5 ガーディアンガールとうるわしの少女

 さ、さっ、と払う箒が溜まった埃を押しのける。階段の一段一段から小さなゴミや髪の毛が取り払われていく。

 1年生の教室は3階、2年生の教室は1階、そして3年生の教室は2階にある。楓は3階から降りていく階段を、箒と塵取りを手に、黙々と掃除していた。


 その日、楓を友達と宣言した九里繁縷。

 いつも昼休みには教室から出て友人と食事を共にしたり、演劇部の顧問に会いに行ったりと多忙にしているにもかかわらず、楓のために昼食を早めに切り上げて、楓が弁当の半分を食べ終わる前に教室に戻ってきてくれた。

 クラスで初めての友人との語らいは、変わらず繁縷の一方通行だったけれども、それでも楓は楽しかった。

 繁縷が今夢中になっているミュージカルの話を聞いた。それは、永遠とわの命を求める人々が生み出す悲劇なのだという。繁縷は悲劇や絶望に塗りつぶされた中に、小さな光を見出すような物語に惹かれ、自らもそういった物語を書きたいと思うと熱く語った。彼女の言葉を聞いていると、楓は新しい世界を開かれるような感じがした。


 放課後の鐘が鳴ってから10分程が経過していた。楓の周囲には誰もいない。先日と同じように班員たちに掃除を押し付けられて、一人で掃除をしているのだが、今の楓には知ったことではない。繁縷と次、話ができるのはいつだろう。まずは明日、ノートを見せてもらおう。そのときにはまた色々な話を聞かせてくれるだろう。自分からも話題の一つや二つ、提供したいけれども、楓には提供できる物語が見当たらなくて、これまでの人生でなにか大事なものを落っことしてきてしまったのかもしれない、などと思う。

 ――いけない、ついつい考え事に耽ってしまった。早く掃除を終わらせよう。そう思って俯いていた顔を上げた、その時。


「……ひとり?」


 鈴の音のような流麗な声。楓の目の前に、一人の少女が立っていた。

 瞳と瞳が交錯する。

 楓はその姿を見て、一瞬で心を奪われた。


(すごい……きれいな人……!)


 琥珀が嵌め込まれたようなぱっちりとした驚くほど大きな瞳、そしてその瞳を彩る長い睫毛。顎までの長さに切り揃えられたボブヘアーの左側はハーフサイドアップにして、清潔にまとめられている。なめらかな白い肌にほんのり色づいた頬。膝上10センチくらいに短くしたスカートから覗くすらりとした白く長い脚。そして、シャツのボタンをちぎってしまうのではと心配してしまうような、豊かなバスト。胸元には、彼女が2年生であることを示す、水色のリボンがつけられている。ただ校則で定められただけの胸元のリボンすら、彼女を美しく引き立てている。

 人形のような、いや、人形よりもずっとずっと美しい少女が、楓の目の前に立っていた。


(女優さんみたいだ……すごい美人さん……)


 あまりの美しさに、楓は開いた口が塞がらなかった。


 二人の間に静かな時が少しだけ過ぎて、ふと楓は思った。この美しい少女が、楓に声をかける理由がわからない。楓はおずおずと、口を開いた。

「……え、ええと、何かご用でしょうか……?」

 すると彼女は少しだけ首をかしげて、顎先に人差し指をあてた。首の動きに合わせてさらりと流れる髪は少し明るい色をしているが、人の手で染められたものではない自然な色に艶めいている。

「ひとりで掃除、してるのかなって……不思議に思ったの」

 美しい声に、楓の胸がどきりと高鳴る。楓は塵取りを取り落とした。せっかく集めた埃が舞うが、それを気にするような隙間は楓の心の中になかった。

 ただ、目の前の少女に釘付けになっている。

「大丈夫?」

 少女が楓にそう問うので、楓はやっと我に返って塵取りを拾い上げた。手元がおぼつかない。

「あ、き、気にしないでください、たいしたことじゃないので」

 楓は口元をもつれさせながら、散らばってしまった埃をまた集めはじめる。楓が少女に背を向けた瞬間、楓の背に少女の声が届いた。


「……わたし、手伝うね!」


「え!?」

 楓は慌てて振り向いた。少女は軽やかな足取りで楓を追い越して、清掃用ロッカーを目指して階段をとんとんと登っていく。

「いやあの、いいです、そんな見ず知らずの方に……」

 楓がそう言う頃には、少女は清掃用ロッカーにたどり着きその扉を開けて、箒を取り出していた。少女は箒を片手に階段を降りてきて、また楓の横を通り過ぎていく。そしてぴたりと足を止めて、楓に向かって振り向いて笑った。


「じゃあわたし、ここから下を掃くから、ちりとり使い終わったら教えてね!」


 満面の笑顔に、楓は目がくらんだ。





「本当に、ありがとうございました」

 楓は深々と頭を下げた。階段の掃除はそれほど面倒なものではないが、それでも一人よりは二人のほうが早く終わる。それに、こんなにも美しい少女と二人、同じ空間で同じ作業をしているという現実が、楓に不思議な幸福感をもたらしていた。昼休みに繁縷が好きなミュージカル俳優のことを話していたときに「美しさの暴力」と言っていたけれど、きっと今楓は身をもってそれを知っているところなのだろう。

 少女は首を振って微笑む。

「気にしないで! わたしもたまたま通りがかっただけなの」

 そう言って少女は楓に背を向けようとする。――行ってしまう。


 教室の掃除を手伝ってくれた槐の背をただ見送った日を思い出す。

 ――受け取るだけじゃだめだ。返さなきゃ。


「あ、あの!」

 楓は勇気を振り絞って少女を呼び止めた。少女が振り返る。髪とスカートを揺らしてこちらを向く姿が、スローモーションのように映った。

「なにか、お礼をさせてください! なにができるのかって言われると、わからないんですけど……」

 楓は傍に戻ってきた少女に言い募った。少女は腕を組んで、考え込むそぶりをした。

「うーん、それじゃあ……」

 ちょっとごめんね、と言って、彼女は楓に向かって手を伸ばす。……いい匂いがする。至近距離の少女は、本当に花のように、いや、花も恥じらうほど美しくて、楓の胸はますます高鳴り、目が回る。


 少女は楓の頭に、ふわりとその手を乗せた。そうして、親が子にそうするように、楓の頭を優しく撫でた。


「クラスの子たちがおさぼりする面倒なお掃除を一人でがんばってた、あなたはとってもえらいね」


 楓はなにをされているのかわからず、目を限界まで見開いたまま固まっていた。

 少女はぱっと楓の傍を離れる。短いスカートがふわりと翻る。彼女は後ろで両手を組んで、照れくさそうに笑う。その顔がうつむきがちに傾くと、長い睫毛が輝く瞳に優しい影を落とした。


「ふふ、こうやって年下の女の子を撫でてみたかったんだ。ありがとうね」


 そう言って、彼女は破顔した。

 眠りに落ちていくような、不思議な浮遊感にいざなわれて、楓の全身の力が抜けていく。

 こんなことでいいんですかとか、これじゃお礼にはなっていないのではとか、そんなことを楓は感じていたが、楓の頭の中でその感覚は言葉に組み上がることはなかった。ただ、ぽかんと口を開けたまま、立ち尽くすだけだ。


鬼崎おにざきちゃーん! 会議始まるよ~!」

「あ、はーい! 今行きまーす!」

 3年生の教室の戸が開く音と同時に呼び声がすると、鬼崎、と呼ばれたその美しい少女はその呼び声に応えた。


「それじゃあね」


 彼女は最後にもう一度笑って、今度こそ楓に背を向ける。そして、呼ばれた教室に向かっていった。

 楓はその背を見送って、もう一度頭を軽く下げた。


(鬼崎、先輩……)


 楓はその名前を、忘れないように心の中に刻みつけた。





「魔力の乱れはすっかり落ち着いたな。もう心配はなさそうだ」

「ありがとうございます、アカザさん」

「……今後はせいぜい無理しないことね。私も気をつけるけど」

 額から手を離したアカザに楓が頭を下げると、デスクライトの上からライチの声が降ってくる。アカザが楓の傍を離れると、楓はスクールバッグからタブレットを取り出した。

 楓たちはたまり場に集っていた。今晩、ライチは瘴気を感じないという。ナイトメア退治のために戦いに出ない夜は久しぶりだ。それでも、楓は自分の作った地図のチェックと更新は欠かさない。タブレットは棗から借りっぱなしだ。本来なら自分のものを買って使うべきだと思うが、棗は使い続けていいと許可してくれた。棗の器の広さには感謝するばかりだ。

「ところで楓。今日は機嫌がいいように思うんだが、何かいいことでもあったか?」

 アカザが優しく微笑んでそう言うと、楓は照れくさそうに頬をかいて下を向く。そして、今日あったことをかいつまんでみなに話した。

「ワルどもにメンチきって友達もできたの!? でんでんすげーじゃん! もっと早く言ってくれれば乾杯用のジュース買っといたのに~!」

 棗が楓の背中をバンバンと叩き、楓は思わずむせ返る。

「む~……」

「おうどうしたゆず野郎」

 笑顔全開の棗とは異なり、譲葉は難しい顔で考え込む仕草をしている。楓と棗は揃って首を傾げた。

「でんでんに友達ができてうれしいし~、これからも友達がいっぱいできてほしいけど~……わたしと一緒にいる時間が減るのはやだ~。ふくざつ~」

 譲葉はそう言うと、楓にすり寄ってきた。

「ゆずがそう言ってくれて嬉しい。私もみんなと一緒にいる時間が減るのは寂しいから、一緒だよ」

 複雑な心境を素直に明かした譲葉に、楓はそう伝えた。それを聞いた譲葉は嬉しそうに笑う。

「油断するんじゃないわよ。友情なんて脆いのよ、ちょっとしたことで簡単に壊れるんだから」

 ライチが楓の目の前に飛んできて強めに釘を刺すので、楓は押され気味に「は、はい」と返事をした。確かに、女の友情は脆いとか、よく聞く言葉だ。中学校の頃は、周囲の女の子たちは、女の友情はドロドロしてて嫌だ、男の友情が欲しい、なんて愚痴をこぼしていたなと思い出す。ライチは気まずそうにそっぽを向くと、

「……でもまあ。良かったじゃない」

 と小さな声で呟いた。ライチからのかすかな祝福に、楓の頬に笑みが浮かぶ。その声が届かなかった棗は「あたしらの友情を否定するかーッ!」と言ってライチに飛びかかっている。

「今日のことは、私の悩みを聞いてくれて受け止めてくれた、みんなのおかげだと思ってる。ありがとう」

 楓がそう言って微笑みを見せると、たまり場は笑顔に包まれた。





 三人の女子高生が帰った後の、アパートの部屋。

「は~……女子のオモリは疲れるわ」

 ライチは山積みになった本に寝そべり脱力している。アカザは愛用の鞄から辞書と数冊の本と、紙の束を取り出してデスクに広げる。そしてひらりと手を振って、スーツ姿に変化へんげした。

 ライチの眉間にしわが寄る。

「……アンタ、その姿も変身トランスでしょ。どうして本当の姿を見せないのよ」

「それは勿論、この方が楽だからさ。シャツの洗濯もアイロンも、スーツのクリーニングも要らないからな」

 アカザは一切の動揺を見せずにライチの問いに答え、スーツの胸元を指の腹でとんと叩く。ライチはむすりと黙りこくって、ふわりと飛び上がった。見破ったつもりだったのに、見破ったことを見破られていたらしい。

 ライチは悔しさを燻らせた。私よりこの怪しい女のほうが、ガーディアンガールを導くことにずっと長けている。初めて会ったときからそうだった。アカザは戦闘能力のないライチと違って物理的にガーディアンガールたちを護ったし、ライチが新米であることもあっという間に見抜いた。

 紙の束を一枚一枚めくって確かめるアカザ。彼女が何をしているのか、ライチには全くわからない。もどかしく顔を顰める。

「ほんとアンタって、怪しい……」

 できることと言えば、せいぜい毒づくことだけだ。

「ガールというのは、少女という意味だ」

「な、何よ急に。知ってるわよ」

「何の偶然か、私は少女と呼べる年齢をとっくに超えて、それでも未だに魔力を持っている。ならば、この力は若人たちのために役立てるべきだと私は思っているんだ」

「それで、ガーディアンガールたちを助けて、ついでに私のお株も奪ってるってわけ?」

 不満げに言い放つと、手厳しいな、と言ってアカザは笑った。

「……ライチ。ゆめゆめ、金の卵を守れよ」

「言われなくてもわかってるわ」

 アカザは紙の束の一枚を取ると、赤いペンで花丸を書いた。そして、それから、と言葉を続ける。


「大事にしろよ。ガーディアンガールは、儚いぞ」


「……知ってるわよ」

 ライチは低い声で呟いた。その羽はライチの心を映すように明滅する。

「私があの子たちの視界の中に居れるのは……長くたって、10年足らず。一瞬だわ」

 今は笑い合って、ふざけあっていても。そう遠くないいつか、彼女たちが魔力を失い、ライチの姿も声も感じられなくなる日が来る。妖精が少女の魔力を見初め、魔法の力を与えたその時から、別れへのカウントダウンは始まっている。

 寂しいが、それが現実だ。だいたい、妖精と関わることのない人間にだって、別れはある。


「それだけじゃない」


 アカザが小さく呟いたのをライチは聞き逃さなかった。ライチは俯いていた顔を上げた。

 アカザがライチを見据える。強い視線がライチを射抜く。ライチは思わずアカザを睨み返した。

 デスクに両手をついて、アカザはライチの方へ身を乗り出して、こう言った。


「妖精の意志で、ガーディアンガールは簡単に死ぬ」


 本だらけの部屋に、静寂がこだまする。アカザとライチはしばらくにらみ合う格好となったが、やがてアカザはいつもの柔和な表情に戻り、じゃあ私は家に帰るとするよ、と言って、鞄を抱えて部屋を出ていった。

 鍵の閉まる音がする。

 部屋に残されたライチは呆然と、その場に浮かんでいた。


「……どういう意味よ、それ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る