4話 ガーディアンガールの嫉妬と死闘

1 ガーディアンガールは学びにはげむ

 雨粒がしとしとと降り続き、連なった淡い紫の花弁はなびらを叩く。夜空には雲がたちこめている。もう何日になるだろう、ずっと空の色は鈍色で、太陽は姿を隠し続けたままだ。

 窓ガラスを小さな光がじわりじわりとすり抜けてくる。それはひたひたと染みて、ぽたりと落ちる雨漏りのようだ。物理法則を無視してその部屋を訪れたライチは、髪にまとわりついた雨露を細い手で忌々しげに払った。何度迎えても、ライチは梅雨の季節を得意になれそうにない。どんな厚い壁でもすり抜ける自信のあるライチだが、降り続く雨とじめじめとした湿気にはかなわない。空気は重たいし、どんなに気を張っていても外に出ればすぐにびしょ濡れになるし、自慢の艷やかな髪は爆発する。

「……入るわよ。あー、雨本当に嫌」

 ライチは部屋の主に声をかけた。

 瘴気を感じない夜は久しぶりで、ライチにはすることがない。だからといってこれは暇つぶしではない。自分が「教育」している、ガーディアンガールの様子を見るという大事な仕事だ。手持ち無沙汰だから一番ちょっかいを出しても返り討ちにならないであろう少女のもとに暇つぶしにやってきただとか、そんなことでは断じてないのだ。

 整頓された部屋。白い壁紙は若干の染みが見て取れる。その部屋は、さほど新しくはないのであろう。ベッドの上には目覚まし時計。棚に並べられた本は学術書の雰囲気を持ったものばかりで、ガーディアンガールになる年頃の少女が持つような、楽しみを与える本、そう、例えば漫画というのだったか、そういったものは見当たらない。訪れる度に、生真面目な人間の部屋だとライチは思う。

 ちくたくと時計の針が進む静寂の空間で、ライチは部屋の主――楓の背中をじっと見つめた。机に向かう楓はふと顔を上げてちらりとライチを振り返ると、「ごめん、一段落するまで適当にくつろいでて」と言って、またライチに背を向けてしまった。勉強熱心だこと。ライチは心の中でそう呟いて、掛け布団の上にころんと横になった。楓は譲葉や棗と違ってライチを邪険にしないしそこそこ敬ってはくれているのだが、勉強している時だけは全くライチを相手にしない。ライチはそれが少々ばかり腹立たしかった。教育係わたしのことを一体なんだと思っているのか、まったく。小さな妖精は寝転がったまま甚だ不満とばかりに頬を膨らませたが、しばらくしてから、投げ出していた首をゆっくりと持ち上げた。

 楓の様子が、いつもと違う。

 勉強中の楓といえば、机にかじりつき、一心不乱と例えたくなるような集中ぶりを見せるものだが、今日は何かを気にしているようで、ちょくちょく顔を上げるのだ。その様子をしばし観察したライチは、やがて決定的な違和に気づいた。

 楓の手元に薄型の四角い機械がある――スマホ、というやつだ。楓はちらちらと、その機械を覗き込んでは、また机に向かう。楓のいつもと違う挙動に対して興味深さを見出したライチは、ふわりと浮き上がって楓の傍にはたはたと寄っていった。

 人間が扱う機械というものについて、理解することはなかなか難しい。携帯電話という道具にようやく慣れてきたライチは、楓がその画面をじっと見つめるのに合わせて目を凝らす。画面に映し出された通信画面アプリケーションは譲葉も棗も使っているものだ。ライチは知っている、これを使って、人間は同胞はらからと意思疎通をするのだ。ライチは知っている、「連絡先の交換」という言葉ワードを。ああ、私だってこんなにも勉強熱心だ。人間世界独特の単語を短期間で頭に叩き込んだ私の努力を、誰か褒めてほしい。

 譲葉か棗とでも連絡を取り合っているのだろうか、そう思って画面をぼんやり眺めていたライチだが、表示された名前は譲葉のものでも棗のものでもない。この名前は、確か、そうだ。我々の守護対象――「金の卵」。無愛想にリュックを背負って歩く少年の姿が目に浮かぶ。

 どんよりしていたライチの目がぱっと輝く。ライチは楓の集中を妨げるかもしれないことなどお構いなしで声を上げた。

「あのチビっ子と連絡先交換したってこと!? アンタ隅に置けないじゃない!」

 ライチは羽を明滅させて楓の周りを漂いながらにやにやと笑った。だが、部屋はふたたび静寂に包まれて、ライチが頭の中で思い描いたような反応は、楓からは帰ってこなかった。いつもなら「そういうのじゃないってば」と顔を赤くして困った顔をするはずなのだが。兎にも角にも、こういうときに言うべき言葉があったはずだ。「研修中」に先輩から教わった言葉がある。

「アンタたちの年頃は恋愛の悩みとかもあるでしょ。私でよければいくらでも聞くわよ」

 完璧に言えた。ライチは内心で限りなく自画自賛した。鼻高々、気分上々。

 そう、ガーディアンガールになる少女たちが抱えがちなもの。それは、恋愛の悩みだ。思春期の少女たちの心は複雑で迷路のように入り組んでいて、一度入ってしまえば出口を見失う、不思議の庭。その中で育まれた恋心はときに彼女たちの支えとなるが、彼女たちを壊してしまうこともある。だから、我々妖精が支えてやらねばならないのだ。――もっとも。妖精には「恋愛」という概念はない。だから、ライチは、いや、すべての妖精は、「恋愛」というものを「知識」でしか知らないし、文字通り「話を聞く」ことくらいしかできることはない。それがどれだけ無力なことか、ライチは知らない。

 閑話休題。ライチのかけた言葉に対して、楓の返答はない。

 つまらない、ライチは鼻を鳴らす。思えば、楓はあの少年のどこをそんなに気に入ったのだろうか。人間の女というのは、背が高くて、顔つきが美しい男を好むものではなかったか。あの少年は不格好な顔ではないが、それほど眉目秀麗というわけでもないだろう。そして、背は低い。ライチはわからない、と腕を組んだ。

 と、その時、空気を震わす振動音。楓は慌てて傍らに置いていた携帯電話に手を伸ばす。真剣な表情で画面を凝視する楓を見て、ライチも目の色を変えた。楓の手元に飛び込んで、四角い機械の画面を遠慮なく覗き込む。ライチの視界いっぱいに、ヒトの言語が広がる。

(人間の文字ってほんっとわかりにくいわね……あのチビっ子からのメッセージみたいだけど、一体なにが書いてあるのよ?)

 ライチは猫の額よりもずっと狭いその眉間に皺を寄せながら画面を見つめる。同じ学校で、いつでも声をかけられる距離にいるらしい楓とあの少年が、どんな話をしているのか純粋に気になるし、ライチはまだ楓をからかうことを諦めていなかった。

 ライチは振り向き楓の表情を覗き込んだ、それと同時に楓の表情がぱっと明るくなる。

「そっか……そういうこと!」

 楓はそう言うと携帯電話を投げ出すような勢いで脇に寄せるので、ライチは慌てて飛び退いた。危うく轢かれるところだった、本当に私のことをなんだと思っているんだ、とライチは抗議しようかと思った。だが楓は手元の本をばさばさとめくり、猛烈にペンを動かしだす。その様に、すっかり呆気にとられてしまったライチを傍目に、必死にノートに何かを書きつける楓はしばらくしてからゆっくりと顔を上げ、満足げな笑みを浮かべた。

 何が起こったのか、全くわからない。

 ライチはいよいよ観念して、楓の頬を小さな手で軽く叩いた。

「ねえ、あのチビっ子と何の話してたの、アンタ」

 すると楓ははっとして、ライチの顔を見て目をぱちくりとさせた。ライチにちょっかいを出されていたことに、ようやく気づいたらしい。その手は先程追いやった携帯電話を再び手元に手繰り寄せ、譲葉や棗に比べると若干ぎこちない手付きで画面を操りだす。その指が画面に触れて滑ると、液晶に表示された五文字のひらがなは「ありがとう」。ライチに見えたのはそこまでだった。

「……理科の宿題がどうしても解けなくて、解き方を聞いてたんだ。返事くれてよかった」

 楓はそう言って控えめな笑顔を見せた。心底安心したという顔である。

「もうすぐ期末テストなの。5月のテストより絶対いい点取らなくちゃ」

 そう言って拳を握りしめて表情を引き締める楓を見てライチははっきりと理解した、楓はあの少年に勉強のことを聞いていただけであり、そこに一切の他意は存在しないことを。楓が普段その胸の中に秘めているふわふわとした感情は、今は山登りにでも行ってしまって不在であることを。たぶんきっと、楓はそういう人間だ。その証拠に、これはからかうだけ無駄、そんな考えがライチの脳裏をかすめたその瞬間、楓はライチをまっすぐ見つめて首をかたむけた。

「で、ええと、何か話があったんだっけ?」

 ライチのからかいは一切彼女に届いていなかったらしい。ライチは目を糸のように細くした。その顔、例えるならばチベットスナギツネである。

「惚れた腫れたより勉強って人間はアンタが初めてよ……」

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