第7話

 華さんの手でカーテンが勢いよく開けられた。

差し込む光に思わず顔を背けてしまう。

徐々に目を慣らし、灯りの入った室内を見渡すと、そこにはたくさんの雑誌や写真の数々。そして、華さんの立つ横に配置されているガラスケースの中には、僕が何年も求め10年の歳月を経て手に入れたものと同じ、一眼レフカメラが並べられていた。

「す、すごい。こんなにたくさん……華さんのお父さんって一体……」

目の前の光景に思わず息を飲む。そうか、僕がこの部屋に入るときに感じた匂いは、写真の現像液の匂いだ。カメラ屋のおじいちゃんに連れられ現像室に連れて行ってもらったときに嗅いだ匂いと同じだ。


「私の父はね、写真家だったの。主に風景を専門に撮るね。私はお父さんの撮る写真が大好きだった。たまにお仕事について行って、撮影している姿も見ていたわ」

「プロの……写真家の娘だったんですね」


「うん。まあ世間ではあまり知られてないんだけどね。同業者の間では結構有名だったみたい」

「僕が写真をやっているからここに連れてきてくれたんですか?」

「まあそんなところね」

「でもまずいですよ!勝手に入っちゃ!大切な機材とかもあるだろうに!」


「大丈夫よ。父がこの部屋に来ることはもうないから」

「え?」

華さんの顔から表情が消えた。

「お父さんね…… この前死んじゃったんだ。紡君と出会うほんの少し前――――」


 僕は、言葉が見つからなかった。僕と出会うほんの少し前…… きっと彼女と初めて会ったあの桜並木で見た涙は、そういうことなのだろう。

けれど、僕をどうしてここへ連れて来たのか、まるで見当がつかない。彼女は僕にどうしてほしいのだろう。お父さんの後を継いで写真家になってくれとでも言うのだろうか。

もし言われたとしても、素直に「はい」とは言えない。僕の人生を全て捧げなければ到底なれるものでもないし、ましてや今の僕にはその覚悟がない。


必死に言葉を探している僕に、彼女は優しい声で「急にごめんね。別に紡君に後を継いでほしいとか、そういうことじゃないの。びっくりさせちゃってごめん。」

その言葉に少しホッと安堵のため息が出た。


「びっくりさせないで下さいよ。こんなど素人にプロになってとでも言うのかと思いましたよ。」

「ふふ。それはお話の読みすぎよ」

僕たちは、お互いの顔を見ながら微笑んだ。


「でも紡君に来てもらった理由は、お父さんの事でっていうのはホントなのよ。どうしても確かめたいことがあって」

「確かめたいこと……ですか?」


 華さんは、部屋の隅に置いてある、額縁のようなものに手をかけた。

その額縁は42型テレビ並みの大きさがあり、その中にはきっと、彼女のお父さんが撮影したであろう写真が収められているのだろうと思った。


華さんは、掛けられている布を手に取りゆっくりと剥がした。

徐々に露わになる額縁の中には、一体何が収められているのだろう。


華さんが布をすべて剥がしきった額縁に入っていたのは、一枚の写真。


「あ……あぁ……」

僕は言葉を忘れていた。しばらくそれを見続け、自分の両目から涙が流れ落ちていることも分からずにただ目の前のそれを見続けていた。

運命、巡り合わせそんなものは、信じていなかった。けれど、僕はこの時初めて『運命』を信じた。


 写真展であの写真を見たことに始まり、12年の時を経て念願のカメラを購入。そして、華さんに出会う。

華さんは写真家の娘で、今その手にある写真は、僕をこの世界に引き込んだ、『河川敷の辺り一面に咲き乱れる花畑と満開の桜並木の中に美しい女性が佇んでいる写真』であった。


見つけた…… 本物だ……


「紡君の話を聞いた時、もしかしたらって思ったの。それに、君に撮ってもらったあの写真、これにそっくりだった。」

華さんは少し照れたような表情になっていた。


 華さんは写真を見つめ続ける僕のそばに来ると、僕をそっと抱きしめた。彼女の肌が僕に触れると、緊張がほぐれたのか涙はさらに止まらなくなっていた。「ありがとう。」そう耳元で優しく囁いた彼女に「え?」と聞き返す。

「私の大好きだった父の写真をあなたは好きと言ってくれた。目標だとも言ってくれた。あの写真に写っているのは、私が小さい頃に死んじゃった母なの。この写真は、風景ばっかり撮っていた父が唯一、母を写した写真なの。

父は、母が死んでしまってからずっと一人で私を育ててくれた。でも、父は一度も私を撮ろうとはしなかった。きっと母の事を思い出しちゃうからね。この写真は、私にとって父と母の両方を思い出せる唯一の写真。その写真が君と……紡君とめぐり合わせてくれた。私は、君と初めて会ったとき、君の撮った写真を見て運命のようなものを感じたの。」


僕を抱きしめている華さんも涙を流しているようだった。彼女は……華さんは今、1人だ。幼い頃にお母さんを亡くし、遂にはお父さんまで……

あの河川敷で、僕は華さんを写した。その写真が原因で、両親の死を思い出させてしまったのではないか。そう思うと胸が痛くなった。


そんな悲しい思い出を思い出させるこの写真。華さんのお父さんが撮り、そこに写る華さんのお母さん。涙の意味は何なのだろう…… 僕は彼女の温もりを感じながら、意識を写真の中に集中させていった。


 この写真はきっと写るものだけでは説明できない内に秘めた何かがある。そうでないと華さんのお父さんがこの写真を残した説明がつかない。


華さんのために残した写真……


そうだ。これは華さんへお父さんが送った写真だ。悲しいお母さんの姿なんて撮るはずがない。華さん……わかったよ。


「華さん……僕はこの写真が大好きだ。華さんのお父さんが撮ったこの写真が大好きだ。小さい頃この写真を見たとき、どうしてこの女性は泣いているんだろうと思った。写真があまりにもリアルだったから、写真の向こう側へ行こうとしてお父さんに止められたこともあった。けれど、今なら分かるよ。さっき自分を一度も写そうとはしなかったって言ってたけど、この写真には、実は華さんも写っているんだ。」


僕がそう言うと、華さんは、「え!?」と写真の方へ振り向き、写真を見つめる。


「どこにもいないよ?それにこの写真が撮られたのは、私が産まれる前よ?」

「確かに、華さんが産まれる前に撮られた写真なのは確かですよ。でも、この場所…… ほら、ここを見て。左端の方」


僕の指を刺した先には、ぼんやりと建物が写っていたよく見るとそこには、赤い十字のマークが入っている。


「ここって病院?」

「はい。プロの写真家が、メインのお母さんと桜以外をぼかさずに撮っているのが不思議に思ってよく見てたら、病院が。その病院って、華さんが産まれたところなんじゃないかなって思ったんです」


「ということは…… 紡君が言ったことって、つまり……」

「はい。この写真に写るお母さんのお腹の中には、華さんがいるんですよ。お母さんは、何かが悲しくて泣いていたんじゃない。華さんという命が芽生えた喜びに涙を流していたんです」

彼女は写真を見つめるとやがてその場に崩れ落ち、僕のジーンズの裾にしがみつきながら、嗚咽交じりに涙を流した。

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