第15話
コンビニで買った幕の内弁当は、すっかり冷めきっていた。小一時間ほど、段ボールの中に散乱していた写真を見漁っていたのだ。今ではすっかり撮ることの無くなってしまったカメラには、埃が被ってしまっていた。
朧げな気分で台所から洗濯したばかりの布巾を手に取り、カメラの手入れを始めていた。手に取ったカメラからは、ずっしりとした重みが伝わってきた。けれど、自分の手の形にしっくりくるフォルムと添えた右手の指先にはこれまでに何千何万と押したであろうシャッターボタンの銀メッキが輝いていた。
電源のつかないカメラのファインダーを覗き、レンズのフォーカスリングをぐるぐると回す。僕はこうやっていつも世界を見ていたのか。もはやそれすらも過ぎ去ってしまった出来事だ。
僕はもうこのカメラに電源を入れることは無い。必死にお金を貯めて購入したカメラはたった一年使用しただけで、その役目を終えた。ファインダーを覗いた先にいた彼女はもういない。僕と彼女の出会いは突然の出来事だったが、別れも唐突に来たのだ。
夏休みが終わると、いよいよ受験で忙しくなった僕は、彼女と連絡を取ることがめっきり少なくなってしまっていた。初めのうちは毎日のように連絡を取っていたが、彼女のほうも仕事が軌道に乗ってくると、徐々に連絡が途絶え始めていた。お互いの人生に大きな機転が生じ始めたのだ。
僕は、国立大学への進学基準に十分に達するほどテストの点数が良かった。一方彼女は、海外事業の責任者に大抜擢され、海外と日本を行き来することが多くなった。
これでもしばらくは、毎日のように電話やメッセージをやり取りしていた。けれどお互いがさらに忙しくなるにつれて、連絡は途切れ途切れになりつつあり僕の大学受験が迫ってきた頃、いよいよ連絡が途絶えてしまった。
僕に気を使ってか、彼女のほうから連絡を寄越すことは無く、一方の僕も連絡のタイミングを逃し連絡することを辞めてしまった。
志望校には、危なげなく合格した。合格したことをメッセージとして残したが彼女からの返信が来ることは無かった。
短くも濃密だった彼女とのひと時は、僕の人生において多大な影響を与えたことには間違いなかった。けれどそれが無くなり、僕の中に残った彼女への思いは、栓を抜かれた風船のようにゆっくりと時間をかけて日常の空気の中に消えていった。
初めて女性を好きになった。自分以外の人に初めて好意を向けた。そんな僕の経験は、それからの大学生活では活きることは無かった。
大学生活が始まると、周りは華やかに着飾った女性にあふれていた。かつて華さんに見た雰囲気とはまた違う、文字通り大人を着た女性ばかりだと思った。
何気なく入ったアウトドアサークルは、週に何度か飲み会があり最初のうちは出来る限り参加した。苦手なお酒も、周囲に合わせるように無理をして飲んだりとらしくないことをずいぶんとした。
世間の大学生がするようなことを一通り行ったけれど、僕の心は満たされることは無かった。
大学の4年間は、あっという間に過ぎ去り就職活動へと突入していった。
正直、何社受けたのかわからない。結局卒業ぎりぎりになって、1社から内定をもらい、僕はそこへ就職することに決めた。
卒業間近、明彦から飲みに行こうと連絡があった。
高校卒業以来の明彦は、スーツ姿で髪の毛もジェルで固めいかにも営業マンというような風貌をしていた。
待ち合わせ場所に先にいた僕は、前から向かってくる明彦に手を振って呼び寄せた。
「紡!久しぶり!全然変わってないな~。ちゃんと飯食ってるか?」
「まあ、ぼちぼちな。そういう明彦はずいぶんと立派な感じになったじゃん」
「ああ。この格好か?今日、内定先のインターンだったんだよ。地元の企業なんだけど、ゴリゴリの営業って感じでさもう何度か契約も取ったんだぜ?これがずっと続くとなると体力的にしんどいわ」
明彦は渋い顔をしていたが、意外と充実してそうだ。
もともとコミュニケーション能力の高い明彦だ。お客さんの懐に入っていくのが得意なのだろう。営業というジャンルがハマってそうだ。
僕らは待ち合わせ場所近くの居酒屋へ入った。
乾杯を敷いた後、一息つくと、「彼女とはどうなんだよ?」と唐突な質問に、口に含んだお酒を吹き出してしまった。
「あはは。大丈夫かよ。その反応を見ると、あまり上手くいってないみたいだな」
おしぼりで噴き出したお酒をふき取りながら、今までの経緯を話した。
「ふーん。つまりは、お前の中で話を終わらせちゃったわけだ」
「話しって…… まあ彼女も外国にいて仕事も忙しいわけだし、徐々にこうなっていったのは、目に見えてたんだよな」
「ふーん。お前はそれでよかったのか?」
明彦の柔らかい雰囲気が一瞬、鋭いナイフのように鋭く僕の胸に突き刺さった気がした。
突き刺さった刃から、徐々にひんやりとした冷たさが体の中を侵食していく。
その冷たさに僕の心臓は、鼓動を早め身体を震えさせた。
良いわけない―――。でももう遅い。何年経ってると思ってるんだ。4年だぞ?それだけあれば、お互いに新しい恋が始まることだってあるだろう。
これも一つの形だと思っていた。よくある話じゃないか、遠距離になった男女交際は続かない。どちらかが見切りをつけて、関係を自然消滅させていくことなんて、世の中ではざらにある出来事だ。
僕は彼の質問に面と向かって答えることができなかった。
長らく連絡をしていなかったのに突然連絡をすることで、関係が回復するなんてとても思えなかったし、何より今までほったらかしにしてしまっていた後ろめたさから、彼女への連絡に踏み切れなかった。
そんなことを見透かされているかのように感じた明彦の言葉は、僕の中に深々と突き刺さってきた。
「まあ、お前がそれでいいって思うならそれでいいんじゃないか?どんなドラマがあったにせよ、続きを決めるのはお前たちだ」
「明彦…… なんか爺臭くなってない?」
雪解けのように明彦の表情が徐々に柔らかくなり、「そうか?」といつもの明彦の笑顔を見せた。
それからはあっという間に時間が過ぎ、終電間際なって明彦と別れた。
別れ際、明彦が「ドラマってのはハッピーエンドが一番いいぞ」と言っていたのが、少し気になった。
※※※※※※※※※※
カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、朝を告げる。
机に突っ伏して寝たおかげで体中が倦怠感が襲っており昨日、帰宅してからの記憶が朧げになっていた。
口元から流れ出たよだれを袖口でふき取りながら、辺りを見回した。
ああ、昨日はカメラをいじっていて、そのまま寝ちゃっていたのか。
意識が徐々に覚醒していく中、床に置かれた写真、そして机の上に無造作に置かれた退職届を見やる。
昨晩はとても長い夢を見ていた気がした。朧げな記憶に見た夢は、きっとこの写真が見せたものなのだろう。
「結局、僕は何もかも中途半端なまま投げ出しちゃったんだな」
深いため息で僕の胸の内から湧き出る思いを吐き出した。
目線は、目の前のどこを見ているのでもなく、頭の中に思い浮かんだ情景を見回していた。
あの頃は何もかもが新鮮で、目の前のことに夢中だった。一日一日があっという間に過ぎ去っていった。
一人の時も明彦と遊んでいるときも、華さんが僕の横で笑っているときも。僕は満たされていた。
今の僕はどうだ―――
テレビの画面に反射した自分の顔を見て、思わずにやりとした。
「何て顔してんだ僕は。これじゃあ華さんに笑われちゃうな」
唐突に僕の頭の中で華さんが笑った姿を想像してしまった。
すると突然、胸の中に止めどない何かが湧き出してくる感覚に襲われた。
そうだ。そうだった。僕は主役になりたいと思ったんだ。観客でも脇役でも無く、『主役』に。僕と華さんの物語の主役は、僕だ。それは今も変わらない。
目を閉じ、深呼吸してその何かに集中する。
徐々に満たされていく感覚。それは胸の内では収まらず体中を駆け巡ってきた。
指先から足先、頭の中までそれに満たされると、体中にのしかかっていた倦怠感はどこかへ行ってしまった。
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