第14話

 しばらく砂浜にうずくまり、潮の香りに満たされながら涙が止まるのを待っていた。

波打つ音と空高く宙を泳ぐトンビの甲高い鳴き声が頭の中に響き渡る。


 脳裏には、華さんとの思い出が走馬灯のように駆け巡り、僕の胸を熱くした。めぐる思い出は、きっとこの真白な砂浜のように波に攫われていくのだろう。

さあ、この体を起き上がらせたら僕は前の生活に戻る。ほんの数か月前の静かなあの日常に―――


 涙で腫れた顔を砂浜から離し、水平線に消えていく太陽に晒す。けれど、僕の視界に太陽が現れることは無かった。いよいよ太陽にも見捨てられたのか。そう思って夕焼けに染まる空を見上げると、そこには夕日に色づいた髪が僕の視界をいっぱいにした。


 その髪の毛をたどると、僕を見つめる人影があった。表情は見えない。けれどその人影には見覚えがある。

影は、その手をゆっくりと僕の顔に近づけ、優しく顔に着いた砂を払い落してくれた。その手から伝わる熱は、僕の中に染み渡り枯らしたはずの涙を溢れさせた。止めどなく溢れる涙は、人影の右手を伝い、赤く色づいた砂浜にシミを作っていった。


 影はその手をそのまま僕の背中へと回し、影と僕の体はゆっくりと重なっていく。

僕を胸に抱き寄せた影からはやさしい息遣いと甘い香りがした。


しばらく僕らは声を発することなくそのままでいた。


「一つ教えてあげる」

最初に声を出したのは、僕を優しく包む人影のほうだった。


「確かに君と約束した。天国にいるお父さんとお母さんに、私は幸せだよって伝えるために私の最も幸福な瞬間を君に撮ってもらうこと。けれど、その瞬間は、君が決めるものじゃない。私自身が決めることなの。もしかしたら、死ぬまでそんな瞬間は訪れないのかもしれないし、知らない間にそれは訪れているのかもしれない。けど、きっとその瞬間はやってくるって私は信じてる」


 僕を抱き寄せる力が少しだけ強くなった気がした。


「私も君を不安にさせた。私もね……同じなのよ。いつかその時が来たら、君と離れなければならない時が来るかもしれない。それが不安でたまらないの。君がいつか私のもとから離れていくんじゃないか不安で仕方がない」


「でも、君に初めて写真に撮られたあの時の一枚。あの写真を撮った君の目は、とても澄んでいて私の心を惹きつけた。それを思い出すといつも思うの。この子はきっと私を幸せにしてくれる。きっと私が最も幸せな瞬間、隣にいるのはこの子なんだ……って」


人影は、僕をゆっくりと体から引きはがし、僕の両肩にそっと手をを乗せた。影はゆっくりと近づいてくる。

僕の唇は、影のそれと一つになった。やさしい息遣いが間近で聞こえてくる。


不安や迷い―――。そうか僕と同じだったんだ。



 すっかり日は落ちて、空には外灯のように僕らを照らす満月が上っていた。

砂浜に打ち上げられた流木に腰かけ、月明かりに照らされる水平線を眺めていると、高揚した体がスッと収まっていくようだった。


 隣に座っていた彼女は、何も言わなかった。


 僕が打ち明けた気持ちは太陽とともにどこかへ消え失せてしまったのだろうか。そう考えるまでもなく、答えは決まっていた。

温もりに包まれた感覚のする方に視線を移すと、僕の右手には彼女の柔らかい手が握られている。そこからゆっくりと視線を上げていくと、今度は月明かりに照らされ、白銀に輝く髪の毛が揺れていた。その先の真白な肌、僕の見ていた水平線を眺める優しい表情。


もう、一切の迷いは無い。彼女としたあの約束は、僕の心の中でより強固なものへと変貌を遂げた。


「華さん。聞いてほしい事があります」

彼女はゆっくりとこちらを向き、なに?と言うような表情でいた。


「僕は華さんが一番幸せな瞬間を撮りたい。そう思っていました。でも…… その瞬間華さんの隣にいるのは、ほかの誰でもない…… 僕でありたい。なんか矛盾してますよね。僕は撮る側…… 写る側じゃないのに」


主役は華さんとその隣にいる誰か。そんなのは嫌だ―――


 初めてだった。生まれて初めて僕は主役になりたいと思うようになった。テレビドラマのような劇的な主人公には到底なれないのかもしれない。けれど、テレビの画面の奥の主人公たちと同じ気持ちは持っている。『彼女と一緒に居たい』ただ一つこの気持ちが芽生えた僕は、脇役なんかじゃいられない程、彼女のことを愛している。


「僕は、華さんのそばに居続けます。いつだって、どんな時だってそばにいます。楽しい時も悲しい時も、元気な時も、病気になったときもずっとそばにいます。そして、そのひと時をカメラで残していきます。お父さんのあの一枚には到底敵わないかもしれないけど、僕はこれからの華さんのことを撮り続けることができる。お父さんにできなかったことを僕がやります。天国にいるご両親に、ちゃんとありがとうって言えるように。二人から産まれた華さんがこんなにも幸せに生きているんだって安心してもらえるように。華さん自身も前を向いて生きていけるように―――」


華さんの手を握っている手に視線を落とし、再び華さんの目を見つめた。


「華さんが好きです。華さんのこれからの軌跡を僕に撮らせてください」


華さんはしばらく僕を見つめたまま沈黙した。けれどその表情は、柔らかく僕のすべてを包んでくれるような、やさしさに満ちた表情だった。


「紡君。どれだけ回り道しているのよ」

「え?」

華さんの一言に、明らかな戸惑いを見せてしまった。遠回り?確かにさっきも告白はしたけどそれからそんなに時間は経っていないはず……


「私の答えは、変わらない。君があの時、私を幸せにしたいって言ってくれた時から。何も変わっていないの」

僕が華さんの実家で言ったあの一言…… 勢いで放った一言だったけど、あれは本心だ。


―――幸せにしたいに決まっているじゃないですか!


この一言は、華さんの胸に深く刻み込まれていた。華さんに放った一言は、今頃になって僕の胸に反響してきた。


「私は紡君が好き。撮る側だから気づいてないと思うけど、私は君が私を撮るときの真剣な表情が好きなの。その顔を見ているとき、私はすごく幸せなのよ。だから……これからも私を撮り続けてね」


月明かりの照らす浜辺で、波の音に包まれながら僕らはもう一度誓いを交わした。

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