5 ガーディアンガール、闘いへ征く

 その人はどこまでも美しく、そしてどこまでも禍々しい。一歩一歩、歩みを進めるたびにピンヒールのような音が響き渡り、楓の鼓膜を震わせる。楓は体中から汗が吹き出すような感覚を味わっていた。それは強烈な威圧感。否応なしに恐怖を呼び起こされるのはなぜなのか、その禍々しさか、あるいは美しさか。

 信じられないし、信じたくない。それでも、楓の中に流れる魔力が、目の前の存在が鬼崎百合であることを否応なしに理解わからせていた。

 楓の視線は百合に釘付けになりながらも、ぎこちない動きでその手は力を失っている槐を床に横たえた。

 紫色の髪をした百合は、楓の背後、倒れ伏す少年に視線を送る。

「わたしには、彼のチカラが必要なの。返して」

 ――普通の人間じゃない、でも、私たちの仲間でもない!

 返して、ということは、百合は槐をその手中に収めていたと認識していたということだ。そして、あの儀式めいた光景は百合の手によるものということ。楓は困惑を極め、わななく唇でかろうじて言葉を紡ぐ。ライチと槐を背にかばい、震える声で。

「いったい、何をしていたんですか……伏見くんを捕まえて、何をしようと……」

 百合は寂しそうに目を伏せて、首を横に振るだけだ。伏せられた瞳に睫毛がかかって美しく、額にある真っ赤な目玉が楓を睨めつけるのが恐ろしい。

 百合の指先が光ったかと思うと、その爪が真っ黒に変色し、ずるりずるりと伸びる。人差し指、中指から長く伸びたそれはさながら、命を刈り取る鉤爪。死神の鎌にも似た鋭さが、楓の心に恐怖の感情を突き立てる。

「あなたとは、戦いたくないな……」

 やはり、寂しそうな百合の二つの目。そして、怒り狂うようにあかあかと光る、もう二つの目。

「戦いたくない」ということ。それはすなわち「戦わねばならない」ということだ。楓にとってはあまりにも突飛すぎる現実だった。楓はひゅうひゅうと鳴る喉から、なんとか声を絞り出した。百合のところまで届くくらいに声を張れたのは、奇跡のようなものだと思う。

「どういうことですか!? 戦うって……」

「あなたはわたしの敵、ということだよ」

 百合がす、と目を細めた。4つの目から矢のように放たれる鋭い視線に、楓の足はぐらつく。それでも楓のガーディアンガールとしての本質が、楓にかろうじて剣を握らせた――だが。

「……私は……」

 自然と剣を握り込む楓の手とは裏腹に、楓の心はただただ狼狽するだけだ。憧れていた、優しくて美しい先輩。その先輩が異形と化し、自分に武器を突きつけている。それだけで、楓の心が揺らぐのには十分すぎた。

 百合はにこり、と笑った。楓が何度も見た、いつもの笑みだった。


「……死んで」


 百合は鉤爪を楓に向けて地を蹴り、一直線に突っ込んできた。あまりに、速い。楓は剣を握った手を全く動かせない。百合の爪が、楓に襲いかかる。ライチが楓を呼ぶ声が遠く聞こえる。楓は為す術もなく、ただ来るべき衝撃を恐れて目を瞑った。


 衝撃は、来ない。

 目を開いた楓の前に広がる、美しい黒と金。

 百合の鉤爪を、漆黒の扇の親骨が受け止めていた。

「――アカザさん!?」

 楓が声を上げる。百合が飛び退く。花のえがかれた袖の振りを翻し、黄金色こがねいろの扇を広げて。体は百合の方を向いたまま、アカザは楓に向かって声を張り上げた。 

「彼を連れて逃げろ。これは……君には荷が重い!」

 アカザのその言葉を耳に入れた百合が目つきを鋭くした。腰を落として伸ばした爪を口元できらめかせ、

「逃がさない!」

 立ちはだかる障害に向かって牙を剥き、斬りかかる。一瞬で距離が詰まる。斬られる――楓がアカザを呼び、ライチが顔を覆ったと同じくして、アカザは仁王立ちしたまま、目一杯の力を込めて叫んだ。


「譲葉!! 壊せ!!」


「――だらぁぁああああああッ!!」

 棗の金切り声が澱んだ空気をつんざく。槍に跨った棗と譲葉が錐揉み回転しながら天井すれすれを高速飛行して突っ込んできた。譲葉はしなる杖を振りかぶり、天井の、かつてこの地下2階を照らしていたであろうシャンデリアを思い切りぶち打った。巨大なシャンデリアと空調のプロペラが瓦礫となり、真下の百合めがけて落下する。轟音とともに土埃が舞い上がる。

『でんでん! 捕まって!!』

 棗のテレパシーがシンバルのように楓の頭の中で響いた。土埃の沁みる目をそれでも見開いて、高速で突っ込んでくる棗と譲葉を探す。むせ返りそうな口を引き結び、楓は砂塵の中にしゃがみ込む。右腕に力を込めて倒れ伏す槐をしっかと抱え、左手を垂直に天に向かって伸ばした。

 楓の左手を、棗の右手ががしりと掴んだ。

 棗は後ろに乗せた譲葉と右手に掴んだ楓、そして楓が抱えた槐をかっさらって姿を消した。ほんの数秒の出来事だった。


 土煙が少しずつ晴れてくる。降り注いだ瓦礫がばらばらと壊れる音が耳障りだ。アカザは扇を閉じて、金色の光の壁を展開するのをやめた。ただでさえカビと花の臭いでおかしくなりそうなのに、更に土埃で鼻が曲がりそうだ。

「――いやだなあ、髪が汚れちゃった」

 土煙の向こうでゆらりと立ち上がる、異形のヒトガタ。どこまでも美しく、どこまでも禍々しいそのヒトガタは、紫色の髪にゆっくりと指を通して、体にかかった埃を叩いて払い落としてから、ゆっくりと顔を上げた。

 その露出した肌には、傷一つない。

 アカザは唇を三日月のようにして笑った。そしてその笑みを、開いた扇で隠した。

「やれやれ、面倒な手合いと当たる羽目になったものだな」

 視線の先、真っ赤な4つの瞳を持つヒトガタはにこりと笑ったと思うと、すうと表情を消して、冷たく宣言する。

「……わたしの目的を、邪魔はさせないよ」

 やがて、土煙が全て晴れる。

 静けさが広がる。

 壊れたシャンデリアに微妙なバランスでひっかかっていた部品がゆっくりと落ちる。カラン、と音がしてシャンデリアの部品が床を叩いた瞬間、二者は同時に地を蹴った。





 厚い雲の切れ目には星が輝くのに、闇色の空は手が届きそうなほど近く重たく、楓たちの心を圧迫する。

「なにあのキモい女!! 何者!? でんでんのことめっちゃ睨んでたけど知り合い!?」

 アップ中のランナーのように、ぴょんぴょんと跳ねてはそこら辺を小さく駆け回る棗。棗が百合の姿を視認できた時間はわずかな刹那だったはずだが、その間にしっかりとその姿を目に焼き付けていたらしい。

 もっとも、あの危機的状況にそこまで対応した棗を称賛するほどの余裕は、楓には砂丘を吹く砂の一粒ほどもなかった。楓は目を泳がせながら震える声で呟く。

「うちの学校の……先輩……」

 声になっただけましだろうか。譲葉と棗が顔を見合わせる。

 ライチは座り込んだ楓、立ち尽くす譲葉、動き回る棗の周りをくるくると螺旋を描いて回る。ライチの発する光の軌道はいつもより美しさに欠ける歪みを持ち、ライチの動揺を否応なしに伝える。

「まさかナイトメア……? ううん、人間の姿をしたナイトメアなんているわけないわ。一体どういうことなのよ……」

 状況説明を要請した譲葉に、ライチは自らの見たままを答えた。異様な景観と囚われていた少年、そこに襲いかかってきた謎の存在。

 爆発音と衝撃がびりびりと全員の体をつたう。アカザがおそらく、百貨店の中で百合と戦っている。譲葉は汚れきった百貨店の回転ドアに視線を動かす。

「アカザさん、一人で大丈夫かなあ……」

「どーする? 加勢に行くか?」

「それじゃ逃げてきた意味ないでしょうが……」

 譲葉たちの声は遠い。


 震えが、止まらない。


 鬼崎先輩が、伏見くんを捕まえたの? いったい何のために? ナイトメアと同じように、伏見くんの魔力を狙っていたの? 学校であんなに親しげに声をかけていたのも、そのためだった?

 箒を持って投げかけてくれた華やかな笑顔、頭を撫でてくれたやさしい手。二人だけの秘密。

 鬼崎先輩――どうして。


 死んで、という声が、耳の中でいつまでもいつまでも反響している。


 とん、と肩に手を置かれる感触で、楓は俯いていた顔をはっと上げた。

「きつかったら代わるって言ったよねぇ。今が、その時だと思う~」

 緑色に輝く瞳が楓の視界に飛び込んでくる。楓の顔を覗き込んで、譲葉はいつもどおりの間延びした口調で言った。

「顔見知りと戦うのなんてあたしだってキツイよ。ここはあたしらに任せな」

 上から棗の声が振ってきた。その手は槍を強く握りしめ、闘志を指先まで込めている。

「ゆず……、めーちゃん……」

 二人はアカザに混じって、百合と戦おうというのだろう。楓の視界は何度もぼやける。体の異変でもなければ涙が出ているわけでもない、ただ、混乱によってそれはもたらされていた。

 体が動かない。

 夜の闇に押しつぶされそうだ。


「しっかりしなさいよ、楓!!」

 楓と譲葉の間をぬってライチが飛び込んできた。譲葉は驚いたのか、わあ~、と緊張感のない鳴き声を上げて後ろに転がった。

 眼前の妖精が放つまばゆい光。ライチは楓が眉を寄せて目を瞑るのにも構わず楓の頬を小さい手でぱしぱしと叩いた。やわらかい衝撃はいつもはくすぐったいが、今は刺すような痛みすら感じる。

「戦うにせよ、逃げるにせよ、アンタが動けなきゃなんにもならないわ!」

 ライチは楓の顔面すれすれから距離を取る。光が遠ざかり、楓がゆっくりと目を開けて、ぎゅっと閉じて、もう一度開けたのをしかと見届けて、ライチは腕を振りかぶって楓の視線の向こうを指さした。


「今まで一緒に――守ってきたじゃない、コイツを!!」


 あまりにも細いライチの指は、力なく伏したままの槐を指している。楓は視線を緩慢に動かした。彼が目を覚ます兆候はない。ぐったりと投げ出された手足。

 薄ぼんやりと開かれ、震えていた楓の瞼が少しずつその在りようを変えてゆく。何も考えられなかった頭の中が揺さぶられるように、記憶が回転する。


 前の席から振り返る姿。携帯電話スマートフォンを差し出してくれた指先。おはようと声をかけられた後の気だるげな横顔。後輩たちに囲まれて家路につく背中。机を運ぶ、少し日焼けした手。

 楓の手を握り、怪我を案じてくれたときの、まっすぐな瞳。


 ――伏見くんを、守らなきゃ――


 パンッ、と乾いた音が響き渡る。転がったままだった譲葉はのっそりと起き上がり、百貨店の建物を睨みつけていた棗はふと表情を緩めて振り向く。両の手で叩かれた楓の頬は灯火が宿ったように赤い。譲葉と棗、そしてライチからの視線を集めた楓ははあっ、と肺から力いっぱい息を吐き出した。まるで今まで止まってしまっていたかのような時が、肉体が、心臓が動き出す。石のように固まった体がぱきぱきと音を立てて息を吹き返す。――考えて。この場を切り抜ける、一番の方法を。

 時計の針が動き出す。楓は立ち上がった。少ない街灯の明かりがその頬をうっすらと照らす。

 心は、決まった。

 楓は昏昏と眠る槐を見つめて、それから棗に要請した。

「……めーちゃん、彼を連れて安全なところまで逃げて」

「え、あたし!?」

 棗は甚だ驚いたといったリアクションをした。槍を思わず手から取り落としそうになり慌てて捕まえる。る気満々だったのであろう、目をぱちくりさせるその頬には「なんで!?」という感情が浮かび上がっている。

「私たちの中で、一番遠くまで、一番早く逃げられるのは、めーちゃんだよ」

 それが楓の出した結論だった。何よりも今は槐の無事を最優先させるべきだ。棗は楓の傍に駆け寄ってその表情を見上げた。楓に問う棗の声は低く、真剣だった。

「……でんでん、大丈夫? 戦える?」

 楓はまなじりを決して、棗の瞳をまっすぐに見返した。

「黙ってやられるわけにはいかない」

 棗はそれを受けて唇を引き結ぶ。しばらく楓の顔をじっと見つめていたが、楓の瞳に光が戻ってきたのを見て取った棗はやがて不敵に唇の端を吊り上げた。

「わかった。コイツのことはあたしに任せな」

 そうして素早く槍に跨り、槐の首根っこをむんずと掴むと槍に乗せた。棗の魔力で宵闇に青い光が生まれる。空高く浮かんでいく棗とその槍に乗せられた槐を、楓は見上げた。

「――瞬間加速アクセラレイター!」

 棗が加速する。瞬きの間に青い光は空の彼方へ消え去った。宵闇の帳がゆっくりと降りてくる。楓と譲葉はどちらともなく目を合わせた。ずっと響き続けていた振動、戦闘音が少しずつ大きくなってきていることを二人は感じ取っていた。

 譲葉が心配そうに楓を見つめる。言葉はないが、その瞳は雄弁だ。楓は少し俯くと、譲葉のその瞳に答えを返した。

「すごく、優しい先輩だったんだ。だからまだ信じられないし、正直戦えるか不安だよ。でも……先輩が人に害をなそうとしているのなら、絶対に見過ごせない」

 譲葉は楓の傍に寄ると、その手を取って両手で握りしめた。

「無理だったらすぐに逃げてねえ、約束だよ」

「ありがとう、ゆず。約束する」

 楓は譲葉に握られていた手の小指をそっと差し出した。譲葉は目を丸くしたかと思うと、不安の顔を決意の表情に塗り替えて、楓と指切りを交わす。

 そうして、二人は己の武器を取った。ライチが楓たちの背後に回る。

「……来るわよ!!」

 破裂音が木霊し、窓が突き破られる。二つの人影が窓から一斉に飛び出してきた。金色こんじきの光が沸き起こり、そこに漆黒の女性が着地する。白い肌を惜しげもなく晒す妖しげなヒトガタは、透かし羽を羽ばたかせて空へ舞った。紫色の髪が風になびく。

 楓はアカザの着物の裾が破けて、その足が露わになっているのを見てとった。一方の百合はシャンデリアを上から降り注がせたはずなのに、無傷で汗一つもかいていない。

 アカザがその衣装を乱すほどの相手。楓はごくりと喉を鳴らす。譲葉と頷き合い、アカザに声をかける。

「アカザさん。彼はめーちゃんに預けました」

「一緒に戦います~」

「逃げろと言ったのに……仕方のない子たちだ」

 アカザの表情は見えないが、ふ、と笑う音がした。けれど、その笑いは彼女の息が上がっていることを如実に語っていた。楓も譲葉も、事実に接して体に力が入る。

 けれど、退かない。

 アカザは餌を狙う肉食動物のように体を低くした。彼女がこんな体勢になるのを、初めて見る。緊張を高める楓と譲葉をちらりと一瞥し、アカザは二人に告げた。いつも飄々とした彼女からは聞こえないはずの、こいねがう声だった。

「済まないが、囮になってくれるか。私に手がある。あれの動きを、5秒……いや、3秒止めてくれ」

「――はい!」

 楓と譲葉は声を合わせ、互いの獲物を構える。

「二人とも、思いっきりぶつかれ。でなければ死ぬぞ」

 楓は空を見上げた。不気味な透かし羽が細かに羽ばたき、その模様は楓たちを惑わすかのような圧迫感を与えてくる。

 百合は空の上から楓たちを見下ろすと、目を伏せて笑った。その笑みは人を死に至らしめる吹雪を思わせた。

 妖艶な唇が言葉を紡ぎ出す。

「……『金の卵』の魔力を手に入れてからことを進めたかったけど……これはこれで都合がいいかな」

 楓の背後で、ライチが息を飲む音が聞こえた。


「アイツ……どうして『金の卵』のこと知ってるわけ……!?」

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