4 ガーディアンガールと初めてのともだち

 スクールバッグを抱えた楓が教室に向かっていると、すれ違いざまに悲鳴を上げて楓を露骨に避ける女子がいた。考えるまでもない、クラス委員とその取り巻きだ。最近は、クラス委員以外の女子の顔ぶれもなんとなくわかってきた。いつもグループで行動しているのかもしれない。

 彼女たちの中心には、今日も前髪をヘアクリップで留めたクラス委員がいる。

 楓と少女たちはすれ違ったまま、お互いの道を行く――かと思われた。だが、楓はそうはしなかった。

 楓はさっと踵を返し、早足で少女たちの方へ向かっていく。彼女たちの背中が近づく。


 そして、楓はクラス委員の手をがっちりと掴んだ。


 振り向いた女子たちは、まさか楓が向かってくるとは予想していなかったようで、全員が全員、驚愕に塗りつぶされた顔をしている。

「……な、なによ……」

 女子の一人がかろうじて小さな声で絞り出す。驚き。若干の恐怖。そして、拒絶。彼女たちの表情はそんな色をしていた。

 楓は彼女たち一人ひとりをじっくりと見回してから、渾身の笑顔を作って言い放った。


「おはよう」


「………………」

 そして、最後にまっすぐに、クラス委員を見つめる。楓の全力の思いを込めて。


 もう惑わされるものか。私には味方がいる。あなたがどんな卑劣なことをしようとも、私は絶対に折れやしない。


 クラス委員も、一緒にいた女子も、最後まで楓に向かって完璧な笑顔を作ることはできなかった。楓はその手を離すと軽やかに身を翻し、教室にまっすぐ歩いていった。

 女子たちはしばらく固まっていた。やがて楓から直に触られた「菌」とやらを伝染しあいはじめたが、その動きはどことなく遠慮がちで、気まずそうであった。





 楓は教室の入り口の前に立った。

 大丈夫、私は一人じゃない、と自分に言い聞かせる。楓は戸をガラリ、開け放った。


「――おはようございます!」


 思えば、教室に入るときにこうやって挨拶をするのは初めてだ。

 しばらくして楓の後から来た男子が、楓の開けた戸をくぐりながら、誰にということもなく「はよーす……」と眠そうに言って、自分の席に向かっていく。

 教室は既に賑やかで、楓の声にも、その男子の声にも、特段、返事が返ってくることはない。

 これでいいんだ。楓はぐっと脇を締め、背筋を伸ばして一歩を踏み出す。

 そうして、楓は自分の席に向かっていく。慣れた席が見えてきて、スクールバッグを肩から下ろしかけたその時。


「おはよう」


 息が、それから時が止まった。

 肘をついて窓の外を眺めていた槐が、楓に挨拶を投げかけていた。


 楓はたちまち動揺した。まさか誰かから声をかけられると思っていなかったしよりにもよってその相手が彼だとも思っていなかった。楓はしばらく口をぱくぱくとさせてからその後ようやく、

「お、おは、おはよう!」

 とあたふたと返事をした。


 このとき、自分から挨拶したのに、変なやつだな――と、伏見槐に思われていたのは、また別の話。





(アカザさんの言った通り、昨日は熱が上がって大変だったな……)

 次の授業の教材を用意しながら、楓は昨日のことを思い返していた。

 午前中から熱が上がり、起き上がるのも一苦労。パニックに陥った紫苑に猛烈な勢いで病院に連れて行かれ、疲労・睡眠不足からくる発熱と診断され、点滴を打たれた。そして午後はずっとベッドで休んでいた。

(……お父さんにも迷惑かけちゃった)

 狼狽えながら「楓~どうしたんだ楓~俺のかわいい娘~治ってくれ~!」とヘンテコな儀式めいて天に祈る父の姿を思い出す。昨日は本来であれば楓が食事当番だったのに、食事を作れなかったどころか、紫苑に心配をかけ、仕事の邪魔までしてしまった。熱に浮かされながら父に謝り続けたことと、そんなことどうでもいいんだ、早く治ってくれと父に案じられたことを思い出す。いつかどこかで、埋め合わせをしたい。

 あとは、昨日休んでしまった間に授業がどれだけ進んだかだ。

(うーん、昨日の理科どこまでやったんだろう。他の教科はともかく理科は苦手だから、誰かにノートを借りたい……)

 楓は周囲を見渡すが、

(伏見くん……はいないし……)

 前の席は不在だ。――槐がいてくれれば、今の楓ならば、かろうじて彼に声をかけられたかもしれないのだが。

 そのまま視線を右に動かすと、右隣の席に座る女子が目に入った。

 九里くり繁縷はこべ。それが隣の女子生徒の名前だった。彼女は授業の予習かはたまた復習か、背を丸くして必死にノートに何かを書き付けている。

 顔と机の距離が、机に額をぶつけるかという勢いだ。彼女の表情は楓からは見えない。見えるのは、無造作に後ろで結い上げた黒髪だけ。

(九里さん……嫌がらせされた記憶もないし、頼めば見せてくれるかな……)

 どくん、どくんと、楓の胸が脈打つ音が大きくなってきた。朝、クラス委員にガンを飛ばしたのがもう嘘のようだ。

 また、「菌」と言われたら。

 楓の心は躊躇する。

 何度も何度も深呼吸しても、動悸はなかなか収まらない。


 一朝一夕じゃ変われない、か。

 勇気を出して、私――


 もう一度思い切り深呼吸をして、楓はようやく喉を震わせる。

「……く、九里さん」


 返事がない。


(声が小さすぎたかな?)

 楓はもう一度、彼女に声をかける。


「あの、九里さん……」


 やはり、返事がない。


 もしかして迷惑かな。無視、されてるのかな――。

 楓の心中は、不安一色に変わる。

 だが、楓は自分の胸を叩いた。

(勇気!)

 三度目の正直、楓は手を出して、彼女の肩をそうっと叩いて、

「……九里さん!」

 と声をかけて――、



「あ゛!?」



 グワッと顔を上げた九里繁縷に般若の顔で凄まれた。



「ひ、ひぇ……」

 楓は一瞬で蛇に睨まれた蛙と化した。なんとおどろおどろしい眼前の同級生。楓はあっという間に涙目になった。

(やっぱり話しかけない方が良かった!?)

 しかし、それは一瞬のことだった――楓には永遠に感じられたが――。彼女は般若の顔をすっと緩め、黄色いフレームの眼鏡の奥の大きな瞳を何度かぱちくりさせると、


「……ああ赤見内さん! ごめんネ! アタシ集中すると周り見えなくなっちゃって!」


 そう言って、歯を見せて笑った。


(よ、良かった……)

 楓は胸を押さえて荒く息をする。死ぬかと思った。今ので絶対に、寿命が縮んだと思う。心臓が破裂しそうだ。

 彼女――繁縷は楓の顔を覗き込み、青い顔をしている楓の目の前で掌をゆらゆらと振った。

「赤見内さんまだ具合悪いんじゃん? ダイジョブ? 保健室いく?」





「昨日の理科のノート? いいヨ! あーでもアタシ、理科に関しては人生終わってるからたぶん、いや絶対、確実に、1000パーセント参考にならないヨ! 字もきたないから読めるかわかんないっていうか、読めるワケがあるだろうか! いやない! って感じだし!」

「じ、人生終わ……、どこからどこまでやったかだけわかれば平気だよ」

 楓から「理科のノートを見せてほしい」との依頼を受けた繁縷は、笑顔で快諾したかと思えば早口でつらつらと自分のノートの問題点を列挙した。いつもの楓であれば「遠まわしにノートを見せたくないと言っているのだろうか」などと勘ぐってしまうところであるが、繁縷の話す勢いが猛烈すぎて、楓に思考する隙間を与えない。

「それにアタシのノート、ぶっちゃけ半分はネタ帳だから理科と全然関係ないこと書いてあるし、やった範囲もわかるか微妙なんだよネ! それでもいいなら、全然貸すヨ!」

「……ネタ帳?」

 楓が頭に引っかかった単語を繰り返すと、繁縷はやにわに立ち上がり、楓の机にバンと両手を置いてこう言った。

「脚本のネタ帳! アタシ演劇部で、脚本担当目指してるんだ! 思いついたことがあれば忘れないうちにメモするワケ。そういうコトで、国数英理社ノートは全部ゴッチャゴチャ! でも悔いはない!」

「え、え……演劇部なんだ?」

「そう! アタシ! 自分の作った脚本で劇やりたくて!!」

「う、うん?」

「それで先生に見てもらってんだケド、『お前の脚本はエグすぎてだめ』的なこと言われて死ぬほど直し食らっててさー! 自分ではイケると思ったのに、赤ペンの嵐なワケ!」

「す、すごいね……」

 繁縷のマシンガントークは留まるところを知らない。こんなハイペースの会話――会話と言って良いのだろうか、楓は相槌を打っているだけである――をするのは初めてだ。

 繁縷は声も大きければ、身振り手振りもかなり大きい。日焼けしていない、有り体に言えば生っ白い肌。染めてもいない、ざっくりと結んだだけの真っ黒い髪。そして、膝を隠すくらい長いスカート丈。もっと奥ゆかしいタイプの女子だと思っていた。

 ところが蓋を開けてみればこれほどのバイタリティ。楓は繁縷の言葉についていくのが精一杯だ。

「あ! 赤見内さんって、選択授業音楽っショ?」

「う、うん」

「音楽好き?」

「うん、音楽はす、好きだよ」

「ホント? アタシミュージカルが大好きで、今書いてるのもミュージカルにしたいと思ってるんだよネ! ミュージカルは好き?」

「ミュージカルは……あんまり見たことない、かな……でもすごいね、ミュージカル作りたいなんて」

 楓は感嘆した。こんなに明確な「何かをしたい」という気持ち。夢を持って、それを臆することなく語る繁縷の瞳、その姿は楓にはどんな金銀財宝よりもずっと美しく、輝いて見えた。正直なところ、これまでミュージカルに興味を持ったことはなかったが、ここまで熱く語られると、きっと自分の気付いていない魅力があるのだろう、と思わせられる。

 だが、繁縷が眼鏡のブリッジを中指で押し上げて、ニタリと笑い、

「フフフ……この厨ニ感あふれる脚本で、みんなの心に消えない傷を残してやるのヨ……」

 などと言うので、楓は気圧されるのだった。

 そして、楓が圧倒されている間にも、繁縷のトークはどんどん先へ進んでいく。

「赤見内さんはどんな音楽が好き?」

「え、えと、興味があるのは……吹奏楽と合唱かな……中学校が、どっちも強かったから」

「吹奏楽と合唱! いいネー! ていうか合唱好きならミュージカルも適正あるヨ! こんどおすすめのミュージカル教えるカラ! 円盤貸すヨ!」

「あ、ありがとう九里さん」

 楓がそう言うと、繁縷は腕を組んでうーん、と考え込む仕草を見せた。それから。


繁縷はこべでいいヨ! アタシも楓ちゃんって呼ぶカラ! 今からアタシたち、友達ネ!」


 そう言って、繁縷はウィンクした。

 楓の胸がどきりと湧いた。――「友達」。

「う、うん、えっと……繁縷ちゃん」

 楓が繁縷を名前で呼ぶと、繁縷はにんまりと笑って、両手でピースサインを作った。


 始業のチャイムが鳴り響く。

「あ、時間だ。じゃあノートは明日持ってくるカラ!」

「うん、ありがとう」



 話しかけてからというもの、楓は繁縷の勢いに終始押されっぱなしだった。だが、それでも。

(――良かった。クラスに一人、「友達」ができた――)



 繁縷の言った「友達」という響きを楓は忘れられず、次の授業中に何度もそれを思い出しては笑みをこぼしてしまい、それが恥ずかしくて教科書で顔を覆っていたら、今度は教師に体調を心配される羽目になった。

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