5 ガーディアンガールと伏見槐という少年
楓はメープルのフローリングの上を駆け回る。頭の中でイメージするのは、いつでも無駄のない、素早い動きだ。
だが。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
楓はよろめきながら蛇行するように、決められた陣地の中を走り回っている。その動きはイメージとは程遠い。
今日は月曜日。そして今は体育の授業中。
女子はドッジボールの真っ最中、そして楓は相手チームの的にされている真っ最中だ。
相手チームのコートにいる、背の高い女子。ポニーテールを三つ編みにした快活そうな少女がボールをキャッチした。彼女は隣のクラス、1年B組の生徒だ。クラスメイトとは違って時折楓ににこやかに話しかけてくれる、学校での楓にとって数少ない好人物の一人でもある。
だがしかし、彼女と顔を合わせるのはB組と授業が合同になる、体育の時間のみ。
そして体育の授業中、スポーツ万能な彼女は常に、楓にとっての鬼だ。
三つ編みが揺れて、ボールを持った腕に力が込められる。
「赤見内さん、そんなにあちこち動き回ってると……かえって目立って的になっちゃう、よッ!」
「あああああ!!」
スピンをかけたボールが曲がりくねって、情けなく逃げ惑う楓の背中に当たる。バシーン、と体育館中に音が響き渡り、ボールはぽとりと落ちた。
楓は痛む背中を撫でさすり、よたよたと外野に向かう。クラスメイトのくすくす笑いが厭わしかった。
*
(もうやだ……ドッジボールきらい……)
楓は体育館の隅で一人丸くなった。まだぶつけられた背中が痛い。今度もし彼女から話しかけてくれることがあるのなら、もう少し加減してほしいと伝えてみようか。だが、楓は彼女の苗字すら知らない。
ドッジボールは結局相手チームの勝利に終わった。まだ楓の息はぜえぜえと上がっており、持ってきたスポーツドリンクを飲んでも飲んでも喉の渇きは収まらない。楓はすっかりくたびれていた。
スポーツドリンクを飲み干して、ようやく息が落ち着いてきた頃。体育館を真ん中から隔てるネットの向こう側がわっと盛り上がった。楓はふと騒がしくなった方に目をやった。
隣のクラスの男子がオーバーハンドでトスを上げる。ボールが真上に舞い上がる。
スニーカーがフローリングを叩きつける助走の音。
駆ける足が深く強く踏み切ると、アタッカーは軽やかに、高々と跳ね上がった。
舞い上がったボールの頂点とアタッカーのジャンプの頂点が重なる。
右手を後ろに引き絞り、思い切り振り下ろす。
まるで風船が破裂するような強烈な音。
ボールは相手チームのブロックを巧みに掻い潜り、風を切ってネット線ギリギリに炸裂した。
スパイクを成功させた男子――伏見槐が着地すると、チームの男子は彼の周りに集まり、陽気に次々とハイタッチを交わす。相手側のコートから「またやられたーッ!」と悔しそうな、だが楽しそうな声が聞こえてくる。
女子側とはネットを隔ててバレーボールに盛り上がる男子側。楓はなんとなくその様子を見つめた。
楓が彼、槐のことを覚えているのは、ただ単に「前の席の生徒だから」というだけではなかった。
(伏見くん……5月の中間テストで学年1位を取った、すごく頭のいい人……)
5月に行われた、1年生初の定期試験。どうにも張り切りすぎた教師が多かったらしく「ちょっと難しくしすぎちゃった、てへぺろ」というリアクションを取った教師が続出。ほとんどの教科で平均点が50点を割るという、町一番の進学高に相応しいのか、相応しくないのか、という事態になった。『一高』に入学する生徒は、概ね中学生の頃の成績は順風満帆だ。中学生時代とのあまりのギャップに多くの新1年生たちが恐怖のどん底に突き落とされることとなった。楓もそれは例外ではなく、苦手な理科で人生初の50点台を記録し、ショックのあまりその日は紫苑と口が利けなかった。今思うと、他の教科ではそれなりに優秀な成績を残せたし、330人強の中で20位以内に入れたので、決して悪い結果ではない……むしろ良い結果だったのだが。
そんな阿鼻叫喚の氷結地獄の中、5教科全てで90点以上を叩き出し、他の生徒に圧倒的な差をつけて学年1位の座を勝ち取ったのが、伏見槐だった。
テスト結果が張り出された時の、1位が474点、2位が405点という圧倒的な点差に誰もが驚いたのを楓もよく覚えている。
またボールがコートに叩きつけられる音がして、スパイクが決まった。楓の意識は体育館に引き戻される。
「伏見パネェ、あのスパイクでもう5点取ってる」
「ジャンプ力鬼じゃね?」
「勉強も運動もできてすごいよね~」
男女を隔てるネット際に集まり、男子のバレーボールを眺めている数人の女子。一人が笑いながらこう言った。
「あれでもっと背が高ければねー」
彼女たちはけらけらと笑いながら、ねー、と声を合わせた。
槐は確かに小柄だ。確か、楓とそれほど背丈は変わらなかったと思う。ハイタッチをするチームメイトのうち、一番背の高い一人がつま先立ちになり、両手をギリギリまで高く伸ばした。あれでは槐はジャンプでもしなければハイタッチは届かない。槐はハイタッチはせずにその男子の脛を蹴った。他の男子がそれを見て笑う。
(今日の感じだと、特に金曜日のことはみんなに言いふらしたりはしてないみたいだけど……)
楓の視線は無意識に槐を追いかける。
槐はサーブのためにコートの後方に下がった。何度かボールをフローリングに叩きつける音に合わせて、座っている楓にも振動が響いてくる。
――相手側のコートを見据えていた槐が、ふと顔を上げて、首を動かした。
楓と、目が合った。
「……ッ」
楓は頬を真っ赤にして、慌てて顔を伏せた。
ボールを弾く音、すぐさまボールがコートに着弾する音がする。周囲の生徒や女子たちの「ナイスサービスエース!」「なに今のサーブやば!」などという声が楓の耳に次々と飛び込んできたが、楓は顔を上げることはできなかった。
*
「赤見内さん、ウチら部活の大会近くてさ。ちょっと抜けさせてもらっていい?」
放課後。
楓はクラスメイトたち、男女合わせて5人に囲まれていた。だが、それは楓にとって良い意味の「囲まれ方」ではない。
楓を取り囲むクラスメイトは、楓と同じ班のメンバーだ。今週は教室の掃除当番に割り当てられている。掃除に取り掛かろうとしたところ、班員たちに囲まれ、あっという間に楓は教室の隅に追い詰められたのだ。
楓は次の言葉に懐疑的なニュアンスを含めることを、我慢することができなかった。
「……みんな?」
「そー。みんな」
即答だ。
(いや全員部活違うでしょ……)
楓は一人ひとりの顔をそれとなく伺いながら、彼らの所属する部活を思い浮かべる。バスケ部、テニス部、陸上部。野球部、あとは――帰宅部。
要するに、楓に掃除当番を押し付け、自分たちはサボろうという心づもりなのだ。隠す気もないにやにやとした班員たちの卑陋な笑み。楓は嫌悪感を露わにするのをぐっとこらえた。
上背のある女子と男子が一人ずつ、楓に覆いかぶさるように寄ってくる。威嚇だ。楓は唇を噛みしめる。箒を持った手に自然と力が入る。
「……先生来たらどうするの?」
「トイレって言っときゃいいって」
食い下がる楓に若干の苛立ちを見せた男子がさらに威圧的ににじり寄ってくる。どん、と壁をにぶく叩く拳に、楓の肩がびくりと震える。胸が苦しくなる。
恐怖を自分では止められないのが、悔しい。
「こんなこと頼めるの赤見内さんだけなんだよ。お願い」
上っ面だけの笑顔を貼り付けた女子が、両手をすり合わせて懇願してくる。
楓はもう考えるのが面倒になった。
「わかった」
「ありがとー! 恩に着る!」
楓ににじり寄っていた女子が、さっきまでねめつけるように楓を見据えていたくせに、急にわざとらしい笑顔を作った。
班員たちは楓の前からあっという間に解散し、各々の荷物を担いで教室から出ていく。
楓はひとつ息をつくと箒を動かし始めたが、耳に届いた声に手を止めた。
「マジでちょっと寄っただけでビビったなあいつ」
「だから言ったじゃんチョロいって」
楓を嘲笑いながら、楽しそうに笑う声。なんて、醜悪。楓はさっきよりもずっと強く唇を噛んだ。
「……聞こえてるんだけど…………」
苛立ちが大きな口を開けて楓を飲み込もうとしている。飲み込まれれば最後、手に持った箒を床に叩きつけるだろう。
だが楓の心は苛立ちに支配されはしなかった。
深呼吸する楓。大きく吐き出した息と一緒に憎しみを少しでも吐き出していく。
「あんな奴らと一緒に掃除するなら一人の方がマシマシ。いなくて清々する」
楓は誰にも聞こえない、小さな声でそう囁いた。それは強がりだったけれども、本心でもあった。楓はまた箒を動かし始める。
*
そんなこんなで一人で掃除していたら意外に気持ちが乗ってきて、楓はあっという間に掃き掃除を終えた。いつも班員たちと一緒にやっていると、無駄な動きやらサボりやらおしゃべりやらでだらだらとしていて、倍くらいの時間がかかるものだ。
黒板も綺麗にしたし、掃き掃除のために教室の後方に押し込めていた机たちも半分は元の位置に戻した。あとは残りの机をあるべき場所に戻し、机に雑巾がけをすれば完了だ。終わったら図書館に行こうかな。ああ、それとも。ゆずやめーちゃんから携帯にメッセージが届いているかも。そうしたら、アカザさんのアパートに集まるのかな。譲葉や棗、ライチにアカザ。彼女たちの姿を思い起こすと、楓の足取りは軽くなる。
ガラリ。教室の引き戸が無造作に開かれる音。それから、誰かの足音。
(まずい、先生かな、なんて言おう)
この事態を大事にはしたくない。そんな思いで楓は足音のした方を恐る恐る振り返った。
そこには、いつも通りの黒いリュックを背負った、伏見槐の姿があった。
(……伏見くん!)
楓は思わず顔を逸らした。そして、平静を装って机を黙々と運ぶ。そう、この場に何も違和感なんてない。他の班員がいない? 気のせい気のせい。
――だから、できれば話しかけないで――
「なんで一人で掃除してるんだ?」
楓の願い虚しく、槐は遠慮なく楓に声をかけた。
楓は言葉に詰まった。事実、押し付けられたのだが、押し付けられたと人を責める言い方をするのは好きではない。それに、下手なことを言って報復されたらという怯えが心の中にあった。
「えっと……みんなはその……席を外してて……」
最終的に歯切れの悪い返事しかできない楓。ああもう、私のバカ……。自己嫌悪が胸の中を満たす。
そういえば、槐は何をしに来たのだろう。楓は話題を変えるためにも思い切って訊いてみることにした。
「伏見くんはどうしたの……?」
「忘れ物取りに来た」
いともあっさり、彼は答えた。
ああ、今私は同級生とまともな会話をしている。この1年A組というクラスに割り当てられて、初めてじゃないだろうか。実感が湧かない。体がふわふわする。――それはようやくやってきた同級生との会話の機会がもたらしたものなのか、それとも「彼」と話しているからなのか。
そこではっとする。黒板に向かって左半分の机はまだ教室の後方に追いやられている。忘れ物を取りに来た彼のために、机を元の位置に戻さなければ。
「あ、じゃあ伏見くんの机動かす、待ってて」
楓はそう言って槐の机に寄った。一番前の机だから、他の机をどかす必要はない。早く動かそう――ところが、彼は自分の机と楓との間に割って入った。
……私には机、触られたくないってことかな。刹那、楓の胸中にそんな思いがよぎる、だがそれは一瞬だった。
槐はひょいと自分の机を持ち上げるや否や、
「手伝う」
と言ってのけた。
楓は目を丸くした。
「俺が机運ぶから、拭き掃除頼む」
「えっいいよ、と、当番でもないのに……」
楓は狼狽し、一拍どころか三拍も四拍も遅れてやっと遠慮の意を口にした。だが槐は黙々と机を運び出す、先程まで楓がそうしていたように。
私がやるから、となおも言い募る楓の前に、雑巾のかかったバケツが差し出された。拭き掃除のために楓が用意して置いておいたものだ。
「さっさと終わらせようぜ」
真っ直ぐに差し出されたバケツと、真っ直ぐに見つめてくる瞳。楓はしばらく口を金魚のようにぱくぱくさせてまごつくだけまごついたが、
「ご、ごめん……」
と言いながら、最終的にバケツと雑巾を受け取った。
*
一人で黙々とやる掃除が二人で黙々とやる掃除に変わると、それはあっさりと終わってしまった。
申し訳ない気持ちでいっぱいの楓をよそに、槐は机の中に手を突っ込む。中からペンケースが出てきた。どうやら忘れ物というのはそれらしい。
ペンケースをしまい、リュックを背負って帰ろうとしている槐に、楓は咄嗟に声をかけた。
「伏見くん、待って!」
槐が足を止めて振り向く。楓は自分のスクールバッグを開けて、ハンカチを取り出した。ブルーのストライプ。金曜日に彼に会った時、肩に巻いてもらったハンカチだ。
「……ハンカチ、洗ったから……、返すね」
まるで賞状を受け取る時のように、頭を下げて手を真っ直ぐ伸ばしてハンカチを差し出す楓。恥ずかしくて、槐の顔がなかなか見られなかった。
ふわり、開け放った窓から風が吹き込んでくる。
楓がおっかなびっくり顔を上げると、槐はゆっくりと手を出して楓の手からハンカチを受け取る。それから、ハンカチと楓を何度か見比べた。
「正直、女子の顔なんてあんまり覚えてなかったけど……本当に、お前だったんだな、あの時の」
「うっ」
墓穴を掘ったことに気付いてダメージを受ける楓。言わなければあのまま忘れられていたかもしれないのに、
「腕の怪我、もういいのか」
「えっ、あっ、も、もうなんともないよ」
突然の問いかけに、しどろもどろに答えると、槐はそっか、と言って沈黙した。
そうだ、自分は助けてもらったのだ。お礼を言わなければ。
楓は胸に手を当てて、槐にばれないようにこっそり深呼吸を繰り返すと、思い切って口を開いた。
「あの、金曜日は本当にありがとう。その、色々事情があって変な格好してたけど、それも言いふらしたりしないでくれて、ありがとう」
どうしても言いたかったことを、楓は早口で伝えた。ちょっとまくしたててしまっただろうか。何を言っているか伝わっているだろうか。不安が心の中をよぎっては消えていく。
槐は首をかしげた。
「……言いふらしたって俺はなにも得しないだろ」
楓はその言葉に雷にうたれたような驚きを覚えた。
「――だって、」
言葉が無意識に口をついて出たが、その言葉は槐には届かなかった。
腕時計を見て、槐は瞠目している。
「やべ、塾遅れる。悪い、俺行くわ」
その反応に、楓も我に返る。
当番でもない人に掃除を手伝わせて、しかも引き止めてしまった。
「あっ、ごめん引き止めて、色々ありがとう」
「気にすんなよ。じゃあな」
楓は深々と頭を下げる。楓が頭を上げると、槐は軽く首を横に振った。そして踵を返して、いそいそと教室を出ていった。
教室に取り残された楓。
しばらくその場に棒立ちになっていたが、やがて楓は歩き出し、開放していた窓をひとつひとつ閉めていく。
閉めた窓に鍵をかけながら、楓は思い出す。満点のテストを受け取って、そのまま尻餅をついたあの日。
あの瞬間、彼がどうしていたかはわからないが、きっと楓のことを笑ってはいなかっただろう。根拠はないけれど。
(……だって、他の人は人の恥ずかしいことをネタにして笑いものにする。それをしない伏見くんは……立派な人だよ)
全ての窓を閉め終えて、楓はそう心の中で呟いた。
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