4 少女と不思議の世界

「さっきの黒いやつはねぇ、『ナイトメア』って言うんだ~」

「ナイト……メア?」


 自販機で買ったカフェオレを飲み干した譲葉がそう言ったので、楓は恐る恐るその言葉を繰り返した。


「にんげんの魔力を吸う悪いやつナンダヨ~」

「人間の、ま……まりょく……?」

 楓は譲葉の紡ぐ不思議な単語をまたオウム返しにした。言葉の意味がわからない。さらに、譲葉は空になったカフェオレの缶に口を寄せて、缶の中で自分の声をボオオンと反響させて遊んでいるので、その滑稽な様子に気を取られてしまう。

 ガードパイプに腰掛ける譲葉の緑色の長い髪は、風もさほどないのに金魚の尾びれのように柔らかく揺らいでいる。すっと揃えた足元で、金のサンダルが街灯を受けて時折ふわりと光る。譲葉は性根こそのんびりしているが、頭のてっぺんから爪先まで姿勢良く、その佇まいには気品がある。その上、のほほんとした口調に反して表情筋が働かず、意外と無表情だ。いつでも淡々と課題をこなすさまが、小さな頃から周囲にしっかり者と映り、何度もリーダー役を任されては楓と棗の前でだけ「わたしには向いてない~」と肩を落としていたっけ。


「吸われどころが悪いと死んじゃうんだって~」

「し、死ぬ」


 昔を回想していたら唐突に、しかもこともなく紡がれた「死」という単語。楓はぞっとした。先程まで自分は命の危機に瀕していたということか。肩にかけたスクールバッグがずっしりと重く感じられ、まだ開けていないミルクティーの缶から指先に冷たさが伝わってくる。そこにライチと名乗った――妖精が横槍を入れる。

「あーもう、アンタに任せてると要領得なさすぎ。私が説明するわ」

 ライチがやってきたのを見ると、譲葉は「まかせるね~」と言い、楓の横を離れ、500円玉を片手に自販機と睨み合う棗の方に歩み寄っていった。楓はそれを見送るとライチに向き合うが、程なくして、

「ぷは~! 仕事の後の缶コーヒーは最高だぜ~!」

 といななくような棗の声が飛んでくる。「めー、おやじくさい~」とそれを茶化す譲葉の声も。ライチがうるさいと言わんばかりに二人を――主に棗を睨みつけるのを見て、楓の視線も二人の方へまた向いた。譲葉に茶化された棗が、「そんなことを言うのはこの口か」などと言い、背の高い譲葉に飛びついてその首を締め上げている。

 譲葉は棗のことを「めー」と呼ぶ。譲葉と棗は楓が二人と知り合う前からの付き合いで、お互いに対する物言いには遠慮がない。棗は譲葉がおっちょこちょいをやらかす度に遠慮のもなく爆笑するし、譲葉はのったりとした口調で意外とシニカルに棗を茶化すのだ。その結果、あんなふうに取っ組み合いのじゃれ合いになることもままある。

 自販機の明かりに照らされる譲葉と棗だが、むしろ緑と青で構成された二人の明るい色が自販機を照らし返しているようで不思議だ。二人はライチの睨みに気付いているのかいないのか、一切気にせずじゃれついている。

 ライチが咳払いをしたので、楓は改めてライチに向き直った。

 呆れ顔で腕を組んでいるライチ。よく見ると、ライチはかなり大胆というか、露出度の高い服装――そもそも「服」を着ているのかどうかも定かではないが――をしている。大きく開いた胸元に、ハイレグのビキニやレオタードを思わせる格好。だが、扇情的というよりは、まるで彫刻の女性を見ているような、神秘的な雰囲気だ。それに全体的なシルエットは子供の頃に絵本で読んだ妖精の姿そのものだ。額とデコルテに赤い色が光っているのが印象に残る。

「はじめに言っておくけど、これは全部現実よ。『トクサツ』でもなければ『ドッキリ』でもないわ」

 ライチは最初にそう前置きした。特撮でもなければドッキリでもない。楓は半信半疑だったが、とりあえずは彼女の言葉を信じることにする。

 花の茎のような細い手が伸びてきて、楓の胸元を指差した。

「あなたたち人間には『魔力』が備わってるの。多くの人間はそのことを知らずに生きていくけどね」

 魔力。楓は頭の中の辞書をひいた。人を惹きつけたり、惑わしたりする力。あるいは、魔法を使う能力。

「ナイトメアはあなたたち人間の魔力を吸い取ろうと、夜な夜な現れるわ。特に10代の女の子は強い魔力を持っていることが多いから、よく狙われるのよね。ナイトメアに襲われて急激に魔力を奪われると、人間は衰弱してしまうの。最悪のケースだと、体が耐えられなくて死に至る場合もあるわ」

 楓はライチに指さされた自分の胸を押さえた。この体に魔力というものが存在し、それをナイトメアという存在が狙っている。頭の中で言語にすることはできたが、実感はまるで湧いてこない。楓はライチに質問した。

「ナイトメア……って、なんなん……ですか?」

「正直に言うと、まだ私たちにもわからないわ。でも私たちは人間社会が壊れたら生きていけなくなるの。ナイトメアは私たち妖精にとっても有害なのよ」

「だからわたしたちはナイトメアをやっつける~」

 気がつけば楓の横に戻ってきていた譲葉の声。

 棗は缶コーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱に放り込んでからこちらに向かってくる――かと思えば、なんと宙返りして譲葉の隣に着地した。楓は仰天する。楓と違って運動神経は良い棗だが、こんな大技をいつの間に身につけたのだろうか。

 棗は銅鑼を鳴らしたような大声をあげる。


「そう! 我々こそが!」


 そして譲葉が棗の後ろに立つ。


「ナイトメア絶対倒すマン~」


 二人は懐かしい特撮のような、あるいは今売れているお笑い芸人のような、半端なポーズを決めて、


「ガーディアンガール!!」


 と叫んだ。




「………………」

 ぽかん、と口を開けたままの楓。ライチは溜まったストレスを全身の力をもって吐き出すかのように、大きなため息をついた。

「……私たち妖精のほとんどは、直接ナイトメアに手を出すことができないわ。だから、魔力のある女の子に『魔法の力』を与えて、戦う存在である魔法使い『ガーディアンガール』になってもらう。私たちの代わりにナイトメアを倒してもらうわけ。自分自身、そして町を守ってもらっているのよ」

 そう言ってライチは譲葉と棗を振り返る。

 魔法の力。ガーディアンガール。ナイトメアを倒す。

 まるで御伽噺だと、楓は思った。そういえば、毎週日曜日の朝にはそういう内容のアニメが流れていた気がする。確か、棗は彼女の弟と一緒に、「特撮テレビ番組」と「魔法使いの女の子が出るアニメ」を毎週楽しみに見ていたはずだ。

 ――譲葉と棗は、『ガーディアンガール』なるモノになり、ナイトメアという脅威と戦っている。

「……信じ、られないな、なんだか、夢を見ているみたい」

「夢じゃないぞ!」

 楓の言葉に即座に棗が反論した。それから、

「ひゃく……ひゃく……ひゃくほにゃがふにゃふにゃのしかず!」

 何か諺を言おうとして思い出せないでいる。

「……百聞は一見に如かず?」と楓が口に出すと、棗は「それ!」と楓を指差した。

「でんでんは見たでしょ、あのコウモリみたいなハネのついたナイトメア。あたしたちが駆けつけなきゃ、でんでんヤバかったよ」

 棗の声のトーンが落ちる。真剣な表情に、楓は息を呑む。

 棗はいつも明朗快活。思ったことはなんでも口に出すし、ころころ笑い不満があれば怒る。いつでもどこでもムードメーカーで、なんでも冗談めかして話す。そんな棗が、こんなに低いトーンで話すことはめったにない。それが楓に、何よりの説得力としてのしかかる。

 譲葉も棗に同意して頷く。二人は楓に嘘をついていない。これは、現実なのだ。

「あなた、楓って言ったっけ? これ、あげるわ」

 ライチは楓に向かって手をかざす。すると、楓の胸元に小さな光が浮き上がる。光の中から、赤い宝石に金があしらわれた美しいネックレスが現れ、慌てて差し出した楓の手の中に転がり込む。何の石だろうか。赤い宝石といえばルビーだが、生憎楓は石を見分ける目は持っていない。楓は宝石を顔に近づけて覗き込んだ。

「これは……?」

「アミュレットよ」

 ライチがそう言うと、棗が「おおっ!?」と声を上げ、譲葉が「それは~……」と神妙な顔を見せる。

「ガーディアンガールが活動してる時、彼女たちの周囲には結界が展開されるわ。並の魔力の人間は結界の中では眠ってしまうし、結界の中で起こったことも目を覚ましたら忘れてしまう。今、この二人を前にして意識を保っていられるあなたは、かなり強い魔力の持ち主よ」

 そもそも魔力がないと私の姿も見えないしね、と結ぶライチ。その背後で譲葉と棗は何やら目配せと妙ちくりんなボディランゲージで意思疎通を試みている。

「あなたはこれからまたナイトメアに襲われないとも限らない」

 楓はライチのその言葉に気圧された。またこんな目に合うのかと、怯えと不安が去来する。だが次の瞬間、ライチの口からは思ってもいない言葉が飛び出した。


「だから、あなたもガーディアンガールになりなさい。――そして、この風ヶ原町を守るの」


「…………え?」


 楓は固まった。譲葉と棗との懐かしいやりとりを見ていて落ち着き始めていたはずの頭が、また急速回転しだす。


「……いや、そんな、急な……」

「あなたは強いガーディアンガールになるわ。素質があるもの」

「いや、その……私、運動の類はからきしで……」

「ガーディアンガールになれば、運動能力は飛躍的に向上するの。心配ないわよ」

 ライチは得意げな笑みを浮かべている。

「いや……、あの……」

「いいじゃんいいじゃん! いざとなったらあたしが守ってやるからさ!」

 楓が困惑していると、その肩を棗がガッチリと抱いた。それから、棗は自分の胸をドンと叩く。

「ん~、わたしもでんでんのためなら腕によりをかけてたまごサンド作ってくる~」

「あ~ゆず太郎のたまごサンドうまいよね~ってピクニックかよ!」

「あたっ」

 譲葉がどこか主旨のズレたことを言うので、棗はジャンプして譲葉の頭をチョップした。そうして、まごつく楓をよそに二人は「でんでんが仲間になる~」「これは朗報」などと言って手を叩きあっている。

 だが楓には、譲葉や棗のようになれる自信はこれっぽっちもなかった。胸の中が重たくなり、息が詰まる。

 こんな自分が、戦うだなんて。町を守るだなんて。

 楓は俯き、消え入りそうな声で呟く。

「私に、そんなこと……」


 譲葉と棗が突如、顔を上げた。


「出た。ナイトメアだ」

 棗が低い声で囁く。楓は慌てて周りを見渡すが、つい先刻楓を恐怖の底に突き落とした暗闇はどこにもいない。

「ここじゃないよ~、もっとあっち」

 譲葉が街路樹の向こうを指差した。見えないということは、建物の影、いや、もっと遠くにいるということか。あの怪物の存在を、譲葉と棗は感じ取っているのか。

「誰か襲う前に仕留めるぞ!」

「うん~」

 棗が拳を握り締め、譲葉はそれに応える。二人が手を天に翳すと、二人の武器が光に包まれて現れた。いつの間に消えていたのだろう、楓は全く気付いていなかった。棗が槍にまたがると、槍についている装飾の翼が羽ばたく。そして棗の体はふわりと浮いた。さながら魔女の箒のようだ。

「でんでんごめん、あたしたち行かなきゃ! 詳しい説明はまた後でするからさ!」

 棗が声を張った。譲葉は握手をするように、楓の手を両手で包む。

「でんでん、またねえ」

 空を飛ぼうとしている棗、そして今目の前にいる譲葉。二人から光が溢れ出すのがわかった。これが魔法の力なのだろうか。

 いずれにせよ、二人はこれから戦いに行くのだ。楓は譲葉の手を握り返した。

「めーちゃん、ゆず……えっと、その、気をつけてね」

 言葉にしてから、もっと他に言えることはないのかと胸を痛める楓だが、棗と譲葉は笑顔で応える。

「サンキュー!」

「ありがと~」

 譲葉は棗に駆け寄ると、棗の後ろに――棗の槍に座った。二人はどんどん宙に舞い上がっていく。譲葉がライチに手を伸ばす。

「いこ~、ライチ」

 最後まで楓の傍らで飛んでいたライチは楓に向かって、

「そういうわけだから! よろしく頼むわよ!」

 そう言って、譲葉と棗を追いかける。彼女たちはあっという間に飛び去ってしまった。

 一人残された楓。暗くなった道端。譲葉と棗、ライチがいなくなり、二人とライチが放っていた光で明るかったことに気がつく。

 楓の手の中で光る赤い宝石。


「………………よ、よろしくと言われても……」


 楓は虚空に呼びかける。返事はなかった。

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