の先輩なんだが」

 言葉に詰まって、ノゾムは「そういうとこっすよ……」と吐き捨てた。タイラは聞こえなかったふりをして「何がいいかな、初めての車は……軽か?」などと勝手に話を進めている。

「オレ、ポルシェがいいっす」

「ポルシェに初心者マークつけて走るつもりか? 変な奴らに絡まれるぞ。そのレベルの車が欲しいならいずれ自分で買え」

 なんにせよ、とタイラは目を細めてノゾムの肩を軽く叩いた。「この春にな」と言って歩いて行ってしまう。そのままドアを開けて、見えなくなった。


 息を吐く。妙に不貞腐れたような顔をしてしまった。

 カツトシがカウンターの向こうから乗り出してきて「あんたやっぱり、ここ出てくの?」と聞いてきた。

「……まあ、受かったらそうですね。遠いし」

「ふうん、そう」

 すっかり飲み終えていたノゾムのグラスを片付けながら、カツトシはぽつりと「寂しくなるわね」と呟く。ノゾムはおもわずむせて、「今なんて?」と聞き返してしまった。

「デレました? アイちゃんさん、いま、デレました?」

「うるさいわね、あんた。人の好意をそうやって茶化すやつはあの男の二の舞になるわよ」

 ノゾムは閉口し、頭をかく。ゆっくりと瞬きをしたカツトシが、「あんたは自分のことを、平凡で面白みのない人間だと卑屈に言うこともあるけど」と口を開いた。

「変な子よ、あんた、とっても。変な子のくせに、自分のことを平均的だと思い込んでいる辺りが一層変ね」

「アイちゃんさんに“変な子”と言われてしまった……」

 くすくす笑ったカツトシが、「ここには必要だったのよ、あんたみたいな子が」と言う。“倒置法”とノゾムは思って、次の瞬間に顔を赤くした。


「……勉強してきます」

「今日はもう寝たら? 顔色が良くないわよ」

「じゃあ、寝ます……」


 階段を上りながら、横目でカツトシの様子を伺う。彼はうつむいて目を細め、何か呟いたようだった。恐らくノゾムにはわからない言語だ。

『寂しくなる』という言葉には、多分にユメノのことも含まれているのかもしれない。ユメノはまだ直接カツトシに話をできていないようだが、彼も薄々気づいてはいるだろう。


 そうまでして、学校なんか行くべきなんだろうか。


 時折そんな風に思う。

 今の生活を変えてまで、行くべきだろうか。だってこの暮らしは、ほとんど奇跡なのだ。本当なら出会えるはずのなかった人たちだ。ここを一度離れて、また同じように暮らせるかわからない。


 そんな想いを見透かすように、ここぞとばかりにタイラがノゾムにとって分不相応な評価を口にする。『お前はできるはずだ』『そこに何の疑問もない』と話す。それならやるか、仕方ないな、という気持ちにもなってしまうのだ。

 あの人はどうせ、オレたちがいなくても何も変わらないんだろうな。何も変わらないついでに、あのままの姿でオレたちを待っていてくれるだろうか。


“なんにせよ、この春にな”


 そんなタイラの言葉を頭の中で繰り返す。あの人だけが、そうやって簡単に季節を超えてゆく。幻想だ。被害妄想だ。それでも、そう思わざるを得なかった。

 やはり寝不足が極まっていたようで、ノゾムは自分でも気づかないうちに眠っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る