2 ガーディアンガールといくさの後

 楓の編み上げブーツが砂の山を蹴散らした。もしもそれを作っていた子供が目の前にいたならば、泣くなり怒るなり抗議の声を上げるだろうが、夜の公園に人は皆無だ。

 走る、走る。力強く蹴り上げる両足が、地を這う夏草を千切って舞い踊らせる。じぐざぐに線を描くように楓は駆ける。

 暗闇の化物――ナイトメアは風切り羽を不気味に鳴らして楓に追いすがる。前をゆく楓との距離が少しずつ縮まっていく。

 ナイトメアはぎゅるんと体を回転させる。瞬時に楓は頭を低くして転がった。ナイトメアの翼が、楓の首があった場所を切り裂く。楓は前転の勢いからすぐさま起き上がり、なおも走る。

 砂利を蹴っていた楓の足音が鉄を叩く硬質なものに変わった。急勾配の滑り台を駆け上がる。踊り場までたどり着いた楓は後方を振り向くこともなく、背を反らせて走り高跳びをするように跳躍した。体をひねり、スカイダイビングさながらに滑空する。

 空中に身を投げだした楓を無防備と認識したのだろうか、ナイトメアは猛然と楓に迫った。楓は向かってくるナイトメアから目を逸らさず、その脳天めがけて剣を突き出す。剣先で光が収縮する。

「――射程拡張エクステンション!!」

 ナイトメアとの至近距離で光の束レーザービームが炸裂した。黒い化物は純白の光に包まれて、跡形もなく消し飛んだ。

 楓は着地すると同時に、剣をアミュレットの形に戻した。勢いよく滑り降りてきた子供が砂場に着弾したときのように、白い砂が舞って煙幕が広がる。

 真紅の衣装にまとわりついた砂を手で丁寧に払い、楓は砂場から出た。周囲を見回す。色鮮やかにペイントされた遊具たちが佇むだけで、先程まで楓の肌を突き刺していた邪悪の気配は消え去っていた。そして、それとほとんど同時に、遥か彼方から伝わってくるナイトメアの気配も消えてなくなった。

 ほどなくして、耳の奥で戦果を報告する棗の威勢良い声が響く。のんびりした譲葉の声もそれに続く。どうやら、二人とも無事、戦いを終えたようだ。楓もつつがなく任務を遂行したとテレパシーでみなに伝え、それから後方を振り返った。

 遠くに、オレンジ色の灯り。

 闇の中にうっすらと浮かぶ、パールホワイトの邸宅。

 楓がいる公園からは槐の住む家が見える。彼の家は高台にあった。公園の木々の間から姿を覗かせる豪邸は、この公園を利用する母親たちによる、噂話のタネのひとつであるらしかった。


(アカザさんの言った通り、今日、伏見くん学校に来なかったな……)


 今日、槐は「風邪」という理由で学校を休んだが、本当はそうでないと楓は知っている。

 繁縷はこべに「伏見くんにメッセージ送らないの? 送ろうヨ! アピールしよアピール! アピールチャンス! 楓ちゃん乱入!」などと矢継ぎ早に言われるがまま、体調は大丈夫か、という旨の短いメッセージを送った。だが、放課後を過ぎて、日没が訪れる頃になっても、メッセージに既読の文字はつかなかった。

 楓が調子を崩したときはすぐに持ち直したが、果たして彼はすぐに元気になってくれるだろうか。早く壮健な姿を見て、安心したいものだ。

 楓はしばらく動かず、頬を撫でる風を受けてぼうっと立ち尽くしていた。

 これまでいつも楓の傍らで楓の働きを見守っていたライチはいない。今日この日をもって、楓は独り立ちをライチから宣言された。いつもであればアドバイスと称して色々と口を出してくるライチの声はせず、周囲は静かだ。


 ――死んで。


 百合の声が、胸の奥で反響する。

 額と胸元に光る紅い目玉が、脳裏にちらつく。

 あの激闘から、まだ二十四時間程度しか経っていない。目を閉じると未だに、百合が撃ってきた虹色の弾幕が牙を剥いて襲いかかってくる気がする。

 楓はぶんぶんと首を横に振って、脳裏の幻影を打ち消そうと試みた。百合に敵意を向けられたことで、胸に刺さった鋭いものは簡単には抜けてくれない。楓はごまかすように、やりたいこと、やらなければいけないことを心の中で言葉に紡いだ。――まずはこれから、アカザさんのアパートに戻って反省会をしよう。

 ライチが傍にいない初めての戦いは、きっと心のどこかに不安があった。一体一体のナイトメアを倒すのに、いつもより少し時間がかかったと感じる。

 そうだ、やらないといけないことは、たくさんある。

 この公園もそうだが、槐の生活圏内にナイトメアが出現することが多くなった。効率を考えると、譲葉か棗にも一緒に来てもらうのがいいだろうか。しかし人が多く集まる町中にも依然としてナイトメアは出現するし、現状維持が得策か。地図もどんどん更新していかないと。それから、それから。


「おい、赤見内」

「ワ――――――――――ッ!!」


 心臓が口からまろびでるかと思った。

 楓の背後に、槐が立っていた。チャコールグレーのTシャツに、ルームウェアとおぼしき黒のワイドパンツ。夜の闇に溶け込みそうな服装だが、楓の目にはしっかりとその姿が映った。

「……驚きすぎだろ」

「ご、ご、ごめん……」

 だってまさかいると思わなかったのだ。つい先程まで戦場だったこの公園に、彼が。楓は両手で胸を押さえて一気に上がった心拍数を鎮めようとする。どうしてこんなところに、と言おうとしたが、楓の声帯はうまく震えてくれなかった。だが、楓の表情から、楓が何を言わんとしているか何となく伝わったようだ。

「部屋から、赤い光が見えたんだ。双眼鏡覗いたら、お前が戦ってるのがわかった」

「え……」

「俺の家、あの辺だから」

 槐が高台の方角を指差す。楓は彼の家を知っているけれど、口をつぐむ。瀟洒な家の窓、その幾つかからぼんやりと灯りが放たれている。楓は彼の家をわずかに視界に入れたと思うと目を逸らした。

 戦っているところを見られていたのか。みるみる羞恥心が楓の胸に湧き出た。

 変身トランス中は身体能力が高まるため、生身のときの体育の授業のように無様を晒しているわけでもない。もとより、彼には変身トランス後の姿も何度か見られているし、自分たちガーディアンガールの事情もきっちり知られている――知られたのは昨晩のことではあるが。

 頭では恥じることはないとは思うのだが、顔が火照るのを止めることは楓には難しかった。

 槐はもう何もいない滑り台の踊り場を見上げて、感慨深そうに呟いた。

「あんなのとやりあってるんだな。なんつーか……すごいな」

「そ、そんなことないよ。それより、体は大丈夫……?」

「ああ。朝は全然動けなかったから驚いたけど、もう平気だ。明日は学校行ける」

「そ、そっか、良かった」

「携帯さっき見た、返事してなくて悪かったな」

「う、ううん! 気にしないで」

 まだ驚きと羞恥心が尾を引いているが、楓はほっとした。ここで会えて、話しかけてもらえて良かったかもしれない。明日、学校で元気な姿を見ても、上手スマートに話しかけられたかどうか。

 と、そこで楓は槐が何かを手に持っているのに気づく。同時に、槐は楓に向かってそれを差し出した。

 ピンクと黄色のリボンで可愛らしくラッピングされた、透明の袋。何かが詰め込まれている。楓の持つ彼のイメージとマッチしないそれに、自然とぱちくり、瞼が動く。

「クッキーだ。うちの姉貴、よく作りすぎるんだよ。やる」

「ええっ、そんな、悪いよ」

 槐が腕を伸ばして、押し付けるように楓の眼前にクッキーの詰められた袋を突き出した。楓はのけぞると、胸元で両手を小刻みに振って遠慮する。

「こうでもしないと余らせるだけなんだよ。いつも家族みんな困ってる」

 そう言うと槐はリボンの紐を一切の躊躇なくほどいて袋を開け、クッキーをひとつ取り出した。

「……薔薇の花だ」

 楓は思わず声を漏らした。花の形をしたクッキーだった。花弁はなびらの一枚一枚が本物の花のように立ち上がっている。プレーンのベージュとココアパウダーのブラウンのコントラスト。洋菓子店に並んでいてもおかしくないと思える出来だ、手間ひまかけて作られたのだろう、と楓は思う。

「この暗がりで、よく見えるな。それも魔法の力ってやつか?」

「う、うん、まあ」

 歯切れの悪い楓の答えに槐はふうん、と返すと、取り出したクッキーをがりと齧った。遠慮のない食べっぷりに楓は勿体無い、とわずかばかり思ったが、平然と菓子を咀嚼する槐の姿を見て本当に元気になったのだと実感が湧いて、安堵する。

 口の中のクッキーを飲み込むと、槐は言った。

「変なものは入ってないから」

 安全であると証明するために食べたのか、と楓はようやく思い至る。またしても胸元に差し出されたクッキーの袋。

 二度もそうされると、さすがに断れない。楓は袋に腕を伸ばした。

「あ、あ、ありがとう……ゆずやめーちゃんと一緒に、食べるね」

 楓の手元にクッキーの袋が渡る。見た目よりも随分、ずっしりと重かった。

 受け取った袋を抱えて嬉しそうに目を細める楓に、槐は遠慮がちに言葉を投げた。

「あの人……鬼崎さんは、学校に来てるのか」

 楓は顔を上げた。そして不安げに目を泳がせて、最後には下を向いた。

「それが……」





「なあ伏見。鬼崎百合って人、覚えてるか? 俺たちみんなの連絡先に入ってるんだけど、連絡先交換した記憶、全然ないんだよなあ」

 翌日、登校した槐が同級生の男子――百合に連絡先を交換してほしいと、勇気を振り絞って最初に手を上げた少年だ――にそう問われて面食らうのを楓は目撃した。

 槐はなんとも答えられずに黙りこくっている様子だったが、

「俺もわかんない」

「あたしも全然」

「誰かがアカウント名変えたとかじゃないの?」

「そう思って一言送ってみたんだけどさ、既読つかねーんだわ」

 と、同級生たちが次々と口にする。

 百合のことを覚えている人間が、学校のどこにもいない。それが、彼女が学校に来ているのかと尋ねた槐に対する、楓の答えだった。

 鬼崎百合という生徒の存在は最初からなく、自分が見ていたものが夢か幻なのではないかと楓が考えてしまうほど、ありとあらゆる人物が彼女を忘れていた。


繁縷はこべちゃんにも聞いたけど、知らないって……先生も他の人も、そうみたいで……」

「……じゃあ、なんで俺たちは覚えてるんだ?」

「わからない……」


 夜の公園で、二人はそんな会話をしたのだった。

 誰も彼も覚えていない。百合が教室に来るたびにギャラリーができるほど賑わっていたことを。百合に連絡先を交換してほしいと群がっていったことを。

 ……百合が槐に会いにきたと言ったときに、あんなに湧いた教室を。

 同級生たちの質問攻めを曖昧に流している槐を見つめながら、楓は眉根を寄せた。

(……どうしてみんな、鬼崎先輩のことを忘れてしまったんだろう……)

 楓には皆目見当もつかない。アカザに聞けば何かわかるだろうか。しかし、百合と戦った日の夜、帰宅した楓がアカザに送ったお礼のメッセージは未だに読まれていない。昨晩たまり場に集ったときも、アカザは不在で、楓は家主のいない部屋で譲葉たちと過ごした。戦いの疲れがあるのか、あるいは仕事だろうか。

 槐を囲んでいた同級生たちが質問攻めをやめ、自分の席に帰っていくのと同じ頃、教室の戸を開け放って背の高い男子が大股で槐に駆け寄ってきた。同級生ではないが、体育の授業で見た顔だ。恐らく隣のクラスの生徒だろう。彼の整った目鼻立ちに、周囲の女子が浮き足立った声をあげる。

「またかよお前……」

「ごめん~! お詫びに今度何かおごるから」

 背の高い男子は眉だけ八の字に、人好きのする笑顔を槐に向けた。漏れ聞こえてくる会話から察するに、教科書を忘れたため槐に借りにきたらしい。呆れ顔でまた、とぼやく槐の様子から、常習犯なのだろうか。

 ……伏見くんは、誰とでもうまくやれて、すごいな。

 楓の気持ちが、見えない何かに絡め取られていく。槐と繁縷、ようやく楓が普通に話すことができるようになってきた、。彼らが他の誰かと親しげにしている姿を見ると、楓は置いてけぼりにされたような気持ちに陥ってしまう。それは、二人の人間関係を自分が支配したいと考えているようで。――自分に嫌気がさす。

 鬱屈とした気持ちになりかけたときだった。


「あのさ、二年の鬼崎さんって覚えてる? めっちゃ美人の」


 楓ははっとした。今、槐に耳打ちする長身の男子が、確かに声に出した。緊張感に思わず唇を噛んで、楓は槐と男子生徒の様子を窺った。

「……ああ、覚えてる」

「だよね? 変だなあ……あれだけ人気者だったのに、オレの周りみんな覚えてなくてさ」

 楓の耳に届いた会話はそれだけだった。

 この学校で、楓と槐以外に、たった一人。百合を覚えている人間がいた。

 本当に、どういうことなんだろう。考えても答えは出ないのだが、それでも楓は思考を止められなかった。


 男子生徒が槐の教科書を預かって去ると、今度は入れ替わりに繁縷が教室に戻ってきた。繁縷は槐の前に立つと、自分の額に手を当てるジェスチャーをして、槐に尋ねた。

「伏見くん、もう風邪ダイジョブ?」

「おう」

 槐が頷いたのを見て取ると、繁縷はいつも通りのオーバーリアクションで嘆き始めた。

「もー来週からテストだヨ! やってらんない! 地獄が始まるよ! あっいやアタシ地獄みたいな物語は好きだケド、テスト……キミとは仲良くなれない……! だってアタシにはテスト後の稽古くんがいるのよ!」

 槐は繁縷特有のマシンガントークが始まったと見るや、すぐさまを決め込んだようだった。繁縷はその後も何やら語りを続けていたが、甲高かった声のトーンを不意に落とした。

「ところで昨日の社会でやった内容、テストに出るんだって。伏見くん休んでたじゃん」

「あの先生のテストに出るは当てにならないだろ」

「どっこい今回はガチっぽいんだよネ! だからさ」

 繁縷は槐の背後に忍び寄り、彼の両肩を捕まえた。そして、ぐるりとその体を後ろに向けた。

 ぼんやりと二人の様子を眺めていた楓と、槐の目が合う。

「楓ちゃんにノート貸してもらいなヨ! 見やすいヨ!」

 突然名前を出されて楓は驚きに声を失った。呆気にとられて楓が繁縷を見ると、楓の視線を受けた繁縷は眼鏡の向こうから満面の笑みを弾けさせ、槐の死角で楓にウインクを飛ばした。

 楓はしばらく固まっていたが、やがておどおどと視線を彷徨わせて、それから俯いて、蚊の鳴くような声で呟いた。

「わ、私のノートなんか見なくても、伏見くんなら100点取れるよ……」

 それは掛け値なしの本音だった。けれど、ノートが取れずに槐が困るのも不本意なので、机の中からノートを取り出す。繁縷が両手を槐の肩から離して、楓の傍に寄ってくる。繁縷は楓のノートをうっすら開いて覗き込み、うん、とひとつ頷くと、「アタシのノートより……一兆倍くらいキレイだヨ……」と遠くを見るポーズで述懐した。

 彼の役に立てるのならば、それは喜ばしいことだ。だが、字もそれほど綺麗なわけでもないし、見られるのは恥ずかしい。

 そんな思いを見透かされたのだろうか。

「授業でやった範囲だけわかればいい。あんまジロジロ見たりしないから、少し見せてくれ」

 槐はそう言った。

 気遣いが、楓には照れくさくてくすぐったくて、けれども嬉しくて。楓は体をこわばらせたまま、こくこくと細かく頷いた。顔から火が出ているような気がした。

 ノートを槐に差し出して、顔をちらりと上げると、繁縷が満足気に口角を釣り上げていた。分厚い眼鏡のレンズがきらりと光った。

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