4 ガーディアンガールと縞模様のハンカチ
『ツノの生えたナイトメアは見なかったよ。あたしが戦ったのはいつものハネ生えたやつ』
『角はハチャメチャに堅いわ。楓が斬れなかったくらいね。でも角さえ避ければ簡単に斬れたわね』
『でんでんが簡単に切れても……、わたしは上手にぶてないからなあ~』
棗、ライチ、譲葉のやりとりが耳の奥でぼんやり響くが、楓の頭の中にまでその言葉は届かなかった。
同級生に、
楓の頭の中はペンキをぶちまけたようにみるみる真っ白になっていく。
「いやこれはその……、この格好はそのあの……」
どうしよう。どうすればいい。ただでさえクラスでうまくいっていないのに、こんな非常識な格好をしている所を言いふらされでもしたら。なんとかうまく言い逃れなければ。
考えれば考えるほど頭の中は白で埋め尽くされていき、言語は何も思い浮かばない。
少年は自分が掴んでいたドアノブと、開いた扉から飛び込んできて座り込んでいる楓とを何度か見比べる。それから、不意に口を開いた。
「お前、大丈夫か」
その言葉は鉄骨製の非常階段にぶつかり響き渡り、そして楓の胸を無情にグサリと突き刺した。
(頭が大丈夫かって!? 大丈夫じゃないです!! もうどうしたらいいの!?)
目頭がかっと熱くなる。恥ずかしくて泣きそうだ。
楓は羞恥心に耐えることができなかった。そして頭の中に残された、取る行動はただ一つ――逃避だ。
「わっわ、私のことは幻かなにかだと思って忘れて」
そう言って立ち上がり身を翻そうとした楓の左腕を少年はがっちりと掴んだ。
「あわぁぁあ!!」
楓は半泣きで悲鳴をあげた。逃避も許してもらえない。これから自分はどうなってしまうのか。がくがくと震えながら、自分の腕を掴む少年を振り返る。
そして、楓は目を見張った。
まっすぐな視線。
彼の表情は、楓を見下したり、笑いものにしたりするような――楓の心に「刺さる」類のものではなかった。
「――その怪我、大丈夫かって言ってるんだ」
真剣に楓を見つめる少年の瞳と、震えながら瞬く楓の瞳が交錯する。その言葉を言語として理解するのに、楓はしばらく時間を要した。怯えて硬直していた体から徐々に力が抜ける。楓が何度かまばたきをすると、瞳の表面に溜まりそうになっていた涙が乾いていく。
それから、もう痛みを感じない右肩の切り傷を思い出した。
「……あ、このくらいなら、治癒能りょ……じゃなくて、かすり傷だから、放っておいても……」
楓はライチの言葉を取り繕ってたどたどしく繰り返す。改めて傷を見ると、傷はつけられたときからかなり塞がっており、血もほとんど止まっていた。傷を作った時に流れた血の跡が残っているだけだ。ばくばくと音を立てていた心臓が少しずつ大人しくなっていく。
だが少年はそれを許さなかった。一歩、楓に向かって踏み出す。
「じっとしてろ」
「わっ!」
彼は楓の左手を引いて、強引に楓を座らせる。そして背負っていた黒いリュックを下ろして、ジッパーを開けてその中身を漁り始めた。いつも学校に持ってきているリュックだ、見覚えがある。彼はリュックからペンケース、社会の用語集、小さなメモ帳と様々な物を出している。一体何をするのだろう。楓は再び縮こまった。
最終的に彼はリュックからではなく、ポケットからブルーのストライプが入ったハンカチを取り出した。
腕出せ、と右の袖をくいと引っ張られ、言われるままに右腕を差し出すと、少年は楓の肩の傷に丁寧な手付きでハンカチを巻き付けていく。一巻き、二巻き。ハンカチが血を吸って、清潔な白と青のコントラストの中に赤黒い色がじわりとにじんでいく。楓は驚いた。そして、自分などのためにこんなことしなくてもいいのに、と思った。楓は申し訳なさそうに眉を寄せて、少年の顔を見上げる。彼は楓の視線に気づくと手を止めて、楓がなぜ気の毒そうな顔をしているのかわからない、といった風で、不思議そうに言った。
「怪我を放っといて良いことなんかないだろ」
明るいブラウンの瞳と目が合う。楓は自分の胸が脈打ち、かっと発された熱のようなものが心の臓から体の先まですうっと通り過ぎていくのを感じた。
それきり、少年は楓の傷口に視線を落とし、ハンカチの先を結びだす。楓は何か言おうとして何も言えず、わずかに口を動かすだけだ。
ハンカチの先がきつく結ばれた。
「できた。ハンカチはやる」
起伏の少ないトーンでそう言って、少年はリュックから出したものを大雑把にしまい、ジッパーを閉めて立ち上がる。座り込んだままの楓の視界に、重たそうなリュックを背負う背中が映る。
「じゃあ俺行くから。家帰ったら、ちゃんと消毒しろよ」
少年はそう言って非常階段からビルに通じるドアを抜けようとする。
楓は立ち上がり、その背中に向かってやっとの思いで声をひねり出した。
「あ、ありがとう……」
彼は背を向けたまま、ひらりと片手を振った。
開きっぱなしの非常階段への扉。楓は去りゆく少年の背中が見えなくなるまでずっと見送っていた。
*
ナイトメアの気配はもう感じない。
アカザのアパートの近くで楓は棗・譲葉と合流した。棗は何をやらかしたのか、ライチからの説教を浴びている。
「でんでんその腕どうしたの~……?」
譲葉が楓の右肩のハンカチに気づいた。
「あ、えっとこれは色々あって……ねえ、ライチ……」
楓はあのビルで起こったことをライチに伝えようとするが、ライチは棗を叱るばかり。ライチは暗闇の中でもはっきりわかるほど顔が赤く、完全に頭が煮えたぎっている。さすがの棗も反抗するのが面倒なようで、言われるままに受け流している。耳を傾けると、やはりと言うべきか、棗はライチの目の前でバズーカを放ったらしい。これでは楓の話はとても聞いてくれそうにない。
「ねえでんでん~、ツノの生えたナイトメアってどんなやつだったぁ?」
譲葉が話しかけてくる。楓はライチに話しかけるのは諦め、それに応じる。
背丈は譲葉よりも高く、寸胴といった体型で、手足は短く、鋭い角を持っていること。角は刃物のような切れ味を持っていて、右肩の怪我もそれでやられたこと。角は剣が通らないくらい固いが、角以外の部分は攻撃が通ること。など、楓はナイトメアの情報を譲葉と共有する。
(……あれ。なんか、ひっかかる……)
楓は何かに対して違和感を覚えたが、それは延々と棗を怒鳴り続けるライチの声にかき消されていった。
*
浴室を満たす湯気。バスソルトを入れた湯船から立ち昇る花の香り。楓は紫色の湯に身を沈めていた。
結局、ライチが棗を怒鳴り続けている間にかなり夜が更けてしまい、楓は父が帰宅して面倒なことになる前にと一足先に棗たちのもとを離脱した。服を脱ごうとした直前に、譲葉から「まだやってる」とメッセージが届いたので、おそらく譲葉たちはアカザが貸してくれたアパートに篭って、まだああでもないこうでもないというライチの説教を聞いているのだろう。
楓は右肩に貼った幅広の絆創膏に指を沿わせる。帰宅した頃には傷が塞がるどころか完全に傷跡も消えていたが、なんとなく消毒液で傷のあった場所を浸して、絆創膏も貼った。
絆創膏を眺めていると、なんだか恥ずかしい気持ちになってきた。
(男の子に親切にされるなんて、……初めてだ……)
――やあい、貧乏神……
――こっちに来たぜ、貧乏菌が伝染るぞ……
――菌が伝染ったら、母親に捨てられるんだ……
中学校での記憶が蘇る。楓は中学生の頃、男子に嫌がらせを受けていた。
――いいか楓。男ってのはバカだ。バカだから、気になる女の子に意地悪して気を引こうとするんだ。父ちゃんも
譲葉も棗もクラスが離れて会いにくくなり、クラス内外からの男子による嫌がらせに耐えきれずいよいよ
もっとも、楓自身はあれを「気になる女子に対するちょっかい」ではなく「嫌いな相手にする嫌がらせ」だと思っているが。
そういうわけで、楓はこれまでの人生で男子と親しくしたことはなかった。話しかけに行くこともなければ、男子の話題が出れば曖昧に笑ってその場を立ち去る。中学校でできた女友達の間では「男嫌い」で通っていたくらいだ。……本当は「男が怖い」のだけれども。
そんな楓が、初めて、男子からの親切を受けた。
(いや別に親切にしたつもりじゃないのかも……私があんな格好だったから憐れまれただけかもしれない……)
脳裏によぎる同級生の少年の姿。怪我を案じてくれる言葉。ハンカチを巻きつける時の繊細な手付きと、真剣な表情。
――怪我を放っといて良い事なんかないだろ。
確かに、至極その通りだ。楓はガーディアンガールだからこそあの怪我がかすり傷になるのだが、あの傷を事情を知らない人間が見たら驚くだろう。彼は怪我をした人間の手当をするという当たり前のことをしただけなのだ。それなのに。
頭から湯気が立ち昇るような感覚。頬が熱くなるのも心なしか鼓動が早いのも、決して
(いやいやいや……初めて親切にされたからってこんな……さすがにチョロすぎるでしょ……)
どうしてなのか、まともに思考ができない。頭も胸中もいっぱいいっぱいになって、楓はぶくぶくと浴槽の中に沈んでいく。
そういえば、
(うう……月曜日、学校行きたくないよ……)
かくして、楓は困惑と憂鬱にまみれ、勉強もろくに手につかない土日を過ごすはめになるのだった。
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