36×24
永月 慶
第1話
「お箸は一善でよろしいですか?」
レジのお兄さんは、温めた弁当を茶色のレジ袋に慣れた手つきで素早く入れながら、問いかけてきた。
さすがに大体毎日顔を突き合わせ、毎回似たような弁当を購入しているんだからそれくらい分かるだろうと文句を言いたくもなったが、それすらも億劫で一言だけ「お願いします。」と言ってことを終える。
弁当の入ったレジ袋を受け取ると、無造作に置かれたカルトンの上に千円札を置いた。
「レシートいらないです」
お兄さんは、「かしこまりました」と言って会計を始める。レジ袋を手頸にかけ、おつりを受け取ると、そそくさとコンビニを立ち去る。
「ありがとうございました」
住んでいるアパートの近くは、外灯が少なく真夜中になると辺りは暗闇に覆われる。そんな中でも毎日のように歩いていると、さすがに土地勘が芽生えてくる。
ここの地域に住み始めて、早くも2年が経とうとしている。就職すると同時に実家を出て、会社から電車で15分の駅周辺のアパートを借りて過ごし始めたのだが、こうも毎日終電近くに帰宅するとなると、休みの日は一日中外出もせずベッドの中で過ごすことがほとんどだ。
その所為か、住んで2年近く経つこの地域の最寄駅から自宅アパートまでの道しか分からない。
そんなことを考えながら、明日の貴重な休みも寝て終わるんだろうなと諦めたようにため息が出る。
アパートの階段を上り、自室の玄関の前まで行くと、鞄からカギを取り出し、おもむろに錠を開ける。
ドアを開けると、いつも通りの真っ暗な自室が主の帰りを待っていた。
「ただいま」
実家のように「おかえり」と返事が返ってくるわけでもないが、長年の習慣が無意識に僕の口を動かす。
部屋の明かりを付け、ローテーブルに弁当の入ったレジ袋を置くと、その横に出しっぱなしになっている封筒に目が行く。
その封筒には、『退職届』と書かれていた。
いまだに出せていないその封筒を見つめるも、決断することができない自分が嫌になっていた。
新卒で入社して2年。巷では大手と呼ばれる商社に入社した僕は、世間から言われている会社の印象とのギャップに苦しんでいた。定時で上がれることはめったにないし、夜まで上司の仕事先で使う資料の作成や雑用を押し付けられる日々。想像していた社会人の働き方とはまるで別物であったのだ。
本来休みであるはずの日も出勤要請に応じ、文句を垂れようものなら働いた方がまだ気が楽だった。
そんな中働き続けて1年半が過ぎたころ、いつもの終電で帰っているところで直属の上司と鉢合わせた。
上司は酒に酔っていて、千鳥足もいいところだ。僕は一言「お疲れ様です」と言ってその場を後にしようとした。すると上司が、「なんでお前はこんな時間にこんなところにいるんだ?指示したことは終わったのか?」と朦朧とした意識の上司に人差し指で胸を突き刺しながら僕に問いかける。
「すみません。8割ほど終わったのですが、自分では判断がつかないことがあったので明日ご教示いただいてから終わらそうかと思っていました」と進捗の報告をした。
上司は機嫌が悪そうに、「なんであんなことも一人でできねえんだ!まずは自分で考えろ!終わってもいねえのに帰ってんじゃねえ!!」僕を刺していた人差し指が、僕の胸をどつく。
「すみません」僕はこう言うしかなかった。
普段なら少しでも聞いてくれそうな上司だが、こうも酔っぱらっていると、もはや正常な判断はできないだろう。その場の時間が過ぎ去るのを必死に耐えていた。
まもなく上司は怒鳴り疲れたのか、「明日覚えてろよ。じゃあな」と言って、駅の改札の方へ歩いていった。
その姿を見送ると、胸の奥からため息をこれでもかと吐いた。その足で向かったコンビニでは、幕ノ内弁当の他に便箋と封筒のセットを購入していた。
激情に身を任せ退職届を殴り書きで書き、封筒へ入れたまでは良かった。けれどいまだに出せてはいない。なぜなら、この書類を提出するのは、あの上司にだからだ。
何を言われるか分かったもんじゃない。罵声は飛ぶのはもちろん、もし退職届が受理されたとしても、その後退職日まではその人の下で働かなくてはならないのだ。
そんな中では身が持たない。ならばこのままの方がまだ精神的な負荷は軽い。そう思ってしまったのがいけなかった。僕は我慢を続け、あの上司の罵声に日々耐え続ける中働き続け今に至るのだ。
しかし明日は久しぶりの休みだ。身も心もリフレッシュしてまた一週間耐え抜こう。そう心に誓った。
スーツをハンガーに掛け、クローゼットに入れようと扉をスライドさせると、中に積んであった書類に扉が掠め、雪崩のように崩れ落ちてしまった。
はあ。とため息をつき、ハンガーを掛けた後、足元の書類の片づけに入る。
書類の大体は、研修資料だったり、新聞や広告の束がまとめてあった。
これも資源ごみの日に捨てなきゃな……そう思って書類を片付けていると、中から写真が一枚顔を出していた。
ふいに手に取りその写真を見ると、それはまだ高校生の頃に初めて買った一眼レフカメラで撮影した写真だった。
高校生だった当時は、写真撮影にのめり込み毎週の休みの日は必ず遠出して風景をカメラに収めていた。
その中でも、唯一この写真だけは、SDカードの中で眠らせるのではなく現像して形に残すことにした。
なぜならこの写真は、僕の夢のような出来事の始まりの一枚だったからだ。
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