3 少女と邂逅そして再会

 宵闇の路地に佇む街路樹を、街灯がぼんやりと照らしている。生ぬるい風がガードレールの下をすり抜けるように通り過ぎていく。楓はスクールバッグを何度も抱え直し、小走りで家路を急ぐ。

「ずいぶん遅くなっちゃった……」

 風ヶ原第一高校から目と鼻の先、歩いて数分の場所には市立図書館がある。豊富な蔵書と充実したインターネット環境、読書や勉強のためのブースも備えたかなり大きい図書館だ。清潔感があり、静かで、そしていつも快適な学習室に通い詰めて勉強するのが楓の日課だった。普段であれば17時過ぎには図書館を出る楓だが、今日は昼間の憂鬱を吹き飛ばしたい一心で集中していたらいつの間にか閉館時間になってしまった。

 楓は時計の盤面を見る。早く帰らないと、楓は息を弾ませながら大通りから脇道へ入った。背の高い街路樹が立ち並ぶ大通りが、植え込みの赤い花が咲き誇る道へと姿を変える。このゆるやかな坂を下りきってから小道を左に曲がれば、徒歩ならば十分弱ほどで我が家が見えてくる。携帯電話スマートフォンを確認したが、父からは電話もメールもなかった。外に出ているのだろう。夕食はどうしようか。冷蔵庫に昨日食べたハンバーグの残りが入っていたと思ったけど。


 道を照らす灯りが揺らぐ。

 横断歩道を渡ろうとする楓の足がぴたりと止まった。道路のど真ん中に、何かいる。小さな影。野良猫か何かだろうか。猫なら逃げていくだろう、楓はゆっくりと近づいた。だがそれは逃げない。何か変だ、と思ったその時。


 楓の全身に悪寒が突き抜けた。

 見られている。楓はなぜかはっきりとそう感じた。『それ』から、音がする。歯車が回るような、あるいは獣が肉を食いちぎるような、もしくは水を含んだ布が地面をずるずると引きずられていくような。空気を震わせて耳に届く音は気色悪く、楓の背をぞわりとしたものが駆け上がった。

「……なに……!?」

 楓は思わず後ずさったが、『それ』は徐々に近づいてくる。弱々しげにまたたいていた街灯がひとつ落ちる。闇が深まったはずなのに、『それ』はいよいよ輪郭を増した。遠目には小動物に見えた『それ』は、実際は人の頭より一回り、いや二回りほど大きい、丸い形をした何かだった。どこまでも黒く、ブラックホールのように果てしない闇が、自分を飲み込もうと口を開けている、そう楓には感じられた。聞いたことのない異音が耳に届き、『それ』の頭頂部と思わしき部分から、二本の触覚のような何かがぬるぬると姿を現した。

 これは――普通じゃない。

 鼓動が早鐘を打つ。逃げなければ。頭が痛くなるほどガンガンと鳴り響く警鐘。全身の体温が下がっていくようだ。不安に苛まれてあちこちに鳥肌がたつ。指先の感覚がわからなくなってくる。これは悪いものだと体が告げている。逃げなければ――

 足がもつれる。楓は悲鳴を上げて倒れ込んだ。痛みに耐えて起き上がろうとしたが、もう眼前に『それ』は迫っていた。『それ』は楓の視線の先で、蝙蝠の羽のような両翼を広げた。小さい何かだと思っていた『それ』は、あっという間に大きな翼を持った化物に姿を変える。その翼は街灯の明かりを遮り、楓の頬に影を落とす。足が動かない。体が鉛のように重い。恐怖すると動けなくなるって、本当だったんだ――と、楓はどこか他人事のように思う。『それ』は大きく羽ばたいた。体がこわばる。


 その瞬間だった。


「……ぅおどりゃ―――――!!」

 女子の雄叫びが轟き、猛スピードで何かが突っ込んでくる。

 突っ込んできた何かは『それ』――黒い何かに激突した。黒い何かはゴムボールのように勢いよく撥ね飛ばされ、数メートル向こうの家のフェンスにぶち当たった。

「……え!?」

 楓は顔を上げた。二人、人影が降り立つ。一人は長身で髪の長い、もう一人は小柄で短い髪の、二人とも女性――少女だ。楓は震える手をきつく握り締めながら眼前の光景に目を見張った。楓を背にして立つ少女たちの髪が不規則に揺らぐ。この闇の中なのに、少女たちの姿は明瞭だ。まるで少女たちそのものが光源になっているようだ。


「……ざんねんだったな~、きみたちはここまでだあ」

 黒い何かに向かって長身の少女が珍妙なポーズを取りながら緊張感のない間延びした口調で告げ、

「あたしたちが来たからには、お前らに悪事はさせないよ!!」

 小柄な少女が胸を張って、神社の拝殿にぶらさがる真鍮の鈴を思わせる声を張り上げた。

 楓は少女たちが手に何か長い物――武器を持っていることに気付く。長身の少女が持っているのは、大きな翡翠色の宝石が嵌め込まれた杖。小柄な少女が持っているのは、銀色に輝く三叉の槍だ。穂先が街灯に照らされて、きらりと光った。

「――照準固定ロックチェイン

 長身の少女が右腕を振りかぶる。杖が釣り竿のようにぐんとしなり、翡翠色の宝石から白い光が溢れ出す。真一文字に杖が薙ぎ払われると、白い光は縄のように編み上げられ、紐状ラインに姿を変えて射出される。光の縄は幾何学模様めいた複雑な軌道を描いて飛んでいったかと思うと、黒い何かにぐるぐると絡みつき、縛り上げるようにそれを拘束した。

 広げた翼がもがいてうねる。長身の少女が後方を振り向き「捕まえた~」と言うと、小柄な少女は「オッケー!」と応え、跳んだ。信じられない、平屋の屋根に登れるほどの跳躍力だ。

「……瞬間加速アクセラレイター!」

 右手に槍を構えた小柄な少女の体が弓のように反り返るのを楓は硬直したまま見ていた。


「喰らうがいい……必殺ッ! なつめバズーカ!!」


 掛け声とともに、小柄な少女の手から槍が放たれる。それは目にも止まらぬ速さで風を切り、黒い何かを貫き通した。少女が着地するのと同時に、黒い何かは体のあちらこちらから勢いよく黒煙を吐き出す。そして、やがてさらさらと消えていった。


 二人の少女がハイタッチする姿が楓の目に映る。

「よーし! ミッションコンプリート!!」

「今日もいい仕事をした~」

 楓は立ち上がろうとするが、足がなかなか言うことを聞かない。今起こった出来事が頭の中で処理できない。だが、それでも楓にはわかることがあった。楓は目の前で笑い合う二人の少女に助けられたこと。

 そして、その少女たちに見覚えがあること。

 楓はかすれた声で、少女たちに話しかける。

「あの、もしかして……」

 楓がそう言った途端、小柄な少女が首をぐりんと回して楓を見、しばしの沈黙ののち「意識がある……だと……!?」と驚愕の声を上げた。

 長身の少女は先程までの緊迫した状況に似つかわしくないのんびりさで楓に歩み寄り、「大丈夫~?」と言い首をかしげた。

 やはりそうだ、楓はこの二人を知っている。楓はおずおずと、二人に呼びかけた。


「……ゆず? めーちゃん……?」


 長身の少女がぬっと顔を上げた。「もしかして~……」と声を漏らし、そして楓の顔を覗き込んでくる。小柄な少女も走り寄ってきた。二人の顔が楓の瞳に映る。二人は楓の顔をゆっくりじっくりしっかりと見つめて、それから声を揃えた。

「……でんでん!?」

 ああ、そうだ。楓は二人にそう呼ばれていた。この二人は、楓の―――

「な――――つ――――め――――――――ッ!! アンタバズーカ禁止って何回言ったらわかるのよ!!」

 聞き覚えのない声に楓の思考は遮断される。彼方からまばゆい光の玉のようなものが舞い込んできて、楓は口を開きかけたままフリーズした。光の玉のようなもの――よく見ると、蝶のように羽ばたいている――は楓を救った少女たちに向かってギャンギャンと怒鳴り散らす。

「これで何回目!? バズーカは隙が大きすぎるからやめろって言ってるでしょ!! 譲葉も黙って見てないで止めなさいよッ!!」

 小柄な少女の表情がみるみるだるそうに萎れていく。その顔に、はっきりと「うざい」という感情が浮かび上がってくる。顔に書いてあるとはまさにこのことで、頬に字が浮かんできそうだ。

「あの隙に隠れてるやつに攻撃されたらどうやって避けるのかって私はあれだけ!! このバカ!! アホ!! すっとこどっこ」

「うっさい」

「ムグッ!!」

 小柄な少女は喚くそれに向かって素早く手を伸ばして無慈悲に握り潰した。呻き声がしたかと思うとやがて少女の手の中からモゴモゴと抵抗する声が聞こえてくる。彼女はそれを握り固めたまま楓に向き直り、「うざい」の顔を一瞬で満面の笑顔に変えてみせた。

「でんでんめっちゃ久しぶりー!! いつぶり!?」

 その声に我に返る楓。小柄な少女の質問には楓ではなく、長身の少女が「中学の卒業式ぶりかなぁ」と答え、それから楓に手を差し伸べる。

 楓は長身の少女の手を借りてようやっと立ち上がった。小柄な少女の手の中では光がまだ暴れまわっている。

「ひ、久しぶり……ゆずに、めーちゃん……」


 長身の少女、『ゆず』こと、香月かつき譲葉ゆずりは

 小柄な少女、『めーちゃん』こと、黒羽根くろばねなつめ

 二人は楓を『でんでん』の渾名ニックネームで呼ぶ、小学校からの幼馴染で、親友だった。


「こんな所で偶然再会するなんて運命感じるわー!」

 そう言って棗は楓の両手を自分の両手と繋いで喜ぶ。棗がぐるぐると回るので、楓はそれに振り回される形になった。

「そうだね~」

 譲葉は棗の言葉に頷いた。のんびりした、花の舞いそうな声色だが、それに反して彼女は無表情だ。

 久しぶりの再会に嬉しそうな二人とは対照的に、楓は状況が飲み込めておらず、まだ緊張した面持ちだ。突然現れた黒い何か、そこに現れてそれを殲滅した二人の少女、その二人は楓の幼馴染。これだけでも楓の頭の中を混乱させるのには十分だった、そして。


「二人とも……髪の毛がすごい色になってるけど……それに、その格好は……?」


 二人の姿が楓の混乱をさらに深めていた。

 譲葉は長くボリュームのある髪を、以前と変わらずポニーテールに結い上げている。そこまでは良いのだが、その髪はエメラルドのような緑色に輝いているのだ。染めるか、ウィッグでもかぶらなければありえない色だ。胸元には深い緑を基調とした胸当て。白からくすんだモスグリーンにグラデーションを描くロングスカートの左足部分にはスリットが入っている。左肩に真っ赤なフェイクフラワー。肩に巻かれた象牙色のストール。そして、金色のサンダル。

 普通の格好ではない。第一、譲葉は今いる場所から車で1時間はかかる、森の奥の全寮制の高校に進学したはずだ。本来、こんな時間にこんな所にいるわけがないのだ。

 一方、棗。耳が隠れる程度のショートカットは譲葉同様、中学校の頃と変わらない。だが、その髪はサファイアのようなブルーに煌めき――これも染めるかウィッグでも、以下略――、両耳の上あたりには星型の髪飾りが踊る。真っ青なブレザーと紺のプリーツスカート、スカート丈はかなりのミニだ。袖からは青と金の刺繍が入った豪奢なフリルが覗いている。足元はストラップ付きの青いヒール。

 棗は学校帰りによく遊びに歩くタイプだったが、それにしても遊びに行く格好ではない。

 到底普通じゃない、浮世離れした格好だ。有り体に言えば――コスプレだ。

「ブハァッ!!」

 と、ずっと棗の手に捕まってもがいていた光がようやくその手を振りほどいた。

「……ゼエ、ハアッ……なによ、アンタたち、知り合い?」

 光は息切れ混じりで、二人に話しかける。

「そーだよ」

「小学校と中学校一緒だったんだぁ」

 棗が右手を握ったり開いたりしながら答えて、それに譲葉が情報を付け加える。光はまた棗に捕らわれるのを恐れてか、棗と距離を取る。

 ふわふわと明滅し、羽ばたく光。その中から声がする。楓は思わず呟いた。

「ちょうちょが……喋ってる……」

「ちょうちょじゃないよ~」

 真上からのんびりした譲葉の声が降ってきて、楓は背の高い譲葉を見上げた。

「っていうかでんでん、そいつ見えてんの?」

 棗がそう言ったか言わないかの辺りで、光る蝶は楓の周りをくるくると回り出した。楓は思わずそれを目で追う。何周かした後、光る蝶は楓にそろそろと近づいてきた。やがて、楓の視界にその姿があらわになる。

 楓は驚嘆の声を上げた。蝶だと思ったそれは、ヒトの形をしていた。頭と胸と腹だけではなく、すらりとした四肢を持っている。10センチと少しくらいの大きさの、羽の生えた小人。絹糸のような山吹色のロングヘアがさらさらと揺れる。ぱちぱちとまたたくピンクパープルの瞳とふんわり赤く染まった頬が美しい。まるで、小さい頃遊んでいた玩具おもちゃ人形ドールが動いているようだ。小人は楓の鼻先にさらに近づいてきた。まるで品定めでもするかのように楓を眺め見る。楓は思わずのけぞった。

「ふうん……あなた結界の中でも眠らないのね」

 そう言うと、小人は腰に両手を当てて、胸を張った。


「私の名前はライチ。妖精よ」


「……………………」

 楓はぴたりと手を頬に当ててから自分の頬をつねった。痛みがある。

 棗は光の速さで手を伸ばして頬をつまみ勢いよくひねりあげた。

「夢じゃないんだなーこれが」

「いたい」

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