5 少女と父のことば

 21時30分を時計の針が回る。静かなダイニングに時計の針の音だけが響く。

(結局帰ってきちゃった……ゆずとめーちゃん、大丈夫かな……)

 譲葉と棗、そしてライチに置き去りにされた楓。少しその場で待ってはみたが、音沙汰がないので帰宅を選んだ。夕食を冷蔵庫の残り物でなんとかやりくりし、直後に帰ってきた紫苑を迎えた。

 紫苑はフリーランスのライターだ。なので、基本的には家でノートパソコンに向かって仕事をしているのだが、取材や付き合いで外に出る事も稀ではない。ただ、紫苑は元来21時から22時には床につき、朝の3時から4時には起きる、自他ともに認める超朝方人間だ。夜間の外出で疲れたのだろうか、風呂は朝に入ると言い、歯を磨いてそそくさと眠りの世界へ行ってしまった。

 楓はやかんの湯をマグカップに注ぐ。やわらかく心をほぐすココアの香りが湯気とともに立ちのぼる。マグカップを持ってテーブルに戻り、椅子に座ってココアを一口。甘くて、おいしい。

 テーブルには教科書とノートが開かれている。楓はシャープペンシルを手に取り、ノートに引かれた青いマーカーにそって視線を動かす。ワイマール憲法。社会権的人権の保証。生存権。

 ……頭に入らない。譲葉と棗のことが気にかかる。そして、今自分の胸にある妖精からの贈り物も。


『あなたもガーディアンガールになりなさい。そしてこの風ヶ原町を守るの』


 ライチの声が鮮明に蘇る。楓は首にかけたネックレスの先をつまみ上げ、透き通った赤い宝石をしげしげと見つめた。妖精ライチはこれをアミュレットと呼んだ。楓の頭の隅の隅にある魔法使いもののアニメの知識と、その後のライチの言動、そしてこれを見た時の譲葉と棗の反応を合わせると、これが魔法を使うためのキーアイテム、ということなのだろう。

「町を守る……かあ」

 立派な宝石があしらわれている割に、さほどの重さはない。指先を動かすと石が振り子のようにかすかに動く。赤い石を縁取る金色が蛍光灯を浴びてちかちかと輝いた。

 譲葉や棗のように武器を取り、町を守る自分の姿を楓は思い描くことができない。運動神経の悪い楓には、到底あのナイトメアという怪物を倒すなどという芸当ができるとは思えなかった。それに。

 同じページが開かれたまま、ずっとめくられない教科書。

「勉強する時間も惜しいし……」

 町を守ることを選んだ時、その行動にどれだけの時間が必要となるのだろう。成績が悪化するのは避けたかった。父も、楓の勉強への向き合い方、成績の良さは喜んでくれている。しかし、譲葉と棗が町のために行動しているにもかかわらず、自分を優先することに罪悪感も湧き上がる。楓は今日何度目かわからないため息をついた。


「なにため息ついてるんだ~?」

「わあッ!」

 楓は急いで制服の中に首飾りをしまい込んだ。こんな立派な宝石を見られてしまったら、どんな誤解をされるかわかったものじゃない。寝たんじゃなかったの、と声をかけてきた紫苑に問うと、ちょっと起きただけだ、すぐ寝るよとのんびり答えが返ってくる。楓の斜め向かいに腰掛けて、紫苑は肘をついた。まだ心臓がうるさく鳴っている。

「ところでどうした? 学校で何かあったか? 悩みなら聞くぞ」

「な、なんでもないよ」

 楓は紫苑から目を逸らした。ついさっき想像を絶することがあったが、言えるわけがない。

 また、学校での重苦しい生活、独りでいる気まずさを父に伝えるには色々な感情が邪魔をする。いつも自分を大切にしてくれて、可愛がってくれて、必死で自分を守ってくれている父に、これ以上迷惑をかけたくない。

 すると、紫苑は両手で自分の頬を包み込み肩をきゅっと縮めておどけてみせた。

「も、もしかして恋の悩みか!? じゃあ父ちゃんには言えないな!!」

「ち、違うよ!」

 楓は慌て半分、呆れ半分に否定する。胸の辺りに両手を当てて、大したことじゃないよ、と吐く息混じりに伝え、目を伏せる。すると紫苑はむ、と唇を突き出し、縮めていた体をすっと開いた。

「大したことない、なんてことはないぞ」

 父の声に、楓は顔を上げる。紫苑はゆっくりと身を乗り出し、楓の目をじっと見て、優しく言い聞かせるようにこう説いた。

「悩みにくだらないものなんてない」

 楓は目を見開いて、何度かまばたきをした。

「誰かが大したことないって言ったとしても、お前が悩んでるのなら、それは真剣な悩みだ。……だから、父ちゃんは聞いてやりたい」

「……お父さん……」

 胸の奥にじんわりと温かいものが広がっていく。父がこうやっていつも優しい言葉をかけてくれるのが、楓は嬉しかった。

「ま、悩み相談にもタイミングがあるしな。言いたくないなら無理はするな。ここはお前の家なんだから、話すも話さないもお前の自由だ」

 そう言うと、紫苑は歯を見せて笑った。そしてキッチンに向かい、コップに水を注いで一気に飲み干す。

 楓は手を当てっぱなしの胸にそっと問いかけた。

 学校のこと、将来のこと、そしてさっき起こったこと。悩みは色々あるけれど、今日は頭の整理がつかないし。

「……うん、今日はいいや。今度聞いて」

 楓はそう言って、父に微笑みかけた。張り詰めていた肩から少し力が抜けた気がする。紫苑はシンクでコップを洗い終え「おう、いつでもウェルカムだ」と言って、両手を広げてみせた。ありがとう、お父さん。楓がそう言うと、紫苑は楓の隣を通りすがりに、ぽんと楓の頭を撫でた。

「楓。楽しく生きろよ。それと、自分の気持ちに正直にな」

「……う、うん」

「うまくいかないことがあっても、父ちゃんは楓の味方だからな。おやすみ」





 シンクの上の水切りラックには、洗ったばかりのマグカップ。

 教科書とノートを胸元に抱えて、楓は立ち尽くしていた。

「楽しく、生きる……」

 紫苑の言葉を繰り返す。

 楽しかったことを思い出す。小学校、中学校の記憶。楽しいことをあまり知らない楓を、譲葉と棗はいつも誘って連れ出してくれた。譲葉の家に遊びに行った時、見たこともない高級そうなケーキとお茶菓子を振る舞われ、もったいなくてなかなかフォークを刺せなかったこと。棗にゲームでコテンパンにされて、勝つまで頑張ると意気込んだら日が暮れてしまい、棗の父に家まで送ってもらったこと。クラスが同じ時はいつも休み時間のたびに集まり、クラスが別れた時には手紙を書いて渡し合った。

 楓の楽しかった思い出の中には、いつも譲葉と棗がいた。


「……ゆずとめーちゃんが一緒なら、もっと毎日が楽しくなるかな……」


 中学校3年生になり、『一高』を目指すことを決め、受験勉強に打ち込むようになってから、二人とは一緒にいることが減ってしまった。高校に入ってからは、会う機会もなくなり、そのまま今日に至った。

 譲葉と棗がいる、『ガーディアンガール』という世界。そこに飛び込めば、もしかしたらあの頃のように、もっとたくさん笑って過ごせるかもしれない。

 ――でも、戦うってどうやって?

 重ね重ね、町を守る自分の姿を、楓は思い描くことができない。

 楓はようやく歩き出し、自室のドアノブに手をかける。

「……やっぱりだめだ、わからないことが多すぎる。考えるのは、もっとちゃんと話を聞いてからに――」


 ぞっと不快感が体中を駆け巡る。

「――!!」

 おぞましい気配。胸にかけたアミュレットから何かが首筋を伝わって、血液と一緒に心臓から全身へ嫌悪感が送られていく。ドアノブをひねったまま、楓は全身を緊張させる。自然と拳がぐ、と固まる。良くないものがいる。排除しなければならない。頭の中でサイレンがうねり響いている。

(これが――ナイトメアの気配!)

 楓は胸にかけていた首飾りを外し、その石を手の中に転がした。宝石が危険を訴えかけている。

 楓は自室に教科書とノートを放り投げ、アミュレットを握り締めて家から飛び出した。

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