第8話
僕は、長年忘れることができなかった疑問を、華さんの手でもう一度この写真に巡り合わせてくれたことにより晴らすことができた。悲しくて泣いていると思っていたこの女性は、決してそんなことはなく、新たな命の誕生、最愛の人との間に生まれた絆に喜びの涙を流していたのだ。
彼女のお父さんは、愛する人の一番幸せな瞬間をカメラに抑えた。彼にとってもその写真は、今まで何万と撮ってきた風景写真よりも価値のある一枚であったことだろう。そんな写真を撮る彼女のお父さんは、やっぱりすごい。
けれど……僕はどうだろう。僕はまだ、華さんが笑顔でいる写真を撮れていない。僕が撮った彼女は、最愛の家族を失って流した涙を撮ったに過ぎない。
似たような写真を撮った。ただそれだけ。写真に写る人にも感情はある。心はある。
僕の胸の内で、もやもやした何かが、熱く湧き上がる何かに変わっていくのを感じた。
「華さん。お願いがあるんですけど」
僕は、地べたに座り込む彼女の肩を持ち、姿勢を正した。
「なあに?」
涙で潤んだ瞳で僕の目を見つめる。
「僕のこのカメラで華さんの事を撮らせてください」
彼女は僕の言葉の意図がわからず呆気にとられていた。
「どういうこと?」
「なんていうか…… 華さんの笑顔を撮りたい。撮らなくちゃって思ったんです。僕はまだ華さんが笑顔でいるところを撮れていないから」
「なんで?……どうしてそこまでしようとするの?」
「自分でもわかりません。今日ここで起きたことに運命的な何かを感じていると思っているのかもしれません」
「そんなの…… 紡君に背負ってもらうことじゃない。私の家族の事なのに……」
「そうですね。でも、僕はこの写真に憧れてカメラを始めたんです。いつかこれと同じ、人の心に残る写真を撮りたいって。華さんは、あの河川敷で僕に夢が叶ったねと言いましたけど、それは違います」
「え?」
「だって、写真の中の華さんは、ちっとも幸せじゃない。構図や風景は似ていたとしても、写っている華さんと、この写真のお母さんとは全く違う。喜びと悲しみでは、途方もなく違う。僕が撮りたいのは、笑顔で幸せそうな華さんなんですよ」
僕の目標は決まった。これまでは色々なところへ行ってたくさんの風景がカメラに収められればいいと、その中でこの写真に似たものを撮れればいいと思っていた。けれど、それじゃあ駄目なんだ。絶対にこの写真には追い付けない。僕の身勝手だけど、華さんには、お父さんとお母さんにちゃんと伝えてほしいと思う。自分は今幸せだと。娘を残して旅立ってしまった2人が安心できるように。それに華さんには、悲しみから抜け出して前に進んでほしい。それの手助けができるのなら本望だ。僕はこの唯一無二の家族写真に心を奪われてしまっているのだから。
「紡君…… 君って結構世話焼きな人なの?こんな会って間もない私にそこまでするなんて」
「そうかもしれません。それにもう、他人ごとではないというか…… ていうか、ここに連れてきたのは、華さんですからね?こうなった責任は華さんにもあります」
「なにそれ?ひどい!まあ確かに連れてきたのは私だけど、そこまでしてくれなんて頼んでないわよ」
「え?なんか僕が勝手に独り歩きしているみたいになってませんか?ずるいです!」
「でも、君は私を幸せにしてくれるんだよね?」
「それだと少し語弊があります。幸せにするのではなく、幸せな笑顔を撮るんです」
「じゃあ君は私を幸せにしたくないの?君が私を幸せにした方が、早く撮れると思うんだけど?」
「なんか揚げ足取りみたいになってませんか?」
「で、どうなの?ん?」
完全に彼女のペースになっており、僕に詰め寄ってくる。
「し、幸せにしたいに決まっているじゃないですか!じゃないと僕はどうやって華さんの写真を撮ればいいんですか!」
そう言い放った時、唇に熱を感じた。
目前には、涙で目元が濡れた華さんの顔があった。華さんは、唇を離すと僕の耳元で「幸せにしてね」と囁き、もう一度僕の唇に自分の唇を重ね合わせた。
―――――――
なんて無責任なことを言ってしまったんだと自分を問い詰めたい気分だ。
高校生ながら社会人である女性に親の墓同然の仕事場の中で告白じみた言葉を盛大に言ってしまったものだから、もう後には引けない。
それに僕がさっき決心したことは、ブレることはない。心からの本心だ。
華さんが落ち着いたころ、そういえばお昼がまだだったと言う話になり、一度買い出しに外へ出て具材を購入し戻ってくると、華さんが手料理をご馳走してくれた。
メニューは簡単な焼うどんだったが、絶妙な味加減でとても美味しかった。
その後僕たちは一階のリビングにある4人掛けのソファに座り、彼女のお父さんが出した写真集を横に並んで一緒に見ていた。
日本だけではなく、世界中の四季折々の風景や景色が収められており、その一つ一つの写真からは、大自然のパワーがこちらにまで伝わってくると思えるほどだった。
隣に座っていた華さんは、何冊か見ているうちに、疲れていたのか僕の太ももを枕にして寝始めてしまった。奇麗な女性が自分の太ももで無防備に寝ている。健全な男子高校生にとってこのシチュエーションは如何なものだろう……
僕は、込み上げてくる何かに必死に抵抗するかのように、写真集を読み漁った。しばらくして、彼女の様子を伺うと、どこか安心したような安らかな表情で寝ており、少しはつらい状況から脱出できたのかなと、彼女を見守るように見つめていた。
いつの間にか寝てしまっていたらしく、先に起きた華さんに頬をつねられた痛みで目を覚ました。
「紡君、起きた?ごめんね。寝ちゃってたみたい」
「ん?あ、あれ?ぼくもいつの間にか……って!今何時ですか!?電車が!」
慌てて携帯をポケットから取り出し、時間を確認する。時刻は夜21時を回っていた。
「華さん…… ここって終電何時?」
「うーん。21時かな。もう過ぎちゃってるね」
「どうしよう……」
僕が頭を抱えていると、華さんはどこか嬉しそうに「別にここに泊まればいいよ」と言ってきた。
まあ確かに、宿があるのは助かる。ホテル代を取られることはないし、願ったり叶ったりだが、1つ大きな問題がある。
そう。この僕、田中紡は、生まれてこの方女性と二人きりで泊まるという事をしたことはない。いや、僕だけではない、世の中の男子高校生の殆どは僕と同じ連中ばかりだと思いたい。
そもそも外泊をほとんどしたことがないのにいきなり女性と2人きりというのは、些かハードルが高すぎる。
「紡君。諦めなよ。ここから帰るのは、無理というものだよ?それとも……私と一緒にいるのが嫌なの?」
彼女は心配そうな顔でこちらを見つめてくる。
「そんなわけないだろーーー!!!」と叫びたくなる気持ちを必死に堪えて一言、「嫌じゃ…… ないです……」と返した。
すると彼女は「よかった」とにこりと笑顔を向けた。
「ちょっと母に連絡してきます。今日は泊まるって」
そう言って、玄関から外に出て、携帯を取り出した。
まず初めにかけた先は、氷室明彦のところだ。彼に連絡をすると、「あとでちゃんと報告よろしくな!」と今日の事を報告する条件に、今夜は彼の家に泊まっているようにでっちあげることを了承してくれた。
続いて自宅に電話を入れると、もっと早く連絡しろだのと小言があった後、母親から了承を得ることができた。
ふーっとため息をついて空を見上げる。するとそこには、見たことのないような星空が広がっていた。
しばらく眺めていると、家の方から「紡君~」と僕を呼ぶ華さんの声が聞こえた。
振り返るとそこには居なく、2階の方を見上げると、丁度お父さんの仕事部屋の位置にあるバルコニーからこちらに手を振っていた。
「紡君。星がすごい綺麗だよ!早く上がっておいでよ~」
彼女の笑顔の中にはまだ複雑な思いがあることだろう。それを知る僕だからこそ、華さんの本当の笑顔をカメラに収めることができるのではないだろうか。
いつの間にか、いや…… きっと初めて彼女の写真を撮ったあの時から僕は彼女に心を惹かれていたのかもしれない。けれどそれは、今は伝えることはできない。彼女の最高に幸せなところをカメラに収めた時、その時に伝えなくては。
僕の新しい夢を、夢で終わらせない為にも。
そう心に誓い、僕は華さんの元へと急いだ。
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