6 ガーディアンガールと花開く百合

 窓の外では、しとしとと小雨が降っている。


 昼食を早めに終わらせた楓は、繁縷のノートと理科の教科書を広げた。

 繁縷のノートはページのど真ん中から縦に線が引かれ、その半分には授業には一切関係ない細かい字がびっしりと敷き詰められていた。ノートは思った以上にネタ帳であったが、休んだ授業で進んだ範囲は簡単に網羅できた。楓がノートを閉じて繁縷に礼を言うと、繁縷は机の上にお気に入りのミュージカルのディスクを二枚並べて、ブルーレイとDVDどっちがいい? と迫った。楓がDVDを選ぶと、繁縷は先生来たら没収されちゃうヨ、はやくはやく、と楓を急かし、楓は繁縷から受け取ったそれを慌ててランチバッグにしまった。本来学校に持ってくるべきでないものをやりとりするのは気が引けるが、感想楽しみにしてるネ、と繁縷に笑顔を向けられると、くすぐったい気持ちになり思わず笑みがこぼれた。

 そうしていると突然、教室がざわついた。


「失礼します」


 そう言って教室の戸をくぐってやって来たのは、昨日の放課後に楓と出会ったあの美しい少女であった。


(――鬼崎先輩!)

 こんなにすぐ、また会えるなんて。

 楓は思わず椅子から腰を浮かせ、彼女を見やった。やっぱり、とてもきれいな人だ、と思う。

 楓は教室が異様な雰囲気に包まれていることに気づいた。同級生の誰も彼もが、かの少女に釘付けになっている。


「ヤバイ! 2年の鬼崎さんだ!」

「あの人が噂の?」

「転校してきてこっち、毎週告られてるって!」

「顔だけじゃなくて性格もめっちゃいいらしいじゃん!」

 女子たちがさざめく。

 彼女を噂する同級生女子のささやきは、決して美しい彼女に対するやっかみではなく、彼女に魅了された憧れのにじむ声だ。


 彼女はふと顔を上げて、彼女を噂する女子生徒たちに顔を向けた。そうして――


 にっこりと、微笑む。


「カワイイ~!!」

「ヤバーイ!!」

 彼女を噂していた女子だけでなく、その辺りにたまっていた女子が一斉に、植物の実が熟して殻が割れたかのように、黄色い悲鳴を上げた。それは、道端に突然カメラと著名人が現れたときの様子に似ていた。

「鬼崎さん、やべえ……」

 同級生の男子がぼそりと呟いた。男子数名が棒立ちになり、為す術もなくただ、彼女を見つめている。すっかり骨抜き、といった様子だ。

「……まるで、芸能人みたい……鬼崎先輩って、みんな知ってるんだね……」

「2年H組の鬼崎おにざき百合ゆりセンパイっショ? 今年の4月から転校してきたんだっけ。あの通り美人だし中身もよくて、学校中で引っ張りだこみたいだヨ」

 繁縷が言う声は、周囲の黄色い声やざわめきで聞き取りづらい。楓は繁縷に向かってわずかに身を乗り出した。

「帰国子女だとか、大富豪のお嬢様だとか色々噂はあるケド……アタシはよく知らないカナ。美しくも謎多きヒト、って感じ」

 彼女――百合は、スカートを揺らして、モデルのようなしなやかさですたすたと歩む。

 そう、彼女の美しさは、そのかんばせや玉体だけではないのだ。すっと伸びた背筋は彼女の誠実さを現しているようだ。バレエダンサーのような、嫋やかな、指先や爪先まで伝わる美しい所作。すべてが上品で洗練されている。

 鬼崎百合は、その麗しい振る舞いで教壇の上を歩くと、ある所でぴたり、足を止めた。


 そこは、クラスの一番前の席で、窓際から三列目。――伏見槐の席だ。

 彼女は席が空なのを見て、ゆったりと周囲を見渡すと、椅子を引いてその席に座った。

 ちょこんと座り、何かを待っている様子の百合。かわいい、美しいと囁かれる同級生の声。

 なぜか槐の席についた百合に、楓は恐る恐る声をかけた。

「あの、鬼崎先輩……」

「……あ! 昨日の!」

 百合は振り返って楓の顔を見たと思うと、ぱっと表情を輝かせた。近くで顔を見るとやっぱり睫毛が長くて、楓は見惚みとれて思わずぼうっとしてしまう。

「えと、昨日は掃除を手伝ってくれて、ありがとうございました」

 楓は頭を下げる。すると、百合のなめらかな両手がゆっくりと伸びてきて、楓の頬に触れた。

「……!?」

 突然のことに楓はどぎまぎとした。ゆっくりと顔を持ち上げられ、手が離れる。視界に入った百合は美麗に微笑んでいた。

「顔を上げて。そんなにかしこまらなくていいよ。あのくらいなら、お安いご用だから、ね!」

 にこりと微笑む百合。楓はつられて遠慮がちに微笑んだ。

「えっなに、どういうことじゃん?」

 そこに繁縷が首を突っ込んでくる。答えあぐねる楓に代わって、百合が昨日のことをかいつまんで説明した。

「だから通りすがりのわたしが手伝ったの。でも、大したことはしてないけどね」

 百合がそう言った瞬間、繁縷は大声を上げた。

「えーっ!? 楓ちゃん昨日一人で掃除してたの!? 班の人たちは!?」

 楓が慌てて口元に人差し指を当てる。程なくして、どこからか「やべ。昨日掃除押し付けたのバレてるくね?」「鬼崎さんに知られたら……」などといった班員たちの焦った囁きが聞こえてくる。

 すると、百合がひょいと立ち上がった。楓が顔を上げると、槐が教室に戻ってきていた。百合は変わらぬ笑みを槐に向けて、優しく声をかけた。

「伏見くん、こんにちは。勝手に座ってごめんね」

「鬼崎さん? なんでうちのクラスに」

 今日は弁当ではなく購買で食べてきたらしい、手ぶらの槐は、少しの驚きの色を含んで百合に問いかける。


 百合は槐の目をじっと見つめて、それから大輪の花のような笑顔を見せて、こう言った。


「伏見くんに会いたくて来たの」


 その言葉に楓がどきりとしたや否や。

「なんだと……」

 多くの男子が一気にざわつき、不穏な空気が流れる。

「なんで伏見が」

「だってあいつ委員会一緒じゃん」

「くそ、俺が環境委員に入っとくんだった」

 男子たちの嘆きの声が聞こえてくる。

 そんな彼らの嘆きを知ってか知らずか、百合はピンクにブラウンの刺繍が入った手帳のようなものを取り出して、それを開ける。ケースの中に、携帯電話スマートフォンが嵌め込まれていた。

「これから7月にかけて清掃強化週間に入るでしょ。だから、委員会みんなで連絡先を交換しようって話になったの」

「はあ」

「それで、伏見くんの連絡先を聞きにね」

「はあ!?」と、嫉妬に燃え立った周囲の男子から不満の声が上がる。女子は驚きにざわつき、近くから「伏見やるじゃん!」と囃し立てる声がした。

 当の槐と言えば、周囲の様子には一切我関せずという感じで自分の席に座ったかと思うと、机の中から読みかけの小説を取り出し、栞を挟んだページを開けて、口を開いた。

「そうですか……そんな連絡し合うこと、ありますかね」

「あはは、あんまりないと思うけど……一応って感じかな」

 百合が苦笑する。その様子を見つめていた楓は、苦笑いすら美しいと思った。ざわついていた教室はずいぶんと騒がしくなった。クラス外からも百合をひと目見ようと生徒たちが廊下に詰めかけているのだ。

 槐は机の中に手を突っ込んで携帯電話スマートフォンを取り出すと、電話同士を突き合わせて百合と連絡先を交換し始める。


「ねえ、伏見くん」

「なんすか」

「委員会と関係ないことも、たまにメッセージ送っていい?」


 百合のその言葉によって、教室にまた波が起こった。主に男子が羨望と嫉妬の目で槐を見ている。見られているのは自分ではないのに、楓はなんだか視線が痛い。

 百合の直前の言葉を聞いて、槐は訝しげに百合の顔を見上げる。すると、百合は取り繕うように、慌てて笑って言った。

「ほら、委員会の親睦を深めるためにね」

「……いいですけど、俺筆不精なんで。既読無視とかざらにやりますよ」

 連絡先の交換を終えた槐は、携帯電話を持つ手を下ろそうとする。だが、その手を白く細い手が取った。


「大丈夫、気にしないから」 

 百合は、携帯電話ごと槐の手を両手で握って、ふんわりと微笑んだ。


 いよいよもって、教室内は湧きに湧いた。あからさまな、弩級美人から特定の男子への「アプローチ」。男子から非難の声が飛び、女子は新しい恋愛話コイバナのネタができたと大喜びする。

 楓はなぜだか急に心細くなって、自分の胸元を抑えて息を詰めた。


「鬼崎さん! お……俺も連絡先交換してほしいっす!」


 一人の男子が勇気を出して思い切ったらしい、右手をぴんと上げてぎゅっと目をつぶっている。

 するとそれを皮切りに「俺も!」「あたしも!」と男女問わずあちこちから声が上がる。他所のクラスから集まってきた生徒たちも次々押し寄せて、百合の周りはあっという間に人だかりでごった返した。百合は集う後輩たちに一切笑顔を崩さず、一人ひとりと連絡先の交換に応じている。あんなに一気にまとわりつかれたら、誰だって疲れるだろうに。

 言葉にできない、明確な人としての差。

 携帯電話スマートフォンを操作する、細くてきれいな指先。その指先は、さっきまで彼の手を取っていた。花がほころぶような笑みを見せて。


(――こんな素敵な人に、到底勝ち目ないなあ……)


 そう思った瞬間、楓は自分の思考に対して疑問を呈した。……今、何を考えた? 慌てて両手で頬を覆う。


(いやいやいや! 勝つとか負けるとかじゃないし! 別に鬼崎先輩が伏見くんに近づいても、私には関係ないし……)


 ガタリ、至近距離で椅子が動く音がする。

 携帯電話スマートフォンをロッカーにしまおうと、立ち上がる槐の姿が見える。

 彼は人だかりを背にして、ロッカーへ。楓の横を通る。


 いつか体育の授業で目が合ったときはすぐに俯いてしまった。

 きっと守ろうと決意した夜。

 それから、おはようと声をかけてくれた朝。



 ――もうほんの少し、その近くに行けたなら。



「あ、あの……っ!」


 楓は咄嗟に動いた。その手は、今まさに楓の真横を通り過ぎようとしていた槐の胸元に、中途半端に伸びていた。


「……なんだ」


 手を、出してしまった。

 声を、上げてしまった。


 もう、後には引けない。


 楓はしばらく金魚のように口を開けたまま固まっていたが、机の中に置いておいた自分の携帯電話スマートフォンを取り出して、どうにかこうにか言葉を紡ぎ出した。

「その、わ、私、伏見くんに……勉強のこと、聞きたくて! それで、ええと……」

 歯切れが悪い、目も泳ぐ、言葉も出てこない。さっき百合と無難に話せたのは「ありがとう」というごくありふれた言葉だったからだと痛感する。「連絡先を交換したい」という思いが頭の中でうまく言語にならない。楓は震える指先で携帯電話スマートフォンを指差した。どこを見ていいかわからない。変だと思われているだろうか。

 自然体になんて、どうやったって振る舞えそうにない。だって、自分はようやっと、クラスに一人友達ができたばかりの、生きるのがへたくそな人間なのだ。

 槐の顔がまっすぐ見られなくて、彼のネクタイの結び目あたりを彷徨っていた楓の視線が、徐々に下がっていく。


「ほら」


 楓の視界に突然、QRコードが飛び込んできた。

 はっと顔を上げる。槐が自分の携帯電話スマートフォンを差し出し、メッセージアプリのQRコードを出していてくれた。彼の手の中で、射干玉ジェットブラックの機体がちかりと光る。楓のジェスチャーと拙い言葉で、意図を察してくれたらしい。

 だが。

「え、えっと……これは……」

 楓には対処方法がわからない。携帯電話を手に入れてまだ日が浅いからだ。メッセージアプリの扱い方はほとんど覚えていない。

 楓のメッセージアプリに登録されている連絡先は3人分だけだ。譲葉と棗と再会したあの夜、譲葉、棗、それからアカザの連絡先を登録したのだが、それは携帯慣れした棗の手によるものだった。楓は隣で見ていただけだ。

 ――どうしよう。どうすればいい。


「ここを押すじゃん!」

「わっ!」


 急に後ろから衝撃が襲いかかり、楓は声を上げた。繁縷が抱きついてきたのだ。繁縷は楓の背中越しに、楓の携帯電話の画面を指差して指示する。

「このQRコードってトコを選んで、そしたら読み込んで……できた!」

 繁縷の言う通りに操作すると、メッセージアプリの「友達」に「新たに一人が追加された」旨の表示が現れた。楓は繁縷の助け舟に礼をする。

「ありがとう、繁縷ちゃん」

「楓ちゃん、もしかして携帯慣れてない?」

「うん……先月買ってもらったばかりなんだ」

 真新しいローズゴールドの携帯電話スマートフォンは、透明に白で花柄がプリントされたシリコンケースに包まれている。

 初めての携帯電話は、高校生になった記念だと言って紫苑が買ってくれた。色をいつまでも決めきれずにいた楓を「迷う姿もかわいい」とからかいながらも、急かさずに待っていてくれた紫苑。楓がようやっと色を決めると「父ちゃん楓とお揃いにする!」などと言ってその場で機種変更をしようとしたが、店舗が閉店時間になり叶わなかった。紫苑の携帯電話スマートフォンは今でも手垢のついたホワイトのままだ。

 楓の言葉を聞いた繁縷は、急に目をらんらんとさせた。

「マジで? そしたらアタシ達が手取り足取り色々教えてあげなくちゃ! ネ、伏見くん!」

「……俺にふるな」

 繁縷は顔を上げて槐に強引に同意を求める。急に繁縷に話しかけられて、槐は困惑した声を出す。

「ご、ごめんね急に……ありがとう」

「俺本気で筆不精だから、返事しないときはしないからな」

「う、うん」

 そう言ったきり、槐はロッカーに向かって歩いていった。


 いつの間にか百合はいなくなっていて、あれだけ大混雑だった教室の人口密度は通常運転に戻っていた。百合と連絡先を交換できて喜ぶ生徒と、それを逃して悔しがる生徒で教室はまだ熱気に包まれている。

 楓に抱きついたままの繁縷が「アタシとも連絡先交換しヨ!」と言って笑う。繁縷の携帯電話は愛らしい猫の模様が入った手帳型のケースに収められていて、楓は思わずかわいい、と口に出す。繁縷は「やっぱそう思うじゃん?」と嬉しそうに答えた。

「今度は自分でやってみるね」

 楓はそう言って、メッセージアプリが表示された画面をにらんだ。さっきと同じ手順で、今度は自分の手で、繁縷の連絡先を登録するのだ。だが、さっき繁縷がどこを操作しろと言って、どこを指差したのか、もうわからなくなってしまった。楓はメッセージアプリの中で、早速迷子になった。

 そのおぼつかない手付きをじっと見つめて、繁縷はぽつりと呟いた。


「……鬼崎さんがライバルだと大変だネ」

「え?」

「でもアタシは楓ちゃんの方が可愛いと思うし、応援するヨ!」


 繁縷はそう言ってサムズアップしてみせた。

 楓はしばらく、何のことを言われているのかわからなかったが、携帯電話をロッカーにしまった槐が戻ってきて、楓の横を通った瞬間に、かっと頬を染めた。

「ち、ちが、違うよ! 本当に、頭のいい人に勉強を頼りたいだけだよ!」

 楓はあたふたと言い繕い、きまり悪く俯いた。ちらりと視線だけ上げて繁縷の表情を覗くと、気分良さそうにニコニコと笑っている。

 本当は繁縷のQRコードを読み取りたかったはずなのに、何をどうしてそうなったのか、楓の携帯電話の画面には、ついさっき「友達登録」したばかりの槐のトップページと、初期設定のまま変えられていないであろう彼のプロフィール画像が映っていた。

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