6 ガーディアンガールと命の3秒

 虹色に輝く花嵐が天から地に雹のように降り乱れる。百合が片手で広げた弾幕は細やかで密に、そして鋭利に楓たちに牙をむく。親指くらいの大きさに見える弾幕の一弾一弾は実際は手のひら大で、切れ味鋭く地上に迫り、アスファルトに次々傷を穿つ。

 楓は自らの顔を狙った弾幕を剣で叩き落として叫んだ。

「鬼崎先輩、お願いします、せめて説明してください!」

「……話すことは何もないよ」

 百合からの返答は絶対零度だ。そう言葉にする合間にも、次の弾幕が楓たちに襲いかかってくる。アカザは魔力の壁を展開し、譲葉は建物の影に隠れて難を逃れている。楓たちと百合の距離は縮まる様子がなかった。

「つッ……!」

 楓の頬を百合の弾幕のひとひらが掠めた。頬に赤い線が描かれ、じわりと血が滲む。楓は後ろに跳ね、体を捻って後退する。楓が百合の弾幕の射程範囲外に出ても、百合はその攻撃を緩めることはない。百合は透かし羽を羽ばたかせて空から地上に降り立った。斜め上から降り注いでいた弾幕が地面と水平に射出されてくる。楓は木の影に身を隠したが、虹色の弾丸は容赦なく木を貫き、木はみしみしと音を立ててやがて倒れた。楓は様々な障害物の間をくぐり抜けながら、必死に百合の弾幕の射程を計算する。

 譲葉が建物の影から飛び出す。弾幕を避けながらその足は百貨店の壁を蹴り上り、2階の窓に足をかけたところで思い切り窓ガラスを蹴って宙返りした。振りかぶった杖がしなり百合に迫る。しかしその杖は届かない。百合は譲葉の体当たりめいた攻撃を難なくかわし、譲葉の足首を両手で掴む。腰を落として体を回転させて譲葉を投げ飛ばした。譲葉の体は百貨店の窓ガラスを割ってその中に消える。

「ゆず!!」

『じゃいあんとすいんぐされた~……』

 へろへろの譲葉の声がテレパシーで飛んでくる。とりあえずすぐ返事ができるあたり、無事ではあるようだ。

 下駄の歯が地を蹴った。見る間に百合の至近距離に迫るアカザに、百合は手をかざして容赦なく弾幕の嵐を浴びせる。アカザはすぐさま扇を振り、金色こんじきの盾を形作った。盾が降り注ぐ光を弾く。だが――虹色の一弾だけがその盾を貫いた。禍々しい虹の弾丸はアカザの左腕を掠め、赤い血が迸った。低い呻きが楓の耳に届く。

「……ッ、流石、この距離だと盾も意味を成さないか」

「あなたたちとわたしの力、比べ物にはならないよ」

 再び百合と距離を取ったアカザに向かい、百合は誇るように笑う。それは王者の笑みのようで、楓に畏怖を抱かせた。

『埒が明かないじゃない! どうするのよ!』

 ライチの声が三人の頭の中に響く。焦りを隠せない、いや隠そうともしない声だった。アカザは口元を扇で隠して、ライチに絶対に出てくるなとテレパシーで釘を刺す。

 弾幕に一切の隙がない。近づくにはあまりにも危険すぎる。近づけたとしても、身のこなしが自分たちと全くレベルが違う。楓は上下する胸を必死に押さえた。





 水の中から浮かんでくるように夢から醒めて、覚醒する。


 双眸がひらいたのを認識した瞬間、伏見槐が感じたのは吹き付ける強い風だった。体が痛い。こんなに体がきしむような無理なことをした覚えはないはずだが、と記憶をたどるが、寝起きの頭では思い出せることは少ない。視界に映るのは夜空、雲と星。果たして自分は外で寝てしまったのか。右手に力を込めて徐に上体を起こして、理解したことは自らが地上から遥か遠い高みにいるということだった。

 目に入る光景は、あの港の展望台から地上を見下ろした時に似ている。いや、あそこまでの高さはない。見下ろすと駐車場が広がっているが、駐車場に停まる車の姿は見えない。猫となんとかは高いところを好むというが、自分は猫でもなんとかでもない、と、彼は唐突に自らを襲った急展開から目を背けるように心の中で呟いた。

「なんだ? ここ……」

「ここ? モール風ヶ原のてっぺんだけど」

 独り言に返事があったことにいささかの驚きを覚えて顔を上げると、そこにいたのは魔女だった。

 空を飛んでいる。箒に乗って空を飛ぶ魔女。……これは夢か。夢でなければなんだというのか。

「――お前は……!?」

「あたし? 黒羽根棗、結乃浜高の1年」

 魔女は彼を一瞥した。驚くことなどどこにもない、と言っているように見える。

 結乃浜高校といえば、港の展望台よりもはるか北に北に行った先にある女子校だ。魔女の名乗りは、魔女にしてはいささか普通の女子すぎる。彼は自らのおかれた状況に恐れを抱かずにはいられなかった。

 空飛ぶ魔女はゆるゆると近づいてきて、身を捩る彼に何の遠慮もなく、呪文のように言葉を紡ぎ出した。

「んー、難しいこと説明できないけど、あたしたち、フツーの人たちが知らない世界で戦ってんの。そんで、あんたはそれに運悪く巻き込まれたって感じ」

 まったくもって、意味がわからない。だが、魔女――少女が近づいてきたとき、頭の中でなにかが爪を立ててひっかかるような感覚がした。

 見覚えがある。目の前の魔女に。一体、どこで?

 そう思った瞬間には、無意識のうちに彼は自らの携帯電話スマートフォンを取り出して、自らの中に湧き上がった疑問に対する答えを導き出そうとしていた。それは、とある人物のメッセージアプリのプロフィール画像だ。

 ――赤見内、楓。クラスメイトの、後ろの席の女子。

 彼女のプロフィール画像には、他の高校の制服を着た二人の少女が一緒に映り込んでいた。目の前の魔女は、そのうちの一人に見えた。だがどうしたことだろう、魔女の髪は青々と輝き、その体は青色の光を放っている。これを魔女でないとしてなんと言えばいい。

「そうそう。それがあたし」

 肩がびくりと跳ねる。いつの間に、背後に回り込んでいたのか。魔女は彼の至近距離に潜り込み、彼の携帯電話スマートフォンに表示された画像の自分を指さしている。

 怯えてはいけない、と思った。だからこそ、声を振り絞る。

「……お前、一体なんなんだ」

「だから結乃浜の1年だっつーの。あたしたち、これまであんたを陰ながら守ってたんだよ? そんなこえー目するこたないじゃんよ」

 魔女は不満そうに唇を尖らせた。

「まあ、あんたを守ってたのはあたしじゃなくて、」

 彼女の手がまたしても伸びてくる。払い落とそうと思うのに、体がうまく動かない。

 その指はゆっくりと、控えめな笑顔で写真に映る、クラスメイトの女子を指さした。

「この子だけどさ」


 刹那、ぼんやりとしていた記憶が急に鮮明な映像になって頭を駆け巡った。

 学校でのこと。委員会の先輩にクレープを奢ると言われたこと。商店街で彼女とともにクレープを食べ、それから、それから。彼女は自分に何を言った?


 ――あなたの力をちょうだい。槐くん。


「――ッ!」

 激しい頭痛に息が漏れる。目を瞑れば痛みが増幅するだろうと頭ではわかっているのに、顔中に、体中に力を入れるのを止められない。食いしばった歯がぎりりと音を立てる。

「おいおい大丈夫か~?」

 魔女が――棗、と名乗った少女が槐の背をぽんぽん、と叩いた。まるで猛毒が抜けていくように、痛みがひいていく。顔をしかめながら、目を開ける。

 顔を上げると、少女はとりあえず寝てなよ、と言って、槐からふわりと離れた。

 この状況で寝ていろとはどういうことか。それとも、これは夢で、眠れば何もなかったことになるだろうか。槐はこめかみに右手を添えた。


 呼び声がした。

 夢の中で、ずっとずっと誰かに名前を呼ばれていたような気がする。


 ――くん、伏見くん、しっかりして――


 脳裏にぼんやりと広がる真紅。

 その真紅には、覚えがある。

 真紅で、不思議で、物語的で、突拍子もなくて、唐突に現れて、現実離れしていて、それでも生きた人間だった。

 ――赤い血を、流していたから。


(あのとき俺を呼んでいたのは――赤見内?)


 鈍い痛みに耐えながら何度でも顔を上げる。すると、魔女めいた青い少女が少し離れた場所で飛んでいた。さっきまではどこか緊張感のなかった表情を厳しく引き締めて、北の空を睨みつけている。

 その真剣な瞳のゆく先に、なぜか槐は自分が今いる場所は夢の中でないということを悟ってしまった。

 魔女めいた少女が唇を噛んで、それから口にした言葉はなぜだか彼の耳にはっきり届いたけれども、その言葉は暗号めいていて、今の自分にはその意味を紐解くことはかなわなかった。ただ、最後の言葉から、彼女が何者かの勝利を希求していることだけ、わかった。



「でんでん、ゆず、アカザねえ、あとついでにライチ……負けないでよ」





 ついに楓が膝をついたその瞬間、ライチの喉はひゅうと鳴った。慌てて両手で口を塞ぎ、息を殺す。

 戦況は圧倒的不利。楓も譲葉も、アカザでさえも手傷を負い、めいめいが膝をつき荒い呼吸を繰り返している。そして、その様を天から禍々しいヒトガタが見下ろしている。楓たちが何度も何度も、手を変え品を変え攻撃を仕掛け続けてきたのに、どれもあの化物には届かず、今もその白い肌には傷ひとつない。ライチだけは絶対に見つかるなと指示を受けて隠れているけれど、このままでは――。その先の言葉は考えたくもない。ライチは不安に震える。

 楓が剣を地面に突き立てて立ち上がる。楓は力の抜けそうになる足腰に鞭を入れ、地を蹴って駆け出した。百合が片手をかざせば、また虹色の弾幕が一面に広がる。次々に飛んでくる小さな光のスペクトルを、斬っては斬っては打ち落とす。

 楓は弾幕の中に自ら飛び込んだ。『なにヤケになってんのよ!!』ライチは口を両の手で抑えながらテレパシーだけを飛ばす。楓は体を思い切り捻って回転しながら弾幕を斬りつける。

「どうして……私たちが戦わないといけないんですか!」

 剣の刃が虹色を弾いてガラスのように虹色が砕けて輝くが、楓の足を、腕を、攻撃性を持った煌めきが切り裂いて行く。

「どうして、金の卵って言葉を知っているんですか!」

 楓は百貨店の壁を蹴り上げて登る。百合が放つ弾が楓を追って、百貨店の壁に何十も何百も突き刺さる。

「どうして……伏見くんの魔力を狙ったんですか!」

 百貨店の壁を登りきったところで楓はその壁を蹴り、滑空して百合の頭上を超え、木の上に着地する。百合は木の根本に照準を定めてひときわ大きな光の弾を放った。木が根本からへし折れる。楓は木を蹴った。百合の至近距離まで迫る。だが百合はその剣先をすれすれで躱して、楓の足を捕らえた――そして地面へその体を容赦なく叩きつけ、その薄い腹に鋭いヒールの足を突き立てた。

 五十音で表せない惨たらしい悲鳴。ライチはえずきそうになった。

 百合は楓の体を蹴り転がす。

「わ……たしは……」

 それでも楓は言葉を途切れさせることはない。痛々しくて、苦しくて、頭がどうにかなりそうだ。ライチは口を押さえていなければ耳を塞いでいただろう。見ざる、言わざる、聞かざるのうち、今のライチに許されているのは、むしろ強いられているのは「言わざる」だけだ。

「……私は……鬼崎先輩のことを……尊敬してました……」

「わたしも、あなたのことは嫌いじゃなかった。でも、それとこれとは、別なの」

 かすれた声で告げる楓に、百合は目を伏せてかぶりを振った。そして、至近距離の楓に手をかざした。

「これで、最後だよ」

 百合が弾幕を展開した。この距離では防ぎようがない。アカザの盾すら貫いた弾丸だ。ライチには楓の生存は絶望的に思えた。


 だが、彼女たちはここでは終わらない。


 いつの間に背後に移動していたのか、百合のおおむね1メートルの距離に譲葉が飛び込んだ。しなった杖が風切り音を立てる。

「甘く見ないでね」

 しかし、その杖は百合にダメージを与えることはない。百合は杖を片手で受け止め、戦闘が始まったときと同じように譲葉の体を振り回し始める。強烈な遠心力に譲葉が胃の中のものを吐き出すような呻き声をあげる。

「あなたたちの攻撃は――全部見切ってる!」


 それこそが、罠であった。


 力なく倒れていたはずの楓ががばりと上体を起こした。譲葉が投げ飛ばされて、その体をしたたかに百貨店の壁に打ち付けたとまったく同時に、楓は叫んだ。

「――アカザさん!!」

 譲葉のはるか後方に真っ直ぐ立つアカザが扇を開いて天に翳す。そこら一帯から金色の光が溢れ出す。あまりの眩しさにライチの目が眩む。すぐに目を慣らして見つめると、そこにはライチには思いもよらない光景が広がっていた。

 百合のいる場所を中心として、放射線状に金色の球体が細かく広がっていた。シャボン玉のように照り返す、金色の光弾。だが、ライチにはその光景の意味がわからなかった。その光弾は百合の弾幕のように何かを貫こうとするでもなく、ただ百合の周囲を囲んだだけでふわふわと浮かんでいるのだ。

「――何が目的かわからないけど……無駄だよ」

 光弾を消そうと、百合がそれまでしまっていた黒い爪を伸ばしたその時、

 ――全ては完成した。


「――射程拡張エクステンション!!」

 立ち上がっていた楓が天に向かって吠えた。百合に向かってまっすぐ構えた剣先で光が破裂して、最大出力の光の束レーザービームが百合めがけてほとばしる。百合は膝を曲げて跳ぼうとしたが、その瞬間光弾が百合めがけて集まってきてその肌を灼いた。――光弾に焼かれるか、光の束レーザービームに貫かれるか。

「――効かないよ!」

 百合は胸元をえぐるように突いてきた光の束レーザービームを手に掴んだ。百合の手が光で灼け、その体は光の束レーザービームに押されるように後退したものの、その胸元にまでは光は届かない。

照準固定ロックチェイン!」

 百貨店の屋上で譲葉が杖をかざした。光の糸がより合わさって縄になる。

 楓が叫んだ。

「1!!」

 百合の足元が光る縄に絡め取られる。

 譲葉が声を張り上げた。

「2~!!」

 百合は光の束レーザービームごと楓を投げ飛ばして、足元に絡みつく魔力の糸をその黒い爪で引きちぎる。

 楓と譲葉が声を合わせる。

「3!!」

 譲葉の拘束から自由になった百合が顔を上げた。


「ここまでだ」


 その目前に、真っ赤な木の札を指に挟んだアカザが迫っていた。

 木の札が百合の額に叩き込まれる。


「ああああああ……ッ……!!」


 百合の悲痛な悲鳴が響き渡る。

 札を叩き込まれた百合の額から、赤、青、緑のまばゆい光が迸った。三原色の光は混じり合って白となり全てを満たして破裂する。


 光が収まった時、百合の姿は忽然と消えていた。


 投げ飛ばされていた楓が受け身を取って着地する。膝がかくんと曲がり、楓はそのまま座り込んだ。百貨店の屋上から壁を伝って降りてきた譲葉は楓に駆け寄り、彼女を助け起こした。

「……なに……が、起こったのよ……?」

 ライチは口を塞ぐのも忘れ、呆然と呟いた。アカザがライチに視線を投げ、指でライチを呼び寄せる。吸い寄せられるようにライチは魔法使いたちのもとへ飛んでいった。

「なんだ、我々はずっとテレパシーでやりとりしていたが、聞こえなかったのか?」

 体中に傷を作っているくせに、アカザはけろりと笑った。

「き、聞こえなかったわ……戦闘の音が煩くて……」

 ライチは呆気にとられて、ごくごく正直に白状した。アカザは虹色の弾丸を受けた腕をゆっくりと逆の手でなぞる。時間経過によるものか、すでに傷は消えていた。

「楓にはずっと奴に話しかけてもらった。少しでも集中力を削ぐためにな。効いていたかは微妙なところだが」

 ライチは楓のそばに寄る。激しい戦闘による疲労と顔見知りと戦ったショックによるものか、その顔はげっそりとやつれ、瞳には涙が浮かんでいる。譲葉はそんな楓を支えながら、背中をさすっている。

「楓の射程拡張エクステンションと譲葉の照準固定ロックチェイン。この二つを一斉に繰り出すことで奴を怯ませ動きを止める。それが我々の作戦だった」

「……」 

「奴は強かったが、つけ入る隙はあった。まず、奴の弾幕だ。あの弾幕は常にあるように見えて、両手が塞がっているときは消えてしまう。それに気づいたのが楓だ。確かめるために何度も至近距離に突っ込み、奴の両手を塞いで検証した」

 アカザは懐から懐中時計を取り出すと、指先に光を溜めて照らした。現在時刻を確認したのだろう。いったいどれだけの間戦っていたのか、ライチにはわからない。

「君は驚いていたようだが、楓が奴の弾幕に自ら突っ込んだのは、射程拡張エクステンションの威力を最大まで高めるためでもあった。楓と譲葉でわざと奴に捕まり、弾幕を消す。弾幕が消えたら、私が光弾で奴を取り囲む。射程拡張エクステンションから逃げられないようにな。たたみかけるように照準固定ロックチェインで奴の足を縛って止める。3秒あれば、奴の懐に飛び込むのは簡単だ。――まあ他にも色々あるが、ざっとこんなところだな。思った以上にうまくいって良かったよ」

 ライチは言葉を失った。こんなに満身創痍で、一歩間違えたらあの化物に命を奪われていたかもしれない状況で、楓たちは三人で考えながら戦いを進めていた。平静時のライチであれば、きっともっと色々なことを考えたのだろうが、今は何も考えられない。だって、自分たちが倒すべきはナイトメアで、あんな名状しがたい化物の相手なんて想定外だ。

 アカザは未だ立ち上がれない楓のもとへ歩み寄り労った。

「楓の洞察力の賜物だ」

 楓はずっと目の焦点が合わないような、呆然とした様子でいたが、ようやく視線をはっきりさせて顔を上げる。

「……いいえ、みんなのおかげです。みんながいなかったら、私、どうなっていたかわからない。――もちろん、ライチも」

「私……?」

「君がいなかったら、テレパシーで作戦会議もできなかっただろう。だから君だけは奴に見つかるわけにはいかなかった」

 なんということだろう。自分は楓たちの最終防衛ラインだったなんて。それならそうと、言ってくれればいいものを。もちろんそんな余裕があったわけがないと頭で理解してはいるのだが。ただ狼狽していただけで何の役にも立てていないと思っていたライチは、不思議な安堵感ともやもやした苛立ちに包まれて、どうしようもなく自分の体を抱きしめた。

 楓の背をさすりながら、譲葉が言った。

「さっきの女の人、どうなったんですか~……? しんだのかな~」

「いや、封印しただけだ。いつかまた、眠りから覚める」

 アカザが答える。封印。譲葉がその言葉を繰り返し、楓は苦しそうな顔で俯いた。アカザは楓の頭を軽く撫でた後、その場の全員を見渡して、

「よく頑張ったな。仕事部屋に行こう。棗と、彼も呼んで」

 と言った。その声には疲れが滲んでいたけれど、死闘を耐え抜いた楓と譲葉を讃えるための声色だった。それならば、自分だって同じことをせねばなるまい。ライチは頭を振ってから、重たい空気を吹き飛ばすように、つとめて明るく言い放った。

「こうなったら、あのチビっ子には一切合切、喋らないとだめね」

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