第2話
寝不足の時の校長先生の話は、まるで睡眠剤のようだった。今日から僕は高校3年生となり、いよいよ高校生活も残すところ1年を切ってしまった。これまでの高校生活の思い出と言えば、文化祭や修学旅行といった行事に限り、友達と出掛けたり遠くに旅行に行くなんてことは一切なかった。
友達がいないとか、いじめられているからといった理由ではなく、まあ友達と呼べる人は数えるほどしかいないのは確かだが…… 高校生の遊びと言ったら、ゲームセンターやカラオケが鉄板だが、どれもお金がかかる遊びだし、バイトをしていない僕にとって毎月の少ないお小遣いは無駄には出来ないのだ。
バイトをしていない僕の数少ない収入源と言えば、毎月のお小遣いを除けば、年末年始のお年玉だけだ。
周りの友達は、初売りセールに行って福袋を購入したり近場の観光地に旅行に行ったりともらったばかりのお年玉をあっという間に使い切ってしまっていた。
今を楽しんで生きている感じがして羨ましくも思ったときもある。けれど僕は、今の楽しみよりも優先すべきことがある。
僕はデジタルカメラが欲しかった。それも数万円で購入できるコンパクトデジカメといったものではなく、プロの写真家が使っているような一眼レフカメラが欲しかった。
幼い頃に小さな写真展で見た風景写真みたいに感動する写真を撮りたい、撮ってみたいとずっと思っていたのだ。
その風景写真を見たのは5歳の夏、近くのデパートで行われていた戦隊ヒーローショーに連れてきてもらった時の事だった。ショーは子供たちの大声援に包まれて大盛況のうちに終わった。
けれど僕は、同年代の中でも身長が小さく子供たちの陰に隠れてしまいショーを楽しんで観ることはできなかった。
ショーが終わってからは、両親と一緒にデパートのフードコートで昼食を食べた。そのあと買い物がてら館内を見て回っていると、隅っこのスペースで小さな写真展が行われていることに父が気付いた。
僕は父に連れられ、その写真展を見に行くことになった。
5歳の子供に写真の良し悪しがわかるほど美的感覚はないし、父はどうしてここに連れてこようと思ったのか定かではないが、入口のパーテーションを通った先に見えた光景は、先ほど見たスーパーヒーローたちよりも迫力に満ちていた。
僕が息を飲んで見たのは、河川敷の辺り一面に咲き乱れる花畑と満開の桜並木の中に美しい女性が佇んでいる写真だった。大きく引き伸ばされた写真は、まるで目の前が花畑であるように僕を錯覚させた。
父が昔撮ってくれた写真は、僕ら家族と奇麗な風景が写っていたけれど、これと言って感動した事はなかった。けれどこの写真は違った。この写真御向こう側には本当にこの景色が広がっているのだと錯覚させるほどだった。幼い僕には、写真の中に写る桜の木や花畑、空からも現実と同じ匂いや風が全身を通り抜けていく感じがした。
気づけば僕は、父の手を離し、その写真に向かって歩き出していた。
僕はどんどん写真に引き込まれていき、写真に触れる間一髪のところで、父に脇を持ち上げられた。すると意識はスッと現実に引き戻されていった。
「危ない危ない。紡、これは大事なものだから触っちゃいけないんだよ」
「お父さん。僕はただこのお姉さんのところに行くだけだよ?」
「お姉さん?何を言っているんだい?これは写真だからそこには行けないんだよ」
「本当に?お姉さんのところに行けるんだと思っちゃった。ねえお父さん。このお姉さん泣いてるよ?悲しいことでもあったのかな?」
「え?本当かい?」
父は写真を細目で凝視した。すると驚いた表情で、
「本当だ。良くわかったね。どうして泣いているんだろうね。このお花畑があまりにも綺麗だから感動しちゃったのかな?」と、父は優しく僕に問いかける。
「僕は違うと思うな」
即答だった。
「そうかい?紡はどうしてだと思う?」
「よくわかんないけど、このお姉さんすごく悲しい顔してる。きっと嫌なことでもあったんじゃないかな。だから僕が慰めてあげようと思ったんだ」
そう言うと父は、またもや驚いた表情をしていた。すると急に僕の頭をごしごしと撫で始めた。
「紡はやさしいなあ。このお姉さん、元気になるといいね。」
「うん。」
写真展を出てからも、あの写真の事が頭から離れなかった。あの見たこともない風景の中に佇む悲しげな女性の姿を想うと、僕の心は高揚していた。今思えば僕の初恋だったのかもしれない。
翌週また写真の女性に会いたくて父にせがんで写真展を訪れたが、写真展を開催していたスペースは、真っ白なパーテーションだけが置かれただけの場所と化していた。
それ以来僕は、あの女性の姿を見ることはなかった。いつかカメラを始めれば、また会うことが叶うだろうか。そんな淡い期待を持ったのがカメラを欲しいと思った最初の動機だった。
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