2 ガーディアンガールとプリンアラモードクレープ

 その日、首都圏では平年よりも大いに早い梅雨明けが発表され、広がる晴天はメディアを賑わせていた。風ヶ原町といえばまだ梅雨の雲の中にあり、傘立てには青や黒、透明、赤や紫、様々な色の傘が並んでいる。「一高」に通う生徒たちは、梅雨明けのニュースをどこか他人事のようにぼんやり輪郭のない捉え方をしていた。

 そして、1年A組。

「赤見内さん、よく頑張りましたね」

 銀縁の眼鏡をかけた初老の女性教師がにっこりと微笑み、楓に一枚の紙を差し出した。そこには真っ赤なペンで記された100の文字。勉強の甲斐あってか、楓は理科の小テストで満点を取ることができた。丸しかついていないテスト用紙は、楓に満足感と達成感を与えてくれる。

 白い紙に、赤い文字は映える。正答誤答、そして点数を記すとき、赤という色を使うようになったのはなぜなのだろう。そういえば、外国では赤は危険を示す色であるからして、生徒にプレッシャーを与えてまっすぐな成長を阻害するため、赤を使うのはやめようという動きが広がっているとかいないとか。いつか青やオレンジ、ピンクといった色でテストが採点される日が来るのかもしれない、などといった考えが、あっという間に楓の頭の中で色を塗っては消されていった。

 さて、この1年A組において、この小テストで満点を獲得したのは楓のみであった。楓は他人のテスト結果にはあまり興味はなく、成績において誰かより秀でたいという気持ちが特別あるわけではない。一人、というのはいささか寂しさがある。まあ、同級生にはいつものごとく無視されて、誰も自分のテスト結果にも興味などないのだろうが――そう思った矢先。

「楓ちゃん、すげー!」

 隣から大きな声が上がって楓はびくりと肩を震わせた。恐る恐る、油の切れた機械のような動きで首を回して隣を見ると、繁縷はこべが楓に向かって両の手を差し伸べるようにして拍手をしている。その表情は晴天を思わせる快活な笑みだ。

 繁縷の笑顔に楓の心は和らいだが、しかし同時に不安も沸き起こる。あまり悪目立ちすると、また陰口を叩かれるかも――。

 そう思った時、教室からぱらぱらと拍手が湧いた。一体どういうことかと楓は思わず周囲を見渡した。同級生たちの手が拍手の動きをしている。繁縷の大声と拍手につられたのだろうか。それはいつぞやの、他の同級生を褒めそやす拍手と喧騒に比べれば甚だ控えめなものだったけれども、楓を称賛するささやかな拍手だった。

 少し嬉しくて、少し照れくさくて、どうしたらいいのか楓にはわからなかった。楓は半端な笑顔を浮かべて、直後にその半端な笑顔が恥ずかしくなって、唇を引き結ぶように強く噛んでそそくさと席についた。

 教師は同級生たちにもテスト結果を配りだす。各々のテスト結果に同級生たちは沸き立ち、教室は騒がしくなった。いつも通りの教室の雰囲気が戻ってきて、楓はなんだかほっとした。この教室という空間で褒められるのは、慣れない。

「おい、赤見内」

「わあっ!」

 何の前触れもなく突然槐が勢いよく振り向き即座に楓と目が合ったので、楓はあまりの驚きにひっくり返った間抜けな声をあげた。急に心拍数を上げだした胸を押さえて、楓は自分に落ち着けと何度も何度も命じる。

 礼を言わなければなるまい。楓が満点を取れたのは、自力で解けず、彼に教えてもらった宿題の部分がテストに出たからだ。満点を取れたのは彼のおかげのようなもの。

「あ、あの、この間の宿題教えてくれてありがとう。おかげでテストでも解けたよ」

「ん? ああ、そういやそうだったか。よかったな」

 楓がつっかえながら槐に礼を伝えると、彼はごく簡潔に楓を祝福した。

 満点は楓だけ。それはつまり、学年一の成績を誇る槐も満点を取れなかったということだ。にもかかわらず、槐は自分より好成績をあげた楓に嫉妬の感情一つ見せようとしない、もちろん心の中までは覗くことはできないのだが。楓は槐のそんな佇まいに尊敬の念を覚え、見習いたいものだと思った。

 尊敬に浸るのもつかの間、槐が唐突に身を乗り出してきたので、楓は胸を抑えていた手を更に力を込めて握りしめた。顔が近い、いや言うほど近くはないし、決して自分のパーソナルスペースを侵されているわけではないのだけれど、困る。

「問4の答え、どうなってる」

「と、問4? えっと……」

 楓は固く握りしめた手をぎこちなく開き、おたおたとテスト用紙を机の上に広げて、自分の書いた答案を指差した。すると槐はすぐに自分のミスに気がついたようで、あーそこか、と悔しそうにぼやいた。かける言葉が思いつかず、楓は縮こまって視線を泳がせる。

「わかった。サンキュ」

 そう言ったきり、槐は前を向いた。安堵したような、けれどなにか惜しいものをなくしてしまったような、不思議な感覚が楓の中に残った。ちょうどそのタイミングで教師がテストを配り終え、教室全体が授業に向かいだす。

 礼を言うどころか、礼を言われてしまった。テストが戻ってきてから今まで、緊張感と高揚感に飲まれっぱなしだ。楓はどんな顔をしていいかわからなくて、とりあえず俯いていたが、右方向から生っ白い手がにょろにょろと伸びてきた。繁縷だ。細い人差し指と中指に、折り畳まれた小さな紙が挟み込まれている。楓はその紙を受け取り、こっそりと開いた。そこには繁縷愛用の4Bの鉛筆で書き殴られたメッセージがあった。

『楓ちゃん満点おめでとう! 伏見くんともこの調子でガンガン距離詰めようゼ!』

 ……だからそういうのじゃないって言っているのに。そう思って繁縷の様子をちらりと見ると、両腕で頬杖をつきながらにやにやと笑っている。

 繁縷はいついかなるときでも声が大きく、良くも悪くも存在感が強い、そういうタイプの少女だった。同級生からはアクの強いタイプと思われているようで、あまり彼女に積極的に声をかける生徒は少なかったが、繁縷は一切周囲からの評価を気にする素振りを見せなかった。強い、と楓は思う。そんな「強い」少女とお近づきになったためか、繁縷と友人になってから、クラス委員の女子グループによる露骨な嫌がらせは鳴りを潜めている。虎の威を借る狐だろうか、とも思うけれども、一人でいるのと、繁縷と一緒にいるのと、それだけで教室の中の何もかもが違って感じられる。繁縷の存在は楓にとってどうしようもないくらい救いだった。だから、繁縷には感謝してもしても、してもしてもしてもしきれないのだけれど……からかわれるのだけは、どうにもこうにもむず痒い。

 かつては一週間が空虚だったのに、今はこの数分だけで色々なことが起きすぎる。果たして、自分は今どんな顔をしているのだろうか。とにかく、今は授業中。火照る頬も、友人への感謝も、この時間は雑念になる。楓はそれらをどうにか心の中の宝箱にしまいこんで、黒板を見上げた。優しくて温かい笑顔の理科教師が、そのおっとりした口調に見合わないほどの力強さで板書をするので、またチョークが一本折れて粉が飛んだ。





 重たい雲の合間に少しだけ青空が見える。商店街を鮮やかに彩るペナントが、強い風に揺れている。

 文具店から出てきた楓は携帯電話スマートフォンのメモ帳アプリを開いて眺めた。これで紫苑に頼まれていた買い物ミッションは完遂だ。楓は紫苑から預かっていたネイビーの長財布の中を覗き、しばし考えた。

 紫苑からは「残ったお釣りで甘い物でも食べてこい」と言われている。楓にお遣いを頼むときの紫苑の口癖で、それは頭を撫でる紫苑の手とセットだ。

 紫苑は楓にできるだけ気取られないようにしているが、楓は紫苑ができるだけ生活費を切り詰めようと努力しているのを知っている。だから普段であればお釣りは全て紫苑に返すのだが、楓の足はスイーツ店が並ぶ区画へふらふらと吸い寄せられていく。小テストで満点取れたし、たまにおやつを食べてもいいかな。いくつかの店舗を行ったりきたりを繰り返す。そして楓は香ばしい匂いに惹かれ、クレープを買うことに決めた。

 楓は自分のために苺のクレープと、紫苑へのお土産にウィンナーとサラダが入ったクレープを買った。会計を済ませ、クレープ用の丸い鉄板に生地が流し込まれトンボでするすると伸ばされていくのを眺める。薄く焼けた生地の上に純白のクリームとあかあかとした苺が並べられていく一方で、店の奥にある電子レンジからはチン、とウィンナーが温まった音がした。簡単な食事こそ作るが、お菓子作りはさっぱりな楓にとってクレープ店で見るこの動きはまるで魔法だ。――と思ってから、自らが「魔法使い」として戦う身であることに思い至る。……変身トランスしたら、手先ももっと器用になるだろうか、などと無益なことを考えた。

 焼き上がった二つのクレープを受け取ったと同時に、後ろから肩を叩かれた。

「奇遇だね! こんなところで会うなんて」

「……鬼崎先輩! こ、こんにちは」

 振り向いた楓の後ろにいたのは鬼崎百合だった。今日は咲き誇る梅雨の花を思わせる薄紫のリボンで髪を結わえている。楓が挨拶をすると、百合はふわりと笑った。花が舞うような笑顔に、楓の胸は高鳴る。

 百合は店員に向き直ると、プリンアラモードのクレープを一つ注文した。

 ふと周囲を見渡すと、道行く人々がこちらを見ている。他校の制服を着た女子のグループ、買い物かごを手にした老齢の女性、手と手を繋いだ親子連れ。その視線の先にいるのは百合だ。きれいだね、とたどたどしく紡がれるこどもの声。みな、彼女の美しさに魅入られているのだと楓は思った。百合の横顔を見つめる。彫刻のような美にうっとりと見とれてしまう――ところが。


 店員がクレープの金額を口にした、次の瞬間だった。

「これで足りるかな?」

 百合はスクールバッグから札束を取り出した。


 眼球が飛び出しそうになった。


 ぶるぶる震えながら百合の手元を見る。札束である、万札である。その厚み、実に数センチ。

 会計をしていた店員も氷のように固まってしまっている。百合に魅入られていた周囲の人々が、別の意志をもってざわつく。


「そそそそそそそそれしまってください!!」


 楓はなりふり構わず声をあげざるを得なかった。百合は楓の顔を見てぱちくりと何度かまばたきをした。

 




「これは、一万円です。クレープは一つ500円くらいで買えるので、これが一枚あれば十分です」

 百合は神妙な顔で頷く、そして硬貨を乗せた手のひらをもう片方の手で指さして、頬に含羞の色をたたえておずおずと楓に耳打ちする。耳打ちはこそばゆくて、百合のそばからはいい匂いがして、楓は頭がくらくらしたけれど、なんとか耐えた。

「……お金を出したらお金が増えたのはどうして……?」

「え、えっと……それは、おつりです。500円のクレープを買うのに、一万円は多すぎますよね。だから、多すぎる分を返します」

 楓は愕然とした。百合は貨幣のことをあまりにも知らなすぎる。繁縷が前に言っていた「大富豪のお嬢様」という噂は本当だったのだ、と思う。それでも楓は決して百合のことを笑ったりはせず、その質問にひとつひとつ丁寧に答えていった。貨幣の種類。普段学校で使う日用品のおおまかな値段。それから、札束を持ち歩くことの危険さ。

 新緑が揺れる中、楓と百合は坂道をゆっくりと登り続けていた。クレープの会計に手間取る百合が危なっかしくて見ていられない、楓はそう思い、百合を家まで送ると申し出たのだった。

 歩きながら、百合がクレープをひとかじりする。食べる仕草も美しく、その口が小さく開くのに楓の視線は吸い込まれる。百合は楓の視線に気づくと、恥じらいに頬を染めて苦笑した。

「実は、自分でお買い物したことって全然ないんだ」

 楓は返答に迷い、曖昧に頷いた。それはそうだろうと思う。これで買い物にしょっちゅう出歩いていると言われたら逆に驚いてしまう。百合は口元に人差し指を当てて、言葉を続けた。

「恥ずかしいから、学校のみんなには内緒にしてね……?」

「は、はい、誰にも言いません」

「ありがとう!」

 楓が百合の頼みに応えると、百合は心底安心したという笑顔を見せた。学校のみんなには内緒。なんという甘美な響きだろうか。百合の意外な一面は、もしかしたら楓だけのものなのかもしれない。その現実にどきどきと胸が鳴る。

 だが、それでも不思議だった。

「……でも、クレープひとつくらいなら、その、なんというか……お家の人とかに言えば、買ってきてもらえるんじゃないでしょうか……?」

 あんな札束を一人で持てるくらいなのだ、きっと家には家族だけでなく、お手伝いさんだとか、執事だとか、そういう存在がきっといることだろう。買い物を知らない百合が無理をする必要など、どこにもないはずだ。

 楓の疑問を聞いた百合はふっと息を吐いて微笑んだ。心なしか、さっきよりも頬が赤らんでいるような気がする。


「……伏見くんにクレープをおごりたかったの」


 予想の外から入り込んできた彼の名前に、楓は心臓を鷲掴みされるような感覚に襲われた。一気に固くなろうとする表情筋に平常心、平常心と呼びかける。

「うちの委員会でグリーンカーテン作ってるんだけど、水やりがけっこう大変なんだ。彼、この間それを手伝ってくれて。だからお礼をしたくって」

 楓は校内にゴーヤのプランターがずらりと並ぶ区画があるのを思い出す。水場はプランターから遠く、確かにあの場所の水やりを一人でとなると大変だ。楓ももし一人で水やりをする百合を見かけたら、きっと見かねて手伝っただろう。

 一人水やりをする百合に声をかけて、それを手伝った槐の姿が勝手に思い描かれる。


 ――なんだか、胸の辺りが息苦しい。


 楓は首を軽く振って、前方を見据えて歩き続けた。

「でも、男の子にクレープなんて変かな?」

「えっと……甘くないクレープもありますし、甘い物苦手な人でも大丈夫だと思います……」

 百合の美しい声が楓の胸中を揺らす。さながら強風に為す術もなく揺らされて音を鳴らす風鈴のようであった。楓は紫苑への土産に買ったクレープを思い出しながら百合の問いに答えたけれど、何かが心の中につっかえたままだ。

 どうして、こんな気持ちになるのだろう。

 楓は自分を恥じた。もっと明るい気持ちで、楽しく百合と談笑したいのに、体が、口が、うまく動いてくれない。

 言うことを聞かない心にほんの少しの苛立ちが湧いてくる頃、楓と並んで歩いていた百合はダンスを踊るような軽やかな足取りで楓の前に立ち、振り向いて言った。

「ここまでで大丈夫だよ。あとは迎えが来てくれるから。今日は本当にありがとうね」

 そういって百合は笑う。何度見ても、太陽のような笑顔だ。

 本当に、どこまでも穏やかで、優しくて、暖かくて――



「……でも、もうわたしに優しくしちゃだめだよ。――不幸になるから」



「……え……?」

 楓が目を丸くして弱々しい声を漏らしたその瞬間、坂の下から強い風が吹きつける。目にごみが入りそうになって、楓は思わず腕で顔を覆った。

 腕をどけて、目をゆっくりと開けると、そこに百合の姿はなかった。


 一人残された楓は、混乱に陥った。百合が何を言ったのか、わからない。


 今のは、空耳? それとも――。

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