最終話
軽めの朝食を済ませ、数年間埃を被せてしまっていたカメラを鞄にしまい、外に出た。
いつもは会社に向かうために使う電車。けれど今日の方向は逆。
緊張や不安にに押しつぶされるのを堪えながら乗る憎たらしい電車とは違い、今日乗った電車は僕をまだ見ぬ目的地へと連れていく箱舟のように思えた。
電車を乗り継ぐこと2時間。急いでいるわけでもなかったので、比較的空いている各駅停車の電車に乗った。
ついた駅には、地元の特産品が並べられ、お店の前には観光PRのために作られたゆるキャラのポスターやタペストリーが貼られていた。
ここは少しも変わらないな。お店の雰囲気も並んでいる商品も。ゆるキャラに関しては置いておいて……
僕が初めて来た時と何も変わらない。まるであの頃に戻ったようだ。
バス停に着くと、目的地まで行くバスが発車を今か今かとエンジンの音を震わせていた。
一番後ろの空いた席に座ると、バスの扉が閉まり、ゆっくりと前進していった。
バスが駅前を過ぎると、一気に町並みは変わり古民家や昔懐かしい町並みが広がり始めた。
ものの10分ほどバスに揺られ過ぎ去る街並みを窓のそばで見つめていると、視界はある時を境に一気に広がり、目の前に地平線の彼方まで続く長く太い大河が広がってきた。
懐かしい―――
僕が初めてカメラをもって撮影に来た場所だ。あの時は、桜が満開の時期で川の隅に落ちた花びらでいっぱいになっていて綺麗だった。
どこまでも続いている桜並木は、僕の頭のすぐ上で咲いていて、見に来た僕らを歓迎してくれているようでもあった。
そして何より、ここは僕と彼女が初めて会った場所だ。
目的地のバス停に到着すると、冬の残り香ともいえる冷たい風が首筋をなぞる。けれど天から降り注ぐ日の光は、春の訪れを感じさせるように暖かく、そして柔らかく僕を包み込んでいた。
河川敷へ続く階段を上ると、目の前には広大な大河が視線をくぎ付けにする。
春になればまた桜が一面に広がり、見事な絶景へと変化するのだろう。
あの時に比べると少々絵力に劣るが、それでも今の僕がとるには分不相応だと感じた。
辺りを見回し行く先を決め、鞄からカメラを取り出し撮影の準備を始めた。
久しぶりに外でカメラを手に持つ瞬間―――
両手にずしっとした重み、握ると人差し指にはこれまで何千何万回と押し続けてきたシャッターのスイッチがひんやりとした冷たさで密着した。
レンズのカバーを外しポケットにしまう。
カメラの電源を入れ、充電とメモリ残量を液晶画面で確認して準備は整った。
河川敷をゆっくりと歩きだし、被写体を決めていく。
やっぱりこの川がいい。ゆっくりと流れる川の水に春の日差しが反射して、きらきらしている。
そういえば僕は、綺麗な写真を撮りたかったんだ。綺麗な景色を撮ると、自分の心に響いてくる。
あの写真展の写真のように、誰かの心に響く写真を撮っていたかった。
カメラを構え、ファインダーを静かに覗き始めると辺りの音がすうっと小さくなっていくような気がした。
ああ、これだ―――
僕はこの感覚が好きなんだ。僕の視線はファインダーの中の世界だけを見つめている。そこに写るものだけが僕の世界だ。
音も匂いも足が地面を踏みしめている感覚も、僕にとってはどうでもいい。
孤独。
今の僕にぴったりじゃないか。みんなと同じ世界を生きていく必要なんてない。僕は今ファインダーに写る世界の中にいる。36.00mm×24.00mmの中に凝縮された世界にたった一人で僕はいる。
ゆっくりとシャッターに指をかけ、左手でレンズのピントを細かく合わせる。
そして、指先に力を込めてシャッターを切る。
カシャンという音と共に僕の見ている世界が切り取られていった。
液晶画面に映し出された世界は、色とりどりに輝き、写る太陽からは暖かさが感じられた。流れゆく川の水の一瞬を切り取り鮮明に映し出された水の表面は宝石のようにきらきらと輝いていた。
久しぶりにしては満足のいく写真が撮れたなと自分に賛辞を贈ると、次第と口角が緩くなっていった。
次なる被写体を探し、ゆっくりと歩き始めると、吹き抜ける風が次第に強くなっていた。
桜が満開だったら、きっと吹雪のように降り注ぐのだろうな。
川のほうに向いていた視線を、枝だけの桜の木に向ける。春になったらまた来よう。
桜の花で色づく前の桜並木にカメラを向ける。
カメラの設定を調整し、静かにファインダーを覗き込む。
意識はファインダーの中の世界へ集中し、辺りの感覚が次第に薄れていく。
僕の世界に入る者は誰もいない―――
集中し、右手人差し指に力を籠める。
ファインダーに写りこむ桜並木に集中すると、あの頃の懐かしい記憶が頭の中を駆け巡る。
満開に咲き乱れ、世界が桜色一色に満たされた世界。
暖かな春の世界。
僕が初めて人を写した時。
僕は初めて盗撮魔になった。
桜の木の下で涙を流す華さんと出会った。
僕が撮った写真を華さんが褒めてくれた。
僕の撮った写真で人を幸せにできると知った時。
桜の舞う中、二人寄り添い写真の中の世界を見つめた時。
ファインダーの中に写るあの写真を見た時から、桜の木の下で悲しげに見上げている華さんを好きになっていた。
ファインダー越しに覗く世界の茶色く染まる桜並木が次第にぼやけていく。
僕の頬を伝う涙は、冬の風にさらされ、ひんやりとしていた。
必死に涙を塞き止め、ファインダーの中に意識を戻そうとした。
涙でぼやける世界に目を向け、指先に再び力を籠める。
今にも嗚咽しそうなのを堪えながらしっかりと世界を見据えた。
ボタンに手をかけ、力を込めてシャッターを切ろうとした瞬間、勢いよく背中を押された。
カシャン。
シャッターの音が耳を掠めた後、背中に感じた力によって体制を崩し、そのまま地面に膝をついてしまった。
危うくカメラを放り投げてしまうところだった。いくら首にかけてあるとはいえ、地面にぶつかってしまえば傷がついてしまう。
急いでカメラに傷がないかチェックをしていると、地面に影が現れた。
「あの、大丈夫ですか?」
どうやら勢いよく躓いたのを目撃されていたのだろう。
「えっと、はい。大丈夫です」
カメラをいじりながら答えた。
「カメラ、傷ついちゃいました?」
「うーん、どうでしょうか。傷ついていないといいんですが」
「ちょっと見せてくださいますか?」
人影はそう言うと、僕の首からカメラを外した。
「えっちょっと!」
見知らぬ人に自分の身体ともいえるカメラを触らせるのは、嫌だ。
急いで人影からカメラを取り返そうと、離れていくカメラを追って見上げた。
一瞬、僕の顔を桜の花びらが横切った気がした。
見上げた先の太陽と雲の隙間からは、まるで光のカーテンのように光が差し込み僕とその人影を包み込んでいるようだ。
「やっぱり良い写真」
「え?」
ちょうどカメラで顔が隠れている。
けれど、透き通るような声には聞き覚えがあった。
「ねえ、君。君にしかできないお願いがあります。」
涙が溢れて止まらない。堪えていた嗚咽も止めることはできない。またカメラを持ってよかった。
僕はゆっくり立ち上がり、その人のほうへ涙で溢れた目を向けた。
「なんなりと」
彼女は涙を散らしながら、にこりと微笑み―――
「私を…… 私の幸せな瞬間をあなたのカメラで撮ってください」
泉のように湧き出る思いを全身に感じながら、涙を浮かべる彼女をそっと引き寄せ抱きしめた。
「君が好きです。僕に君の人生の軌跡を傍で撮らせてください」
彼女は僕の背中をぎゅっと抱き寄せ、
「私も君が好き。大好き。だからこの大役を君に任せます。だからもう…… 私を離さないでね」
言葉にならない思いが、僕の頭の中を駆け巡っている。
ありがとう。僕の世界には君は必要なんだ。君だけ居れば他には何もいらない。冬のように冷え切った僕の世界を、君は春一番のように押し出してくれる。これから来る暖かな世界を一緒に歩もう。もう二度と君を離さない。
そして、僕はこれからも君を写し続けよう。君の幸せの瞬間を撮るために――――
彼女の手に持つカメラの画面には、春のような暖かい笑顔でにこりと微笑み、カメラを見つめる彼女の姿が写っていた。
fin.
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