4 ガーディアンガールの前に立つもの

 不気味な静けさが漂っていた。


 槐を狙ってナイトメアが湧き出る、塾の入ったビル。楓はその屋上でゆるやかな風に吹かれていた。沈んだ太陽が空に残した夕焼けの残滓が、そろそろ完全に消えてしまう頃合いだ。

 この近くではナイトメアの気配はしない。大群のナイトメアで埋め尽くされた屋上も、今は何もなく風が通り過ぎていくだけだ。それは喜ばしいことのはずなのに、響き渡る静けさが胸の中に違和感をもたらす。なぜこんなに不安なのだろう。昨日の、あるいは昼間の出来事のせいだろうか。

 譲葉と棗はショッピングモールに出現したナイトメアと交戦している。楓といえば、放課後すぐに下校するのがなぜだかためらわれ、譲葉や棗からメッセージが届いているのにも全く気づかず、授業の内容について教師に聞きに行ったら予想以上に時間がかかってしまった。ようやく下校し、変身トランスしてテレパシーが繋がった時、二人は楓に何かを言いたげであったが、直後に現れたナイトメアを倒しに行ってしまった。

 きらり、と光の筋。

「ゆずとめーちゃんは?」

「苦戦はしてないわ」

 楓の懐まで飛び込んできたライチは山吹色の髪をかきあげる。

「そっか。……こっちは今日は静かだよ」

 楓のその言葉を聞いたと同時に、ライチは美しい顔を気むずかしげに歪める。どうしたのかと首を傾げる楓に、ライチはしばしきょろきょろと周囲を見回した後、こう告げた。

「……ちょっと。ここにあのチビっ子いないわよ。魔力を感じないもの」

「え……?」

 楓は携帯電話スマートフォンを出して現在時間を見た。しかし、確認するまでもなく塾の時間はまだ空が明るい時分から、とうに始まっている。楓とライチは顔を見合わせて、互いに首を捻った。




「忘れ物……ですか? 実は、伏見くん今日まだ来てなくて……連絡もないんですよ。遅刻したこと、一度もないのに……どうしたのかしら」


 槐が学校に忘れ物をしたので塾に届けにきた、という設定で塾の扉をくぐった楓に、塾のスタッフは心配そうな顔でそう言った。再度変身トランスして屋上に舞い戻り、それを報告した楓に、ライチはだからいないって言ったじゃない、と肩をすくめた。

 一体どうして。心もとなさにやるせなく屋上からの景色をただ見回す楓に、ライチが声をかける。

「アンタ学校一緒なんでしょ? どっか行くとか言ってなかった?」

「放課後に商店街のクレープ屋さんに行くって。でも塾にも行くって言ってた……どうしたんだろう……」

 楓は空を見上げる。澄んだ群青色の空にかかる雲はどす黒く、楓の不安を煽った。ライチが楓の顔の前でふわりと翻る。

「楓、来なさい。探すわよ」

「確かに私も探したほうが良いと思うけど……私は、ここを離れても大丈夫?」

「もし途中でナイトメアが出たらその時どうするか考えるわ。なんか知らないけど、着物女にも金の卵をしっかり守れって言われてんのよ」

「アカザさんに……」

 黒い着物の麗しい背中を思い出す。

 楓はフェンスに乗り上げ、それを蹴って隣のビルに飛び渡った。ライチは譲葉と棗にテレパシーを飛ばす。

「金の卵がいつもの場所にいないわ。探すから私と楓は移動するわよ」

『例の野郎なら見たよ。商店街のクレープ屋にいた。ちょっと気になって追っかけたんだけど、見失った』

 息を弾ませた棗から返答が来る。まだ交戦中らしい。楓とライチは頷き合い、商店街を目指した。

 なぜだか、次々と不安のかたちをしたものが心の中に襲いかかってくる。楓は空に向かって祈った。

(伏見くん、鬼崎先輩……何事もありませんように……)





 商店街のクレープ屋に着くとライチはすぐに槐の持つ強い魔力の気配が残っていると言い、彼の魔力の気配を追いかけ始めた。楓とライチは商店街を抜け、小学校の通学路を抜け、森の中にある果樹園を超え、山へ続く坂道を上がっては下がった。ナイトメアとの交戦を終えた譲葉と棗にライチは合流指示を出し、楓は自らの位置を携帯電話スマートフォンで二人に逐一伝える。夜はどんどん更けてゆき、空の殆どを紺色が支配する時間になった。ナイトメアが邪魔をしないのは幸いであった。

「ここだわ。間違いない……でもどうしてこんな所に」

 ライチが呟く。

 楓とライチは町外れの森のなかに寂しくそびえ立つ、もう十年ほど前に廃業したらしい百貨店に辿り着いていた。色あせた、雨染みがこびりつく灰色のビル。割れた窓。回転ドアのガラスにもべっとりとした汚れが見える。肝試しにはもってこいのロケーションだ。心拍数が上がる。槐が、自らこの場所に訪れるなど、考えられることではなかった、それは百合にしても同じこと。「何か」があったのだという悪い予感がじわじわと確信に変わっていくのが恐ろしい。

 楓は自分の位置を棗の携帯電話スマートフォンに送信し終えると、ゆっくりと回転ドアを押し、ライチとともに百貨店の中に入る。異臭が鼻をつき、楓もライチも顔をしかめた。百貨店の中からは、カビ臭さの他に、なぜか花の匂いが漂っていた。歩みを進めるたびに、こつん、こつんと楓のブーツの音が反響する。百貨店の中は真っ暗だ。変身トランス後の身体能力で夜目はきくが、油断はならない。その空間は、どこまでも不気味だった。

 ライチは飛んできて楓の肩にそっと腰掛け、地下から魔力の気配がするわ、と囁いた。もう動かないエスカレータを探し当て、ゆっくりと降りていく。電気の通っていないはずの百貨店の地下2階から、白い明かりが漏れている。楓は地下2階へ歩みを進め、そして。

 異様な風景が広がり、楓は呼吸を忘れた。

「……なによ、これ……」

 ライチが震えた声を出して楓の首筋に寄り添った。オイルやシャボン玉のニュートンリングのような虹色の光を放つ水が、辺り一面を浸している。壁という壁にびっしりと張り巡らされた、鮮やかな橙色に薄気味悪い黒い斑の巨大な花々。明らかに百貨店のそれではない光景。死した百貨店にはびこる生きた花々には生命の美しさ、鮮やかさなど到底感じられず、むしろそれは限りなく死、あるいは生ける屍を思わせる。押し付けられる生命世界との隔絶に楓は吐き気がした。

 駆け出したい思いを抑え、じわじわと歩みを進める。幸い、床を廻る妖しい水は楓のブーツにまとわりつくことはなく、歩くことには支障がなかったが、ぴちゃりぴちゃりと言う音が更に生理的嫌悪感をかきたてる。白い光は、地下2階の中央辺りから漂ってきているようだった。かつては様々なものが陳列されていたであろう、すすに汚れた棚の間をくぐり抜ける。

 やがて、楓とライチは地下に作られた広場にたどり着いた。モール風ヶ原にもある、なにかイベントの時に利用される広場だ――そこには。


 床一面、真っ白に敷き詰められた花は、虹色の水を吸って時折虹色にぼやりと染まる。

 その白い花に真っ赤なインクのようなものがぶちまけられている。

 赤い模様は複雑な模様を描いてぐるりと広場中を周っている。

 それは、一定の理に沿って描かれた魔法陣だった。


 天井から伸びてくる瑞々しい若草色の蔓が――人間の手首に巻き付いている。



 真っ赤な魔法陣の中心に、縛られた両腕を上から吊られて。

 萎れた花のように力なく項垂れる槐の姿があった。



「――伏見くん!!」

 楓の全身を、血がどばりと抜けていくような寒気が襲った。蒼白となった楓は堪らず白い花を掻き分けるようにして彼のもとへ駆け寄った。その肩の上で言葉を失っていたライチがやがて我に返り飛び上がり、楓に呼びかける。

「生きてる、生きてるわ! 魔力の気配がちゃんとするもの。でも、どうしてこんな……」

 両腕を吊られている槐の傍まで来た楓は、しばしの逡巡ののち、彼の首筋に指を当てた。脈は、正しくある。苦しげではあるが、息もしている。楓は焦燥と恐怖に上下する肩と震える胸を押さえて息を吐き出してから、立ち上がりアミュレットを剣に変形させて構える。剣の一振りで槐を拘束する蔓を叩き斬ったかと思うと、即座に剣を投げ出し支えをなくして倒れ込む槐を受け止めた。

「伏見くん、伏見くん……しっかりして!」

 楓は必死に呼びかけるも、槐の意識は戻らずぐったりと体を投げ出すばかり。縛られた手首に蔓の痕が見えて痛々しい。

(ナイトメアの仕業なの? でも、今日はモール風ヶ原に出た以外のナイトメアの気配はなかった……)

 手首の痕をなぞりながら、楓はせり上がってくる言いようのない恐ろしさに耐えて頭を回転させる。しかし答えは出るはずがなかった。初めて置かれた状況に、思考は無力でしかない。

「とにかく、早くここを出るわよ……!」

 ライチの声に楓は頷く。そして、動かない槐の手を取って、彼を抱えて立ち上がった。


「待って」


 鈴の音のような。

 このおぞましい場所にはとても似つかわしくない、綺麗な声が響いた。


 闇から姿を現したのは、紫色の髪をなびかせた、妖艶な、しかしこの世のものではない恐ろしさを持った女だった。

 その女の上半身はほとんど裸に近かった。美しい肢体の局部だけを漆黒の花や蔦のようなものが蛇を思わせるうねりで巻き付いて隠す、あまりに過激ないでたち。その頭からは赤く細い角が天に向かって伸びる。長い脚は同じく漆黒の草葉で覆われ、そのシルエットはピンヒールのニーハイブーツのようだ。歩くたびにカツン、カツンと音が響き、豊かな胸が揺れる。腰のあたりからは、蛾の羽を思わせる薄気味悪い透かし羽が生えており、まるで楓たちがいつも交戦しているナイトメアのように、大きく羽が広がり、その毒々しい紋様をもって見るものを威嚇する。

 何よりも禍々しいのは、額の真ん中と胸元に見開いた、血のように赤い、目玉。

 ライチが楓の直ぐ側で震えているのがわかる。あまりにその姿は狂気的、あるいは冒涜的で、楓は温度を失っていく唇を噛み締めて、その女を見据えることがせいぜいであった。

 女が口を開く。


「どうしてここが判ったの? 結界、張ったはずだったのにな……」


 ――その声は。

 楓の手から、足から、体中から、力が抜ける。まさか、そんな。楓は意識のない槐を支えたまま、その場に座り込みかけて、必死に足を踏ん張った。



「……鬼崎……先輩……?」



 その声は紛れもなく、鬼崎百合のものだった。

 紫色の髪をするりと手で撫でて、女――百合は、妖美に微笑んだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る