6 ガーディアンガール・結界展開

 小道の信号機が赤と黄色に明滅を繰り返している。街灯のいくつかが弱々しく点いては消える。

 家の前の通りを抜け、大通りに続く道を楓は夢中で走り続けた。アミュレットが伝える嫌な気配がどんどん強くなる。

 大通りに差し掛かる一つ前の交差点で、楓は人が倒れているのを見つけた。急いで助け起こす。楓と同じ制服。茶色く染めた長い髪。その人物は、今日学校でノートを貸した同級生だった。

「しっかり……しっかりして!」

 楓は呼びかけるが、同級生はぐったりとしたまま動かない。ライチの言葉が頭の中にこだまする。

 ――最悪のケースだと、体が耐えられなくて死に至る場合もあるわ。

 楓は蒼白となり、同級生の手首を掴んだ。……脈はある。息も、している。ぞわぞわとする心を落ち着けるように、楓は胸をさする。

(どこか、安全な所に連れて行かなきゃ)

 楓は同級生を支えて立ち上がろうとしたが、意識を失った人間の体は想像以上に重たい。楓の力では彼女を動かせそうにない。このままではまずい、そう思ったその時、上空から全身を悪寒が貫く。見上げた視界の隅に、黒い闇。


 ――ナイトメアだ!

 それは楓の真上でゆったりと飛んでいた。翼を広げて飛び回る姿は離陸直後の飛行機を見上げた時のような圧迫感を与えてくる。改めて目に入る巨大さに、楓は天を見上げながら口からひゅうと浅く息を吸い込んだ。ナイトメアはばさりと大きく羽ばたき、黄色く点滅する信号機の上に止まった。

 ナイトメアは黒い塊で、目、口、鼻らしきものは見当たらない。――暗闇の中だから見えていないだけかもしれない――だが、楓はナイトメアからの視線を明確に感じた。ナイトメアは楓を見ている。楓は体を起こし、同級生を背に庇い、信号機の上のナイトメアを睨んだ。

「……来ないで……!」

 ナイトメアは翼を小刻みに動かす。その意図は読めないが、楓には威嚇に思えた。

 とっさに出てきてしまったが、楓はナイトメアを倒すために何をすればいいのかわからなかった。ナイトメアを見据えながら、宝石を両手の中に閉じ込めて、祈るように指を折る。だが、宝石は手の中で冷たく光るだけだ。どんなに念じても、譲葉や棗が持っていたような武器は現れてくれない。どうして出てきてしまったのだろうという後悔が胸に広がるがすぐに心の外に追いやる。同級生をこのままにはできない。助けたい、なんとかして助けなければならない。

 ナイトメアの翼が大きく広がると、黒い塊はゆっくりと浮かぶ。……こっちに来る!

(……彼女だけでも守らなきゃ……!)

 楓は両足を踏ん張り、同級生を庇って両手をめいっぱい広げる。

 ナイトメアが楓めがけて勢いよく滑り降りてくる。楓は目を瞑った。




 キイン、と耳鳴りによく似た音がするや否や、閉じた瞼の向こうでまばゆい光が広がるのがわかった。

「……え?」

 楓は少しずつ目を空ける。月光のようなやわらかい金色の壁が広がっていた。光の壁の先に目を凝らすと、飛んでいたはずのナイトメアが地に落ち、翼をめちゃくちゃにばたつかせて黒い煙を撒き散らしている。攻撃を受け、悶え苦しんでいる――?

 目の前に、人が立っている。足元から浮き立つ光の中に着物姿がくっきりと浮かび、吹き上がる風に袖の振りがはためく。黒い着物の右袖にだけ、明媚な花の模様が刺繍されている。金の帯に真っ赤な帯揚げと帯締め。

 光が徐々に薄れ、夜の闇の中に溶けてゆく。眼前の人がゆるやかに振り向く。その人の目尻には赤土化粧によく似た朱色が塗られている。白磁の肌をした、美しい女性がそこにいた。

「君、意識はあるかい」

 楓は居を衝かれる。見惚みとれている場合ではない。現状を打破しなければならない。

「は、はい……でも私より……」

 楓がそう言って同級生の方を見やると、女性も倒れている少女に気がついた。女性は穏やかな足取りで同級生に近づくとゆるりと屈み、力なく横たわる少女の額に掌を当てる。きっちりとまとめられたひっつめ髪に簪が差し込まれているのが楓の目に入った。女性は手を離すと、楓に微笑んでみせる。

「気を失っているだけだ。大丈夫、異常はない」

「……良かった」

 楓はほっと胸を撫で下ろす。

 すると、女性はすっと立ち上がり、手を伸ばして楓の右手に触れた。白い指先が楓の手の甲をなぞり、楓はどきりとする。思わず触れられた右手を握り込み、爪が掌にゆるく食い込んだ。手元から女性に視線を移すと目が合う。

 優しげな瞳の色は、荘厳にそびえ立つ鳥居を思わせる深い朱色だった。


「アミュレットを持っているんだな。変身トランスしないのかい?」


「トラン……ス?」

 楓は女性の言葉を繰り返した。聞いたことのない単語だ。女性はおや、と首をかしげる。

「君、ガーディアンガールではないのか?」

「……そうなれとは言われました、でも……」

「それの使い方は?」

 そう言って女性は楓の手の中のアミュレットを指差した。楓は俯き、首を横に振る。口惜しいが今の楓には何もわからなかった。

 女性は帯に挿していた扇をしなやかな手付きでするりと抜いた。扇の先を顎に当てて少し考え込む仕草を見せ、ふむ、と扇を少し開いて口元を隠す。艶のある漆黒に華やかな金色で梅を描いた親骨から、山吹色の扇面がちらりと姿を現す。それから女性はふっと笑って少し肩をすくめた。

「やれやれ……おおかた、ろくな説明もされずに投げ出された、ってとこか」

 女性は扇を閉じて、空いた左手で前髪を後ろに撫で付けた。そして俯いたままの楓の肩をぽん、と軽く叩いてこう言った。

「君が気に病むことは一つもないさ」

 楓は女性の顔を見上げた。女性の瞳にはずっと余裕の色がある。たった今出会ったばかりなのに、この人の傍に居れば安心できる。楓は不思議と彼女に惹き込まれていた。

 空気がひりつくのを感じる。ナイトメアの視線だ。悶え苦しんでいたナイトメアがようやく体勢を立て直し、楓たちを見ている。女性はナイトメアに向き直り、楓の前に進み出た。彼女が手にした扇の先から、火をつけた線香の煙のような、光のすじが立ち昇る。

「私はアカザと言う。君は?」

「あ、赤見内楓、です」

「……楓」

 女性――アカザは目を細めて、楓の名を繰り返した。ナイトメアが翼を広げて飛び上がり、体当たりを仕掛けてくる。危ない、と楓が口にしたその瞬間、女性は腰を低く落とす。突進してきたナイトメアが接触する目前で、居合に似た動きで扇を横一直線に払う。光が幾重にも重なって広がり、ダイヤモンドダストのように周囲がきらめく。光に絡め取られて、ナイトメアの動きが空中でぴたりと止まった。あっという間の早業に楓は唖然として立ち尽くす。

 彼女は扇を真上から力いっぱい振り下ろし、華奢な扇で無防備なナイトメアを粉砕する。


「――いい名前だ」


 黒煙を噴き出し霧散するナイトメアには目もくれず、アカザはそう呟いた。

 だがそれで終わりではない。今度は楓たちの背後にある手芸店の屋根から、ナイトメアが二体姿を現す。

「……また出てきた……!」

 楓がそう言うと同時にアカザは新手のナイトメアの方に向きを変え、扇を開いた。ナイトメアはひしめきあい、ただこちらに視線を送っている。楓が今まで出会った二体のナイトメアは出合い頭に突っ込んできたが、屋根に陣取るナイトメアたちが翼を広げる様子はない。

 楓がナイトメアの動きを注視していると、アカザは楓の隣に並び立った。

「さて。君はこれからどうする?」

 唐突な問いかけに、楓はアカザの横顔を見た。横目で楓を伺うアカザと視線が交錯する。今まで見せていた優しい瞳とは違う、力のある眼差し。楓は射抜かれたように動けなくなり、唇を引き結ぶ。

「人知れず町を守る魔法使いとして目覚めるか。それとも、そのアミュレットを妖精に返し、何も知らない一般人として日常に戻っていくか。その場合は今見たことは墓までの秘密だが」

 それは、決断を迫る言葉だった。

「今ならまだ引き返せる。これ以上アミュレットを持っていると、君はてしまう」

 楓は右手のアミュレットに目線を落とす。アカザは扇を構えてナイトメアたちを牽制しながら話し続ける。

「私個人の意見を言うと、力を持つことを勧める。君は今後もこの怪物どもに狙われるだろうからな」

 だがアカザの声色は淡々としており、たとえばライチが抱いていた楓に対する望み――ガーディアンガールになって欲しいという、希求は見えない。

「もし君が戦うと言うのなら、私には君に力を貸す用意がある」

「……」

「君が立ち上がるなら私は喜んで手を差し出そう。だが立ち上がるのは君の足だ」

 ただ、楓に選べと言っているのだ。今ならまだ、選べると。

「……私は…………」

 楓は両手に力を入れる。声がわずかに震える。何ができるかもわからないのに、いても立ってもいられずに飛び出してきてしまった自分。

 学校で思うように振る舞えない、孤独な自分。

(……ゆず……、……めーちゃん)

 戦い、そして笑い合っていた譲葉と棗。

 三人で机を囲んで笑い合っていた頃の記憶。

(……お父さん……)

 頭を撫でてくれた父。

 ――自分の気持ちに正直にな。

 その言葉が耳の奥で響く。

 楓は左手を自分の胸に当てた。

 俯いていた顔を上げる。楓は息を吸って、吐いた。


「……私、戦います」


 強い風が吹き、楓の髪を激しく揺さぶった。アカザは何も言わず、ただ目で楓を追っている。楓は心の中の言葉を正直に口から発していく。

「自分のことは自分で守れるようになりたい。それに……今みたいに誰かが危険に晒されてる時、きっと黙っていられないから」

 アカザは視線をナイトメアに移した。そして静かに、こう述べた。

「ガーディアンガールは縁の下の力持ちだ。英雄にはなれないぞ」

 ライチの言葉が思い出される。――魔力が少ない人間は結界の中では眠ってしまうし、結界の中で起こったことも目を覚ましたら忘れてしまう――。

 楓が誰かを助けたとしても、その記憶は残らない。ゆえに、称賛されることはない。認めては――もらえない。

 同級生に『使える』と言い放たれ、何度も嗤われた記憶が脳裏に蘇る。楓はそれを振り払って、一歩を前に踏み出した。

「……それでも構いません」

 もしかしたら、認めてもらえないことを嘆く未来が来るかもしれない。英雄になれないことを、憂う未来があるかもしれない。

 それでもいい。楓は今、たった今決意した。

「私は……自分の力で今を変えたい!」


 アカザが楓の肩に手を置く。その顔を見ると、さっきまでの鋭い表情はどこへやら、彼女は悪戯っぽく微笑んでいる。あまりの表情の変化に楓は面食らった。

「……いいだろう!」

 アカザは扇を持った右手を思い切り振り上げた。四方八方に矢のように光が放たれ、ナイトメアは逃げ惑う。ナイトメアが後退するのを確認し、アカザは素早く楓の手を取った。そのまままっすぐ前に突き出させる。

「アミュレットを手首にかけるんだ。掌を上にして、手を前に伸ばす。アミュレットのレールに、君の鼓動を乗せる」

 楓は言われるままに右手首にアミュレットをかけ、ぶら下げる。赤い宝石が揺れる。

「それから変身トランスの呪文を唱える。私に続けて。『結界展開』」

「結界……展開」

 楓の足元からふわりと風が巻き上がる。血潮が沸き立ち体の中から溢れてくる熱。ナイトメアたちが怯んだのが見えた。アカザがすかさず続ける。

「目を閉じて。『我が呼び掛けに応えよ』」

「……我が呼び掛けに応えよ」

 楓の足元に魔法陣が展開した。桃色の光が楓の足元からとめどなく湧き上がってくる。

 どくん、どくんと、鼓動が頭の中で大鐘のように響く。だがそれは恐怖の鐘ではない。高揚感、それから――勇気だ。

 アカザは楓からすっと離れ、扇を閉じる。

「続きの呪文は、君の魂が知っている」

 心の奥から湧き上がってくる言葉。楓は閉じていた目を見開き、最後の呪文を唱えた。


「――我は十字の騎士クルセイダー。闇から地を守護する者なり!」


 アミュレットから真紅の光がほとばしり、楓の全身を包む。透明な水に濃い絵の具を垂らしたかのように楓の髪に瞬時に赤が広がる。楓の髪は毛先まで美しいルビーの色に染まった。



 楓の細い手を白い手袋が、細いふくらはぎを厚底のロングブーツが包み込む。パニエで広げられた白いスカートは細やかなレースで飾られている。胸元には飾りリボン。薔薇色のコルセットとオーバースカート、指先にかけて大きく広がる薔薇色の袖、金の袖口からは純白のフリル。純黒のドレスハットに紺のサテンのリボンがゆらゆらと長くたなびく。楓は瞬く間に赤の装束に包まれた。

 アミュレットが柔らかな光に包まれ、宝石を蝶の羽のようなオブジェが包む。そして、そこから刃と柄が真っ直ぐに伸びる。

 透ける刀身を持ち、赤く燦めく長剣を楓は手に取った。



 白いブーツが一歩前に踏み出る。足音に合わせてスカートが揺れる。夜の闇の中、水面に映る朝焼けのように赤い光がゆらめく。

 楓は建物の屋根にいるナイトメアを見やった。変身トランスするまではぼんやりとしかわからなかったナイトメアの気配が手に取るようにわかる。ナイトメアがこちらを警戒していることも。

 ナイトメアの一体が突然空高く飛翔する。逃げられる、楓は直感した。だが、ガラスが割れるような音と閃光が奔り、ナイトメアは見えない天井にぶつかり失速し、元いた場所に逆戻りした。

 楓が目を見開いて空を見上げると、扇を帯にしまったアカザが不敵に笑う。

「結界だ。やつらに逃げ場はない」

 今までずっと楓を守ってくれていたアカザの力の気配はもうしない。夜の闇を照らすのは楓から溢れ出る光だけだった。しかし、恐ろしくはない。

 他の誰でもない、自分が、目前の脅威ナイトメアを排除する。

 楓は右手に剣を持ったまま駆け出した。信じられないほどに体が軽い。いつもいつも走るたびにもつれて転げていた足が、今はこんなにも真っ直ぐに迷わず踏み込める。


 ――今なら、できる。


 長剣の柄を握る手に力を込めた。その目線の先には飛び立とうとしているナイトメア。アカザが楓に呼びかける。

「さあ、新しきガーディアンガール。そのつるぎで、ナイトメアを倒してみせてくれ!」

 楓はフェンスを蹴って駆け上がり、三角屋根の上に登る。二体のナイトメアが翼を広げ羽ばたいた。一体は旋回して回避行動を取る。もう一体は空高く飛び上がった――滑空攻撃の前触れだ。旋回するナイトメアの気配を全身で追いかけながら、上空のナイトメアを見据え、楓は両手で剣を構えた。

(逃げ場がないとしても、飛んで逃げ回られたらきりがない。なら、移動手段を奪う!)

 真っ黒いナイトメアは、ダムから放流された水のように滑り落ちてくる。楓の目にはその動きが鮮明に映った。真紅に変わった楓の瞳が捉えるのは、迫り来るナイトメアの翼の付け根。――いまだ!

 両足を踏みしめて右下から左上に剣を振り抜く。

 異形を斬った確かな手応えと噴き出すどす黒い煙。右の翼を奪われたナイトメアは転がりながら屋根の下へ落ちていく。楓はそれを追いかけて屋根の上から飛び降り、アスファルトに着地した。普段の楓では、いや、普通の人間では怪我をする高さからの跳躍。だが驚いたり感嘆したりしている余裕は今の楓にはない。ナイトメアを倒す、それだけが楓の頭の中を占めていた。

 翼をもがれたナイトメアが足元でもがいている。楓は蠢くナイトメアを足元に見下ろし、剣先を向ける。

 旋回して楓の後ろをとったもう一体のナイトメアが加速する。楓はそれにも気付いていた。楓は呼吸を整え腰を深く落とす。ナイトメアが楓に接触するまで残り数秒。

 楓は腰を高速で回転する独楽のイメージで捻って、吠える。

「――やあああああッ!!」

 右足が地面を蹴り上げて、楓の体がぐるりと反時計回りに回転する。振り向きざまに薙いだ剣が飛んできたナイトメアの翼をかわして胴体を切り裂く。勢いのまま左足を軸にしてさらに体をねじり、足元のナイトメアを槌で叩き潰すように袈裟斬りにする。林檎に真ん中から包丁を入れたようにぱっくりと、二体のナイトメアは切断される。

 煙が噴き出し、やがてそれは霧のように消えていき、剣を振り下ろした楓の姿だけがそこに残った。

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